メッセージ - C年 年間

今日の福音朗読はそのまま先週の朗読の続きです。イエスのメシア的な使命についての考察です。福音書全体にも見られるパターンだと言っても良いのですが、預言者や神から大事な役割を任された人々はまず自分の故郷から活動し始めるのが普通です。それから、最も親しい人を相手にすればするほど、断られたり使命が失敗で終わったり可能性が高いということも言えます。他方で、人間的な考え方に囚われてしまえばどうなるかというと、人々に受け入れてもらえるべく、厳しいお知らせを和らげて、人が聞きたそうな話をするという危険、傾向も考えられます。

イエスもまず育った故郷ナザレから神の言葉を告げる活動を始めます。いかにも人間らしく、その話を聞いた人々は(実は既に近くのカファルナウムという街でイエスが行なった癒しのことが耳に入ったようなので)、説教などは聞きたくなく、自分たちも奇跡が見たいと思っていました。イエスの語り始めた最初の頃の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」と「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し[た]」という言葉の断絶の著しさに驚かされます。イエスのエルサレムへの入城の時にもまた繰り返される現象ですが、やはり、人間の心は非常に変わりやすいものです。しかし、イエスはそれに負けず、人々の好みに流されてしまうようなことはしません。

イエスのような「預言者以上の使命」だけではなく、私たち一人ひとりには神から与えられた使命というものがあります。生まれる前から神によって特別な任命を受けます(第1朗読)。それらは似ても似つかぬもので、一つひとつ掛け替えのない役割であって、誰も代わりに果たすことができないのかもしれません。だからこそ、価値の優劣もありません。皆等しく、自分のミッションを誠実に成功させることに苦労しますし、周りの人々の支えがあれば嬉しいのですが、残念ながらそんなことは稀です。むしろ、みんなが知っているこの「ただの大工の息子」として知られている人は神の使者であり得るなんて想像できず受け止めることができないのと同じ、あるいは似たような経験をするに違いありません。

間に挟まれている第2朗読は無関係にも見えなくありませんが、実はどの使命よりも大事な使命、また、神から課され神のために成し遂げられる全ての役割に共通している本質について書かれています。それは愛に他なりません。預言する人や奇跡を行う人よりも、愛を実践している私たち一人ひとりの方が、目立たなくても、実はずっと優れているのだ、ということを強調しています。

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