主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :悔い改めることの源

第一朗読:サムエル下12,7-10.13

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。 (2Sa 12:13 JAS)

第二朗読:ガラテヤ2,16.19-21

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。 (Gal 2:19 JAS)

福音朗読:ルカ7,36-8,3

だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」 (Luk 7:47 JAS)

 
メッセージ - C年 年間

「イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。ルカ 7:48-50

 

恐らく、どんな人でも自分が良い人であると他の人に思ってもらいたいし、何よりも、自分自身が自分のことをこのように考えたいのではないかと思います。けれども、良い人とは、どんな人なのでしょうか。

恐らく、多くの人にとって良い人とは、ファリサイ派のシモンが考えたように、悪いことをせずに、正しく生きる人、もっと具体的には、他人に害を与えない人、法律や他の決まりを守る人ではないかと思います。このように考えている人々は、人の行いを基準にして人を評価するわけですので、自分たちのように「良い人」になっていない人を批判したり、軽視したり、差別したりすることがあります。多くの場合、それは、傲慢の現れになっていますが、時に、それは、自分の「良さ」に対する疑問や不安を現すものにもなっています。自分よりも大きな悪を行っている人を批判したり、差別したりすることによって、自分の「良さ」を強調して、自信を付けようとしているわけです。

イエス・キリストは、ご自分の言葉と生き方によって教えてくださったように良い人とは、悪いことをしないだけではなく、他人のために善いことをする人、つまり愛に生きる人なのです。その意味での正しい生活は、人間の努力の結果ではなく、愛そのものである神、と同時に真の愛の源である神との正しい関係の結果なのです。

真に良い人になるために、他の人に害を与えないだけではなく、他人のために善を行うように全力を尽くす必要がありますが、同時に、自分の限界、また場合によって自分が悪かったことや正しい生き方を妨げる自分の執着、不安、恐れなどのような束縛を認めたうえで、父である神に心を開き、神の無条件の愛と共に、神ご自身を自分の人生に受け入れなければならないのです。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ7・11-17
11〔そのとき、〕 イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そば に付き添っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人 たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその 母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と 言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :神に選ばれた人

第一朗読:列王記毛上17,17-24

主はエリヤの願いを聞かれた (1Ki 17:22 JAS)

第二朗読:ガラテヤ1,11-19

けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が (Gal 1:15 JAS)

福音朗読:ルカ7,11-17

主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。 (Luk 7:13 JAS)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:列王記上17,17-24

エリヤは北王国(イスラエル王国)で唯一神の宗教を守るため、預言者として宗教活動をしました。しかし、北王国の王アハブとその妻イゼベル(シドン市の人)に迫害され、エリヤはシドン市に住んでいる寡婦の家に留まりました。エリヤと寡婦に起こったすべての困難な事故の理由は人間の罪です(列王記17、18)。だから寡婦にとってはエリヤは神からの罰を伝える人です。彼の活動の結果は、北王国に入る預言者と司祭に対する王アハブによる迫害をもたらしました。そして、シドン市の寡婦の息子の死の責任は彼にあります。それはエリヤの信仰に深い傷を作った事故でした。神の名によって行う活動がそんな実を結ぶことがあるでしょうか(列王記17、20)。しかし、行った奇跡が次の事を証します:いくら大変な時期があっても、神は選ばれた人を必ず助けてくださる(列王記17,24)。

第二朗読:ガラテヤ1,11-19

ガラテヤに住んでいる信者たちからパウロはさまざまな激しい批判を受けました。その中にはパウロは正しい使徒ではなく、パウロが述べ伝えている福音はイエスの福音ではないなどという話がありました。実は、第二朗読の言葉はパウロの弁明です。パウロの話の目的は、述べ伝えている福音がイエスから直接貰った福音だという議論をすることです。実に、神に選ばれた人の人生は簡単ではあません。

福音朗読:ルカ7,11-17

福音書の言葉と第一朗読の言葉の歴史的な背景は異なりますが、これら二つの場面は似ています。イエスは寡婦の息子を復活させました。この奇跡は人々がイエスを信じる理由となりました。そしてそれは、神は選ばれた国民と共にいるということを人々に証することでした。