メッセージ - C年 祭祝日

復活節が終わっても、なお奥深い祝いが続きます。まず聖霊の降臨を記念しながらその働きを讃え、それから三位一体という一致の絆にして多様性の神秘について黙想しましたが、今日はキリストが残してくださった自分の体と血という「命の糧」の祭日を祝います。

小さな復活祭として祝われ日曜日ごとに捧げられるだけではなく、毎日、「日の出るところから日の沈むところまで」地球のどこかで捧げられる「感謝の祭儀」(エウカリスチア)ですが、2000年も絶え間なく続くキリストの過越の記念なのです。しかし、この「記念」という言葉に戸惑ってはなりません。何か大昔の出来事を忘れかけてきた頃に思い出すということではなく、何かが忘れられぬべくそれを覚え続けて、それを今ここに現存させ、その効果が続くようにするものです。言ってみれば、何度も捧げられるミサではなく、キリストがただ一度捧げた奉献がそのまま続き、私たちがそれに与り、それへと引き込まれる、と言った方が適切かもしれません。この糧こそ私たちを養い、日々の使命を神の力で果たすことができるようにするだけではなく、永遠の命を私たちの内に芽生えさせてくれる「不死性の薬」でもあります。

最後に、なぜパンとぶどう酒でなければならないかについて簡単に触れたいと思います。キリストがそれを用いたからとか、当時現地の単純な人々の日常的な食料だったからとかは別にして、古代の教父たちや中世の神学者らはそれを象徴的に解釈する傾向がありました。ディダケーという書物や聖アウグスティノや聖チプリアノによれば、パンとぶどう酒の重要性は次の2点にあります。一つは、パンを作る際にたくさんの小麦の粒を集めて、一つにしなければならないように、それを食べる人々(=教会)も内的な一致によって結ばれて、しかも全世界のたくさんのメンバー、様々なメンバーから集まっている、ということです。もう一つは、ワインを作るためにブドウの房を絞らなければならないのですが、自分たちのする苦労やイエス信者が受ける苦しみ(=殉教)をも意味する、つまり、キリストをはじめとし、その命を生きる人々の汗と涙を毎回のミサの中に想起しそれを供物として共に捧げる、ということです。

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