メッセージ - C年 年間

テーマ: 「どんな貪欲にも注意払い、用心しなさい」(ルカ12:15)

社会の中で正義や公平について決めたことがたくさんあります。それを破ることによって損する人もいれば、受けるべき報いを頂けない人もおります。自分の権利を主張しても適えられないならば、神様にそれを裁いて頂くように祈る信者が多いと思います。例えば、遺産が子孫の間に分けることは社会常識です。しかし、今日の福音の中でイエス様はこの常識を破られます。福音のある人物は、兄弟が遺産を分けてくれなかったことをイエス様に訴えます。ところで、キリストはそれに応じられず、御自身が二人の裁判官や調停人でもないと返事されました。いわゆる、キリストは社会正義を実現することを二次的なものとして扱いました。なぜなら、キリストは、世を裁くためでなく、世を救うために来たと言われた通りです。

社会正義はこの世の価値と富を中心とし、キリストは神の国とその義を中心とされます。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12:15)という言葉をもって、物質的な富ではなく、神の前に豊かになるような大切さを教えられます。地上の富を蓄えても、誰もそれを天国に持って行くことができないと、イエス様は「愚かな金持ち」の例えを用いて教えておられます。社会正義を果たして財産を手に入れても、貪欲に堕ちいて命を失うなら、キリストによる救いの業がその人の内に全うされることはないことを明らかにされました。

キリストは、私たちの生き方を見て、どう思われているでしょうか?。現代社会が物に恵まれ、殆どの人は貪欲になりかかっているようにと見られるかもしれません。安定した生活のために金を稼ぐことは悪いことではありません。残念なことに物に恵まれている人は、すべてを自分の力で手に入れたと思い込み、生かされていることに気付かないことが多いのです。人には感謝の気持ちを忘れ、神に寄り頼む自覚が失われ、信仰は薄れて行く状態です。心の空洞を物質的なモノで満たしたいが、満たされることなく、貪欲の固まりになり、自分自身を満たすだけに終わってしまいます。自分の都合に良ければ、悪にも賛同し、神のものを否定して行きます。

本物の価値に気付くためにキリストに出会う必要があります。私たちの模範であるキリストは地上の富を求めず、貧しく生まれ、先生になっても家もありませんでした。無償に教えたり、人を癒したり、パンを与えられたり、悪霊を追い払ったりして、頂いたすべての物を御父に感謝しました。自分の権利のために争うことなく、私たちの罪を身に背負い、御自分を御父にいけにえとして献げ、私たちに御自分の御体と御血を永遠の命の糧として与え、聖霊を豊かに注いでくださいました。御ミサに与る私たちは、感謝の祭儀の中で御聖体を頂く度に、これらのことに気付いたら幸いと思います。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ11・1-13

1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ 貸してください。6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒を かけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』8しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。9そこで、 わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。10だれでも、 求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えること を知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 神の哀れみ

第一朗読:創世記18,20-32

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。 (Gen 18:23 JAS)

第二朗読:コロサイ2,12-14

神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。 (Col 2:14 JAS)

福音朗読:ルカ11,1-13

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。 私たちを試みに会わせないでください。 (Luk 11:4 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ : 神の哀れみ

第一朗読:創世記18,20-32

第一朗読の言葉はJ資料の伝承を含んでいる。J資料は庶民的な伝承として擬人的な神の肖像を現している。ここでは神は人間の姿を持ち、アブラハムとソドムの人々とゴモラの人々について論議をする。神の行いは正しい訴えのもとに下された裁きの結果である(18,21)。神の裁きによって、正しいけれども罰を受けた人だということは絶対に有り得ない(18,32)。神の業はいつも正しい。

第二朗読:コロサイ2,12-14

コロサイ(現在西トルコ)原初キリスト教の創立者エパフラスはコロサイ教会の様々な問題を解決するようにパウロに手紙を書いて頼んだ。多く問題の中の一つに「世を支配する霊」と言う不正教があった(2、8)。「世を支配する霊」と言うのは、神と人間の間にある様々な霊のことである。この霊は神と人間の連結を作るものである。コロサイの信徒への手紙の著者によれば、神と人間の間を結びつけるのはイエスだけである(1,15-20)。人間になったイエス(2,9)の目的は神と人間の間の平和を打ち立てる事であった(1,20)。それを出来るようにするため、イエスは罪と死の力を敗らなければならなかった(2、12.14-15;1,18)。罪と死の力を敗るためには、一つの道しかなかった。その道とは、十字架でのイエスの死(2,14)と、死からのイエスの復活のことである(2,12)。この業によって罪を許された人間(2,13-14)は救い主イエスに従わなければならない(2,6)。

福音朗読:ルカ11,1-13

福音朗読は二つの部分を含む。第一の部分をもとに「主の祈り」が作られた(11,2‐4)。ここで望む事は五つある。最後の頼みごとを除き、すべての動詞の形(ギリシア語の動詞の形)は命令法、アオリスト形、受動態である(日本語で:崇められますように;来ますように;与えてください;許してください;遭わせないでください)。というのは、望む事を頼む方法は命令だからである。頼むという事は将来の事であるが、動詞の未完結相の形を使う目的はその事を必ず行うという情報を伝えるというだけのためである。受動態の動詞を使う目的は望んでいる事が神からいただいたもの(恵み)であるということを表すためである。

第二の部分はたとえが含まれている。パンを頼む人は動詞の命令法を使う(ギリシア語の動詞)。頼んだパンをすぐ貰えなかったが、しかし必ず最後に貰う(アオリスト形の意味)。貰ったパンは彼に与えられた恵みの事である(受動態)。

頼まなければ貰えない。一度だけ頼んでも、必ずしもすぐに貰えないかもしれない。貰った事はいつも恵みである。

 
メッセージ - C年 年間

 

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」ルカ 11:1

 

宇宙万物の創り主である神は、全能者であるだけではなく、私たち一人ひとりを愛してくださる父であるのです。この愛のゆえに神は、私たちに必要な恵み、必要な善を常に、しかも、無条件に与えてくださるのです。

残念ながら、多くの人々は、神を信頼する代わりに、自分の思考や欲望、または、他の人の間違った助言を信頼していますので、神に向かって心を閉じて、神の賜物を受けないだけではなく、自分の心の真の望みを満たすことのできないもの、結果的に自分に害を与えるものを手に入れるように一生懸命に努めています。

幸いに、その内に自分の力の限界を認めて、神に向かって祈る人もいます。確かにこの人たちは、自分の欲望が満たされることしか求めていない、つまり間違った動機に基ついて祈っていますが、神が彼らの期待通りに応えなくても、イエスが教えてくださったように信頼と忍耐を持って祈り続けるならば、少しずつ間違った欲望から、また、何の根拠のない期待、場合によって非現実的な期待から清められて、自分たちや他の人にとって真の善であるものを求めるようになるのです。

そして、自分が持っているすべての良いものが神から与えられたものであり、この賜物によって神がご自分の愛を表してくださる事実に気付いて、それを自覚するようになる人は、神を信頼するようになって、神が与えてくださるすべての賜物を受けるだけではなく、神の導きに従って生きるようになるのです。

このような祈りと生き方によって人間は、最高の賜物、つまりすべての良いものの与え主である神ご自身を受けるために必要な心の準備ができるのです。神に象って、神に似せて創造された人間は、神ご自身を受け入れ、自分自身を神にささげることによって神と一つになって初めて、完全な安らぎ、完全な幸福、しかも永遠に続く安らぎと幸福を味わうようになるのです。