主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ12・13-21

13〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわ たしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持って いても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ち は、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や 財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽し め」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分の ために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 


 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : この世の宝

第一朗読: コヘレト1222123

その一生は悲しみであり、 その仕事には悩みがあり、 その心は夜も休まらない。 これもまた、 むなしい。 (Ecc 2:23 JAS)

第二朗読:コロサイ315911

あなたがたは、 地上のものを思わず、 天にあるものを思いなさい。 (Col 3:2 JAS)

福音朗読:ルカ121321

自分のためにたくわえても、 神の前に富まない者はこのとおりです。 (Luk 12:21 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ : この世の宝

第一朗読: コヘレト1222123

ヘレニズムの時代(約紀元前3世紀)に書かれたコヘレト記は、さまざまな文化や文学と関連している。一般的に言えば、人生に関するいろいろな主題についての説明はユダヤ人的な考え方ではなく、古代オリエント(ヘレニズム時代の文化)の哲学的な考え方と深く関係している。この著者によれば、人間の一生は空しい。人間の行うことはすべて空しい。人生の終わりは死だからである。著者は神を信じているが、神は人間の世界から遠い所に離れている方であると捉えている。

第二朗読:コロサイ315911

パウロは人間の世界から離れた所に神がいるとは決して言っていない。すべての人間(異邦人とユダヤ人)は、イエスの名によって洗礼を授けられた人として新しい人間になった(3,9-11)。「新しい人間になった」というのは、イエスによって人間は神の恵みの内に生きるようになったということである。人間が生きる目的は「キリストと共に栄光に包まれて現れる」ことである(3,4)。

福音朗読:ルカ121321

人間は生活するためにさまざまな物や事柄を必要とする。しかし、人生の目的は物や事柄を集めることであるという考え方は間違っている(1220)。お金や経験は人間の最も大切な宝ではなく、人間の良い行いこそが最も大事な宝である。この世の宝について兄弟と争うことは間違いである。

 
メッセージ - C年 年間

テーマ: 「どんな貪欲にも注意払い、用心しなさい」(ルカ12:15)

社会の中で正義や公平について決めたことがたくさんあります。それを破ることによって損する人もいれば、受けるべき報いを頂けない人もおります。自分の権利を主張しても適えられないならば、神様にそれを裁いて頂くように祈る信者が多いと思います。例えば、遺産が子孫の間に分けることは社会常識です。しかし、今日の福音の中でイエス様はこの常識を破られます。福音のある人物は、兄弟が遺産を分けてくれなかったことをイエス様に訴えます。ところで、キリストはそれに応じられず、御自身が二人の裁判官や調停人でもないと返事されました。いわゆる、キリストは社会正義を実現することを二次的なものとして扱いました。なぜなら、キリストは、世を裁くためでなく、世を救うために来たと言われた通りです。

社会正義はこの世の価値と富を中心とし、キリストは神の国とその義を中心とされます。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12:15)という言葉をもって、物質的な富ではなく、神の前に豊かになるような大切さを教えられます。地上の富を蓄えても、誰もそれを天国に持って行くことができないと、イエス様は「愚かな金持ち」の例えを用いて教えておられます。社会正義を果たして財産を手に入れても、貪欲に堕ちいて命を失うなら、キリストによる救いの業がその人の内に全うされることはないことを明らかにされました。

キリストは、私たちの生き方を見て、どう思われているでしょうか?。現代社会が物に恵まれ、殆どの人は貪欲になりかかっているようにと見られるかもしれません。安定した生活のために金を稼ぐことは悪いことではありません。残念なことに物に恵まれている人は、すべてを自分の力で手に入れたと思い込み、生かされていることに気付かないことが多いのです。人には感謝の気持ちを忘れ、神に寄り頼む自覚が失われ、信仰は薄れて行く状態です。心の空洞を物質的なモノで満たしたいが、満たされることなく、貪欲の固まりになり、自分自身を満たすだけに終わってしまいます。自分の都合に良ければ、悪にも賛同し、神のものを否定して行きます。

本物の価値に気付くためにキリストに出会う必要があります。私たちの模範であるキリストは地上の富を求めず、貧しく生まれ、先生になっても家もありませんでした。無償に教えたり、人を癒したり、パンを与えられたり、悪霊を追い払ったりして、頂いたすべての物を御父に感謝しました。自分の権利のために争うことなく、私たちの罪を身に背負い、御自分を御父にいけにえとして献げ、私たちに御自分の御体と御血を永遠の命の糧として与え、聖霊を豊かに注いでくださいました。御ミサに与る私たちは、感謝の祭儀の中で御聖体を頂く度に、これらのことに気付いたら幸いと思います。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ11・1-13

1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ 貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒を かけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、 わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、 求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えること を知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。