釈義 - C年 年間 |
第一朗読:出エジプト32,7-11.13-14
四十年間シナイ半島を旅する、エジプトから逃れた十二のユダヤ人の部族は、新しい生活だけではなく新しい宗教組織を学ばなければならなかった。第一朗読の言葉によれば、ユダヤ人たちは簡単に唯一神を信じたわけではなかった。いつも、エジプト的な宗教組織に戻りたがった。それが、神が「そんな国民を諦めろ」と言った理由であった。しかし、モーセは神と論議してユダヤ人の部族をまもった。
この文章の目的は、モーセがエジプトからユダヤ人たちを解放した方だというだけではなく、神の怒りからユダヤ人たちを守った方だということを示すことである。出エジプトが書かれた時代には、モーセとは、すなわちモーセの律法であった。神の怒りから守ることがモーセの律法だというメッセージである。
第二朗読:一テモテ1,12-17
テモテへの手紙の著者によれば、パウロは神の恵みの証拠になった。かつてキリスト教を迫害したサウロ/パウロは、特別な啓示のおかげでキリスト者になって宣教活動をするようになった。パウロは罪人のような者から聖人のような人にまで変化した。それはパウロの力ではなく、神の御旨によって行われたことであった。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」という言葉が事実であることを、パウロの例が証する。
福音朗読:ルカ15,1-32
イエスが用いたすべてのたとえの目的は、神の御旨が、すべての人々が信仰の道を歩くことだということを示すことである(15、1-10)。すべての人々というのは罪人も含む。たとえ悪いことをする罪人でも、それをやめれば神に戻ることができる(15,11-32)。そのためには、まず「私は罪を犯した」ということを理解することが必要であるし、この罪を許されることができるということを信じることも必要である。しかし、人間の力だけでは足りない。罪から解放することは神の業である。罪人が悪い道をやめて正しい道を歩き始めたということを認める正しい人が彼を信頼のうちに助けてあげなければならない。
メッセージ - C年 年間 |
「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使の間に喜びがある。」(ルカ15:32)
本日の福音は、「見失った羊」、「無くした銀貨」と「放蕩息子」というイエス様の三つの例え話を連続紹介します。その話のきっかけは、イエス様が罪人たちを迎えて、食事まで一緒にされていたというファリサイ派の人々と律法学者の不平を押さえるためでした。
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、人々に神の言葉と戒めを教えていました。律法で決まったことを守った人を義人と見做し、守らなかった人を価値のない罪人として扱い、接することも避けていました。彼らは、自分のことを義人であると見せかけるために、罪人の上に神様の怒りがあると勝手に判断し、神様のイメージを歪曲していました。ところで、彼らは、神様が最も求めている愛の掟をないがしろにし、神様の内にある愛と赦しについて教えることも怠っていました。
イエス・キリストは、この度、例えを持って神様が私たち罪人について、どうお思いになっているかを教えてくださいます。神様は、私たちの一人ひとりを掛け替えのない宝として無差別に愛しておられます。罪によって自分を失う私たちの一人ひとりは、神様にとって、例え話の中で描かれた見失った羊、無くしたドラクメ銀貨、放蕩息子のようなものです。見つけられて愛されていなければ、失われたままです。神様は、その愛と慈しみの故に自ら進んでくださり、罪に堕いた人間を救うために、キリストの内にこの世に来られたのです。神様の無条件の愛、限りない憐れみと慈しみに応えて悔い改め、キリストの救いに与る罪人については、神様御自身とすべての天使の間に大いなる喜びが天国にあると言われます。
放蕩息子の兄は決まったことを守っても、兄弟を赦さないファリサイ派の人々を象徴します。このような人々は神様の慈しみ深さを悲しみ、罪人が赦されることを怒り、そのために神様の家に入ることを自ら拒んでいます。私たちも、放蕩息子の兄のような過ちを犯さないように注意しなければなりません。教会である私たちは、キリストによって見付けられた神様の宝、キリストの神秘体です。私たちは、神様に赦された喜びを持ちながら、神様に愛されてキリストの救いによって義とされ、その喜びを自分の喜びにする隣人愛を育むことができるように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ14・25-33
25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子 供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だ れであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算し ない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはでき なかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つこ とができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使を送って、和を求めるだろう。33だか ら、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
釈義 - C年 年間 |
テーマ :弟子になるために
第一朗読:知恵9,13-18
第一朗読の主題は神の知恵である。人間の知恵には限りがあるので、神の御旨を悟ることは簡単にはできない(9,13-14。16)。人間にそれができるようにするためには、天から送られた聖霊の力が必要である(9,17-18)。
興味深いのは15行である。人間の体と人間の魂はお互いに合わないという考え方がある。それはユダヤ人の考え方ではなくプラトンの哲学派のような考え方である。
第二朗読:フィレモン9-10.12-17
フィレモンへの手紙は紀元後69-71年の間に書かれた個人的な書物である。その手紙の目的はコロサイ教会の一人のキリスト者(フイレモン)に、彼の家から逃げた奴隷(オネシモ)を再び受け入れるよう説得することである。逃げ出した時、オネシモは異邦人だったが、ローマに行き、パウロのおかげでキリスト者となり、自分の主のもとに戻ることを決めた。パウロの宣教によってキリスト者になった二人(フィレモンとオネシモ)が、社会的な関係より共同体的な関係のもとに新しい関係を作るようにというのがパウロの希望である。
福音朗読:ルカ14,25-33
「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」と言うイエスの厳しい言葉には深い意味がある。キリスト者にとって、「なんでもいい」というやり方は許されない。イエスよりこの世の事に集中する人はなかなかイエスの弟子になれないだろう(14,33)。イエスの弟子になりたい人は良く考える事が必要である(9、28-32)。イエスの弟子の道は簡単ではないし、責任も重い(14,24-35)。