メッセージ - C年 年間 |
「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ルカ 12:34
自分の富とは、つまり自分が何を一番大切にしているかと聞かれたら、いろいろな答え、もしかして、聞く人によって、または、場所や状況によって異なる答えを出すでしょう。けれども、自分にとって本当に何が大事であるかということを知るために、頭で考えているよりも、自分が実際に何のために、または、誰のために一番長い時間とか、一番大きなエネルギーとか、一番沢山のお金などをかけているかということを見る必要があります。
昔の人や現代の多くの人にとって、最も大切なのは、イエス・キリストとの関係なのです。けれども、誰かがイエスとの関係を一番大切にするから、他の人との関係を軽んじるということではありません。イエス・キリストとの真の愛の交わりの内に生きている人は、イエス・キリストご自身と同じように、自分に対しても、他の人に対しても、また、仕事や他のものに対しても正しい態度をとることができます。言い換えれば、イエスとの関係が自分の最も大切な富になれば、他のあらゆる関係が癒されて、正しくなるのです。
おそらく、自分の生き方を正直に見つめれば、大部分のキリスト者が自分たちにとってイエス・キリストよりも、大切なものが沢山あるということに気が付くでしょう。それを見ると、もしかして、キリスト者とは、イエス・キリストを誰よりも強く愛し、イエスとの関係を自分の命を含めて何よりも大切にしている人ではなく、イエス・キリストを誰よりも強く愛したい、イエスとの関係を何よりも大切にしたいと求めている人であると思わせられるのです。
その望み自体は、大きな恵みです。もし、私たちはこの望みに従って生きるならば、つまり、聖書の読書を初め、与えられた機会を用いてイエスをもっと深く知るように努めることによって、また、イエスに対する愛がまだ小さくてもそれに出来るだけ忠実に生き、それを実践することによって、それから、個人的な祈り、キリスト教の共同体の生活に肯定的に参加し、他のキリスト者と交わり、共に祈ることによってイエスとの交わりを深めようとするならば、イエス・キリストご自身が私たちとの関係を完成してくださるに違いないと信じています。
さて、イエス・キリストとの交わりの完成を目指して、イエスから与えられた使命を果たし、イエスに最後まで従うことができますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ12・13-21
13〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわ たしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持って いても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ち は、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や 財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽し め」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分の ために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
釈義 - C年 年間 |
テーマ : この世の宝
第一朗読: コヘレト1,2;2,21-23
ヘレニズムの時代(約紀元前3世紀)に書かれたコヘレト記は、さまざまな文化や文学と関連している。一般的に言えば、人生に関するいろいろな主題についての説明はユダヤ人的な考え方ではなく、古代オリエント(ヘレニズム時代の文化)の哲学的な考え方と深く関係している。この著者によれば、人間の一生は空しい。人間の行うことはすべて空しい。人生の終わりは死だからである。著者は神を信じているが、神は人間の世界から遠い所に離れている方であると捉えている。
第二朗読:コロサイ3,1-5,9-11
パウロは人間の世界から離れた所に神がいるとは決して言っていない。すべての人間(異邦人とユダヤ人)は、イエスの名によって洗礼を授けられた人として新しい人間になった(3,9-11)。「新しい人間になった」というのは、イエスによって人間は神の恵みの内に生きるようになったということである。人間が生きる目的は「キリストと共に栄光に包まれて現れる」ことである(3,4)。
福音朗読:ルカ12,13-21
人間は生活するためにさまざまな物や事柄を必要とする。しかし、人生の目的は物や事柄を集めることであるという考え方は間違っている(12,20)。お金や経験は人間の最も大切な宝ではなく、人間の良い行いこそが最も大事な宝である。この世の宝について兄弟と争うことは間違いである。メッセージ - C年 年間 |
テーマ: 「どんな貪欲にも注意払い、用心しなさい」(ルカ12:15)
社会の中で正義や公平について決めたことがたくさんあります。それを破ることによって損する人もいれば、受けるべき報いを頂けない人もおります。自分の権利を主張しても適えられないならば、神様にそれを裁いて頂くように祈る信者が多いと思います。例えば、遺産が子孫の間に分けることは社会常識です。しかし、今日の福音の中でイエス様はこの常識を破られます。福音のある人物は、兄弟が遺産を分けてくれなかったことをイエス様に訴えます。ところで、キリストはそれに応じられず、御自身が二人の裁判官や調停人でもないと返事されました。いわゆる、キリストは社会正義を実現することを二次的なものとして扱いました。なぜなら、キリストは、世を裁くためでなく、世を救うために来たと言われた通りです。
社会正義はこの世の価値と富を中心とし、キリストは神の国とその義を中心とされます。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12:15)という言葉をもって、物質的な富ではなく、神の前に豊かになるような大切さを教えられます。地上の富を蓄えても、誰もそれを天国に持って行くことができないと、イエス様は「愚かな金持ち」の例えを用いて教えておられます。社会正義を果たして財産を手に入れても、貪欲に堕ちいて命を失うなら、キリストによる救いの業がその人の内に全うされることはないことを明らかにされました。
キリストは、私たちの生き方を見て、どう思われているでしょうか?。現代社会が物に恵まれ、殆どの人は貪欲になりかかっているようにと見られるかもしれません。安定した生活のために金を稼ぐことは悪いことではありません。残念なことに物に恵まれている人は、すべてを自分の力で手に入れたと思い込み、生かされていることに気付かないことが多いのです。人には感謝の気持ちを忘れ、神に寄り頼む自覚が失われ、信仰は薄れて行く状態です。心の空洞を物質的なモノで満たしたいが、満たされることなく、貪欲の固まりになり、自分自身を満たすだけに終わってしまいます。自分の都合に良ければ、悪にも賛同し、神のものを否定して行きます。
本物の価値に気付くためにキリストに出会う必要があります。私たちの模範であるキリストは地上の富を求めず、貧しく生まれ、先生になっても家もありませんでした。無償に教えたり、人を癒したり、パンを与えられたり、悪霊を追い払ったりして、頂いたすべての物を御父に感謝しました。自分の権利のために争うことなく、私たちの罪を身に背負い、御自分を御父にいけにえとして献げ、私たちに御自分の御体と御血を永遠の命の糧として与え、聖霊を豊かに注いでくださいました。御ミサに与る私たちは、感謝の祭儀の中で御聖体を頂く度に、これらのことに気付いたら幸いと思います。