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今回も引き続き、今年の聖書週間のテーマ「聖性への招き」が取られた、使徒的勧告「喜びに喜べ」から、黙想の種となるいくつかの聖書箇所を紹介していきます。

第三章 師なるかたに照らされて

聖性とは何かを知るには、イエスのみ言葉と行いに立ち返るのが一番の道です。イエスが山上の説教で語られた真福八端は、キリスト者にとって聖となることがどういうことかを端的に表しています(マタイ5:3-12、ルカ6:20-23)。
「貧しい人々は幸い」富ではないところに私たちは真の幸せを見つけます。また、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(二コリント8:9)。
「柔和な人々は幸い」憎悪や高慢がはびこる中で、柔和であることはイエスが示された生き方です(マタイ11:29)。罪人に対しても(ガラテヤ6:1)、反抗する者に対しても(二テモテ2:25)、自分の信仰や信念を弁明する時も(一ペトロ3:16)、柔和な心を保つように勧められています。
「悲しむ人々は幸い」苦しむ人から目をそらさず、共に苦しみ、思いやるなら、世からではなく、主から慰めを与えられます。「泣く人とともに泣きなさい」(ローマ12:15)。
「義に飢え渇く人々は幸い」貧しい人や弱者のための正義を強く願い求めることが聖であるということです(イザヤ1:17)。
「あわれみ深い人々は幸い」あわれみとは、与え、助け、仕えることでもありますが、また、ゆるし、理解することでもあります。神があわれみ深くゆるしてくださったように、私たちもあわれみ深くなるよう招かれています(ルカ6:36-38)。そのゆるしは七の七十倍までも、というほど、限りない神のあわれみの心にならうものです(マタイ18:21-33)。
「心の清い人々は幸い」見に見える表面的なことではなく、心の中の真の思いを神は見ておられます(サムエル上16:7)。善い行いも、そこに愛がなければ無益です(一コリント13:3)。ですから、逆に、心の中から出てくるものが人を汚すのです(マタイ15:18)。
「平和を実現する人々は幸い」イエスに遣わされた弟子が、どこかの家に入って、まず言うように命じられていたのは、「この家に平和があるように」という言葉でした(ルカ10:5)。パウロも、神の国のため、キリストに仕え、神に喜ばれるために「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:19)と語っています。
「義のために迫害される人々は幸い」快適さを求めるのではなく、たとえ反感や嘲笑を買い、迫害を受けるとしても、福音を生きるようにとイエスは教えます。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失う」(マタイ16:25)。初代教会の人々も、福音のために喜んで十字架を担いました(使徒言行録5:41、フィリピ1:29、コロサイ1:24、二テモテ1:12、一ペトロ2:40、4:14-16)。

貧しい人、苦しむ人の中におられるキリストに気づき、あわれみ深く接するのも、神の心にかなう聖性を生きることです(マタイ25:31-46)。

(続く)

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日本のカトリック教会は毎年11月の第三日曜日からの一週間を「聖書週間」としています。今年は11月18日~25日で、そのテーマは最近出されたフランシスコ教皇の使徒的勧告「喜びに喜べ 現代世界における聖性」を受けて、「聖性への招き」となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年作成されているリーフレット「聖書に親しむ」のPDF/Word形式のデータも同ページからダウンロードできます。

使徒的勧告の章立てとそのテーマに従って、以下、関連する聖書箇所を紹介していきます。この聖書週間に、これらの箇所を少しずつでも読んで味わい、「聖性への招き」のテーマを心にとめながら黙想し、祈りに反映させてみてはいかがでしょうか。

 

第一章 聖性への招き

私たちは、私たちの聖なる神、主に倣って聖なる者となるよう招かれています(レビ11:44、ヘブライ12:10、一ペトロ1:16)。それは神に喜ばれるように歩むことです(一テサロニケ4:1-7)。

私たちが聖となるのは、神から与えられた、他の誰のまねでもない自分自身の道においてです(一コリント12:4-11)。その使命は神の国の建設と結びついています(マタイ6:33)。

聖なる神に向かう私たちの歩みは孤独なものではありません。聖書の中には、様々な模範が示されています(ヘブライ11:1-12:3)。そのような模範、信仰の道の同伴者は、自分に近い人々、例えば家族の中にも見出すことができるかもしれません(二テモテ1:5)。

 

第二章 聖性の狡猾な二つの敵

私たちが聖性に至ることができるのは、自分の知識・理性や意思によってではありません。「人の意思や努力ではなく、神のあわれみによるもの」(ローマ9:16)であり、「神がまず私たちを愛してくださった」(一ヨハネ4:19)のです。自分の力に頼る思い上がりは、神に対しても人に対しても、自分自身を閉ざしてしまいます。

私たちは全能の神に従い、その内にあって、その前で謙遜に歩むときに神が望む全き者となることができます(創世記17:1、詩篇27:4、139:23-24)。

神に近づき、主に従うためのすべてのことの中で、最も大切で本質的なものは愛です。「愛がなければ無に等しい」(一コリント13:2)のであり、「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5:6)が重要で、愛は律法を全うするものです(ローマ13:8-10、ガラテヤ5:13-14)。

(続く)

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2.灰や塵を伴う行為

前回は「灰」や「塵」が持つシンボルとして、比喩としての意味について聖書の記述から考えました。今回は、実際に灰や塵が使われている聖書の中の場面に注目したいと思います。灰を頭にかぶる、塵の中に座る、地面の塵の上を転がる、という灰や塵に関した行為が、旧約聖書の中ではよく見られます。また、これと合わせて、着ている服を引き裂く、髪の毛や髭をそり落とす、粗布をまとう、嘆きの声を上げる、祈る、断食する、などの行為も伴うことが多々あります。

まず、「灰/塵をかぶる」「灰や塵の上に座る」などの行為は、既に起こったか、これから起ころうとしている災難・悲惨な出来事に際して行われます。例えば、

敗戦の知らせを伝える伝令の兵士が「頭に土をかぶっていた」(サムエル下1:2)
逆に敗戦の知らせを受けたヨシュアと長老たちは、「地にひれ伏し、頭に塵をかぶった」(ヨシュア7:6)
国の中で反乱が起こったとき、逃亡したダビデは「頭に土をかぶっていた」(サムエル下15:32)
家畜や子供たちを失い、自身もひどい皮膚病にかかったヨブは「灰の中に座り」(ヨブ2:8)、彼を見舞った友人たちも「嘆きの声を上げ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまいて頭にかぶり、七日七晩、ヨブと共に地面に座っていた」(ヨブ2:12-13)
ハマンの策略でペルシャ国内のユダヤ人たちが迫害された時、「多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆に暮れた」(エステル4:3)
「我が民の娘よ、粗布をまとい、灰を身にかぶれ。ひとり子を失ったように喪に服し、
苦悩に満ちた嘆きの声を上げよ。略奪する者が、突如として我々を襲う」(エレミヤ6:26)

 

更に、このような災難を神の裁きによる罰と捉えて、灰や塵をかぶり、その上に座って、自分の罪を悔いたり神の憐れみを求めたりする場合があります。

預言者ヨナによる滅びの宣告を受けたニネベの王は、「王位を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」、人々にも断食を命じ、悪の道を離れるように呼びかけて、滅びを免れようとした(ヨナ3:6-9)
エルサレムの荒廃について、ダニエルは「主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ」、イスラエルの罪を告白して救いを求めた(ダニエル9:3-4)
悔い改めようとしない町々に向かって、イエスが「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」(マタイ11:21)

このように「灰をかぶる」「塵の上に座る」という行為の目的は、自分の惨めさや弱さを神の前に示して、あるいは謙虚さ、従順さ、へりくだりの姿勢を示して、神の憐れみを求めるという儀式的な行為でした。「私はあなたの憐れみがなければ、助けがなければ何もできず、みじめなままです。だから憐れんで下さい」という嘆きの願いを表していました。

現代の私たちも、四旬節の始めに灰を頭に受け、この祈りを自分のものとします。ただ「灰を受ける」あるいは四旬節に勧められる「断食」「節制」という行為自体に恵みがある訳ではなく、そこに心が伴わないなら意味がありません。
預言者イザヤは、既に語っています。

「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう…そのようなものがわたしの選ぶ断食だろうか…頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とは…虐げられた人を介抱し、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58:4-9)

「灰をかぶる」という行為に込められた意味を心に留め、正面から向き合いたくはない自分の罪や弱さを見つめ、神の前に素直に認めたいものです。四旬節は、このような自分のために主イエスは十字架の苦しみを受けられ、そして復活された、という恵みに感謝しながら、その恵みを与えられた神に立ち返る時なのです。

 

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四旬節の始まりの日である灰の水曜日には、「灰の式」が行われます。その中で司祭が灰を頭にかけるときに、「回心して福音を信じなさい」か「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」という言葉を唱えます。この「灰」そして「塵(ちり)」という言葉は、似たような意味で、聖書、特に旧約聖書の中で用いられます。

1.取るに足りないものとしての灰、塵

まず、灰や塵は取るに足りないもの、役に立たないもののシンボルとして用いられています。

罪深いソドムとゴモラの町を神が滅ぼそうとされたとき、思い返すようにアブラハムが反論します。
「私は塵や灰にすぎませんが、あえて、我が主に申し上げます。五十人の正しい者に五人足りないかもしれませんが、それでもあなたは町のすべてを滅ぼされますか」(創世記18:27)

また、ヨブは惨めな姿になった自分について語ります。
「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵や灰のようになった」(ヨブ30:19)

原初史物語において、禁じられていた木の実を食べて隠れていたアダムに、神が言います。
「お前は汗を流してパンを得るようになる。土に帰るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る」(創世記3:19)
この「お前がそこから取られた塵」は、さかのぼって創世記2章の創造物語を思い起こさせます。
神は取るに足りない土の塵で人を作り、鼻に命の息を吹き入れて生きる者とされたが、けれどもその与えられた命がなくなれば、やはり価値のない土の塵に戻ってしまいます。
イザヤ26:19でも、死者とは塵の中に住まう者とされており、塵は死を連想させるものです。

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四旬節は、その字面の通り「四十日の期間」を表します。私たちキリスト者にとって一年で最も大切な時である、主のご復活までの40日間の準備期間です。実際には、主の復活を祝う主日である日曜日の6日間+40日で46日となります。
今回は、この「40」という数字がシンボルとして示す様々な意味について、聖書の記述から考えたいと思います。

1.一世代としての40年
何人もの士師や王の治世、あるいは祭司の任期などが40年であった(ギデオン-士師記8:28、エリ-サムエル記上4:18、ダビデ-サムエル記下5:4・列王記上2:11、ソロモン-列王記上11:42、ヨアシュ-歴代誌下24:1)。
出エジプトの後、荒れ野の旅において40年が経って世代が代わった(ヨシュ5:6)。

2.区切り、節目、一つのまとまりの単位としての「40」
きりが良い数字としての「40」です。
イサクが結婚した時(創世記25:20)、エサウが結婚した時(創世記26:34)、40才であった。
40万の歩兵が集まる(士師記20:2)。
らくだ40頭にのせた贈り物がエリシャのもとへ送られる(列王記下8:9)。


3.試練の時としての「40」
この意味での「40」が特に四旬節に深い関わりがあるでしょう。

雨が四十日四十夜続き、洪水が起こった(創世記7章)。地上の肉なるものすべてに死がもたらされた。
四十日四十夜、モーセがシナイ山に留まる(出エジプト記24:18、34:28)。パンも水も摂らず、その後十戒が与えられる。
四十日の偵察(民数13:25、14:34)。エジプトを脱出し、約束の土地へ入ろうとする際の出来事。
イスラエルは神への不信のために、四十年に渡って荒れ野を放浪しなければならなくなる(民数記14:33、32:13)。
預言者エリヤが四十日四十夜の旅をする(列王記上19:8)。命をねらうアハブ王から逃走し、神の山ホレブに着くと、そこで新しい使命を与えられる。
預言者ヨナがニネベの人々に、四十日後の滅びを預言するが、人々は悔い改めて災いが撤回される(ヨナ3:4)。
エジプトに対し、四十年間の荒廃が預言される(エゼキエル29:11-13)。
有罪の者へのむち打ちの数は罪状に応じるが、四十回を限度とする(申命記25:3、第二コリント11:24)。

旧約の「40」、特に四十年の荒れ野での放浪の旅が、新約の「40」に影響を与えています。
イエスが四十日間、荒れ野で断食し、試みを受ける(マタイ4:1-11;マルコ1:12-13;ルカ4:1-13)。

以上のように、私たちが過ごす四旬節の40日間というのは、私たちの信仰が試される試練の時でもあります。このまとまった時を通して、私たちは自分のあり方についてよく考え、自らの生き方を振り返り、神に立ち返るのです。


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