メッセージ - C年 年間

第一朗読のダビデの物語は大変感慨深いものです。自分を追い回って殺そうとする相手に報復する絶好の機会が与えられても、ダビデはサウルを殺すことを拒みました。「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」というのがダビデの理由です。ダビデは単に神からの罰を避けるためにサウルへの報復をしなかったのでしょう。決してそうではありません。自分を敵対した人であっても、ダビデはサウルの死を望んでいませんでした。「今日、主は私の手にあなたを渡されましたが、主が油注がれた方に手をかけることを私は望みませんでした」と。そしてその後、アマレク人との戦いで戦死したサウルの訃報を聞いたダビデは、サウルのことを「麗しき者」と呼び、サウルとその息子ヨナタンの死を大いに悲しみました。

ダビデがサウルに取った態度は、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉そのままです。イエスご自身も「敵を愛しなさい」ということを教えるだけではなく、生き方を持って模範を示しています。自分を十字架に掛けた人々のために、「父よ、彼らをゆるしてください。自分は何をしているのか分からないからです」。イエスが教える「愛の掟」は言葉ではなく、生き様です。そして、愛の実践の最も見える形、しかし同時に最も難しいのは「ゆるし」だということは、誰にでも日常生活の中で経験しているのではないでしょうか。

私たちは、「やられるとやり返す」ということが常識になっているような社会の中に生きています。国レベルでも、個人のレベルでも。しかし、これが世の中の基準となっていけば、世界に争いが後を立たなくなってしまいます。憎しみの連鎖を止めるのはゆるし以外に他にはないです。イエスの十字架はまさに憎しみをゆるしの力で自分の中に吸収して、愛に変えることではないでしょうか。

これは決して綺麗事ではありません。最初の人間、アダムの子孫カインは嫉妬によってその兄弟アベルを殺しました。しかし、パウロが言うように、私たちは土からできたアダムの似姿だけではなく、天に属するキリストの似姿にもなれるのです。人間は人を憎むこともできるが、同時に無条件に人をゆるすこともできます。人間はやられるとやり返す気持ちが湧いてくる、自分の頬を打つものにもう一方の頬を向けさせる力も備えられています。

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