釈義 - C年 年間 |
テーマ :主の僕の道
第一朗読:エレミヤ38,4-6,8-10
この朗読の歴史的な背景には、南王国の終わりの時期ということがある。南王国はバビロニア王国に敵対するエジプトと契約した。ゼデキヤ王とユダ国民の長老たちはエジプトが南王国を守る力があると思っていたが、神の言葉を伝える預言者エレミヤにとって南王国がエジプトと契約するのは間違いであった。そのことを伝えたエレミヤは、ユダ国民の長老たちに裏切り者とみなされた。何年間か過ぎて、預言者エレミヤの言葉の通りになった。南王国は国として滅亡した(紀元前586年)。この世の者には、神の言葉を伝えている者の声が聞こえない。
第二朗読:ヘブライ12,1-4
この朗読の時代の社会的な背景として、イエスを信じている人々がイエスを信じていない人々から迫害されていたということがある。著者によれば、完全な信仰を持っているイエスが迫害されたのだから、イエスを信じている人々(まだ信仰が弱い人)もまた迫害される。迫害されたときには、イエスのようなやり方が必要である。それは、最後まで信仰を守ることである。
福音朗読:ルカ12,49-53
ルカによれば、イエスが神の子としてこの地上に現れた目的は、人間の心に信仰の火を投じることである(12,49)。そのために十字架上で死ぬまであらゆることを受けた(12,50)。イエスの死と復活の後、この世に生きている人々はイエスを信じるか、イエスを信じないかという選択をしなければならなくなった。一人一人の人間によってこの選択は異なるだろう。そのため、分裂が起こる場合も出てくる(12,51-53)。
メッセージ - C年 年間 |
「わたし(イエス)が来たのは、地上に火を投ずるためである。」ルカ 12:49
社会の中で、家族の愛、親子の絆、共同体の一致、諸民族の友情関係、人間共同体の協力や助け合いなどによって平和を実現することは、尊いものとして認められ、分裂や戦いを社会の中から取り除くべきであるということを、常識としてどんな社会の中でも教えられています。ところで、本日の福音の中で、キリストはこの常識を覆すような表現を用いて、御自身が来られたのは、地上に火を投ずるためであることとか、地上に平和をもたらすためではなく、分裂や、家族の中で親と子が対立して分かれるためであることなどを言われたりします。
人間は、誰でも平和、喜び、愛を求めます。しかし、人間の本性には罪のためにキズがあって、滅びへと導く悪い楽しみに惑わされ、自我と欲望のために必ず悪が付きまとうのです。私たちの一人ひとりも、また、それぞれの社会の共同体も、自分の内に悪が生じる場合、それを恥じ入り、認めたくないように悪を隠したり、見せかけの平和を作ったりします。例えば、現代の親の大勢には、自分の子どもを諭すことも注意することも怠っているという現象が現れています。調査によりますと原因は様々です。子どもを悲しめないため、子どもが暴れないため、子どもに嫌われないため、子どもを叱ると親子の関係が悪いと人の目に映らないようにするため、忙しい中で面倒だから物を買って子どもの気持ちをごまかすことなどに理由があります。このようにして幸せに見える家族の中で、秘かに悪が育てられ、義と愛を失って心の平和に繋がりません。
御ミサの中で私たちはキリストの御言葉に倣い、世が与える平和ではなく、キリストの平和を願い、「主の平和」という言葉を持って、平和の挨拶を交わします。キリストは悪に染まった人間と戦うのではなく、御自分の命を献げる最大な愛を持って罪人である私たちを救うために来られたのです。キリストは、悪を退けるために悪と戦われますが、誰であろうとも、悪意を持つ人との分裂を避けられないと教えています。しかし、キリストは善意の人々を皆、罪から解放し、御自分の内にすべての人を一つにすることを望んでおられます。
聖書の中での「火」とは、破壊する力としてよりも、「神の臨在」を表現する象徴として用いています。神様は「燃える芝」の中からモーセに語りかけて、使命を与え、『火』の柱の内に御自分の存在を秘められ、イスラエルの民を災いとすべての悪から守り、約束の地まで導いてくださいました。イスラエルの民は、『火』を用いて神様に全焼のいけにえを献げることによって創造主への感謝、尊敬と愛を表現し、その煙は天と地、神と人を繋ぐしるしとなりました。預言者イザヤが召命を受けた時に、神様は彼の口を祭壇の上で燃える炭火で清め、彼を聖別して御言葉を宣べ伝えるために相応しい者としてくださいました。また、新約時代に御昇天なさったキリストは弟子たちに御父から聖霊を注ぎ、聖霊は舌の形を取った炎として現れ、十二使徒の内に留まって、教会の中で神様が生きておられることを示したのです。
したがって、キリストが世界に火を投ずるというのは、金が火の中で精錬されるように、すべての人々が神様の愛の火によって清められ、心を燃え立たせて御父の御旨を行い、「神の似姿」、「神の子ども」としての自分らしい自分を見出すためです。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ12・32-48
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
《32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」》
35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。 40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
《41そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、42主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。43主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。44確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。45しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、46その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。 47主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」》
釈義 - C年 年間 |
テーマ : 望んでいること
第一朗読:知恵18,6-9
知恵記は第二聖書正典の書物の一つである。紀元前一世紀に、エジプトに住むユダヤ人によってギリシア語で書かれた書物であり、ユダヤ教の伝承(七十人訳)とヘレニズム文化に関連している。第一朗読の言葉は詩的な形を使ってモーセの時代にエジプトで最初に行われた過越の子羊祭りについての情報を伝えている。6行目の意味は、この過越の子羊祭りが昔の預言者の言葉通りの出来事だということである。7行目と8行目は、ユダヤ人が解放されたことがエジプト人にとっての重大な出来事であったということを意味している。9行目の意味は、秘密のうちに(自分の自宅で)行う過越の子羊祭りの時、ユダヤ人たちが常に一致するという契約をしたということである。
第二朗読:ヘブライ11,1-2,8-19
ヘブライ人への手紙の著者にとっての信仰は、望んでいる事がらの保証である。旧約聖書の時代に、神に選ばれた全ての人々の道が信仰から始まった(11,8-11)。彼らの信仰の目的は、この世にある事ではなく天国である(11,16)。これは実際、人生の目的である。
福音朗読:ルカ12,32-48
福音書の言葉は、この世に旅する信仰を持っている人々(キリスト者)がどのような生活をすべきかという問題と関係する。この世にあることが彼らの目的ではなく、主の日(キリストが再び来られる日)を待っていることこそが目的である。主の日を待っているというのは主の御旨を行うことである(12、35-48)。それが完全に出来た人々は神の国(天国)に入る(12,32)。