メッセージ - C年 年間

 

「『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」ルカ 13:23

父である神は、ご自分が創造されたすべての人々の救いを求めておられます。救いとは、三位一体の神の愛の交わりにあずかることですので、救われるためには、神の愛と共に神ご自身を受け入れること、と同時に自分の愛と共に自分自身を神にささげること以外に方法がないのです。それは、非常に難しいこと、もしかして全く不可能であると思われるかもしれませんが、人間の力だけでは無理なことであっても、神の働きによって可能なものになっているのです。

人間が救われるために、神はまず、人間に自由意志と共に愛する能力を与えてくださいました。それから、人間のために命に満ちた素晴らしい生活の場を造って、人間に対する愛を表し、人間をご自分との愛の交わりへと招いてくださったのです。人間はこの招きを拒否して、神が示してくださった道と別の道を歩むことによって幸福を得ようとするようになっても、神は人間に対するご自分の愛とこの愛に基づく望みを諦めずに、人間の救いのために働き続けられたのです。

神の愛の最も完全な表現と最も力強い招きとは、イエス・キリストの生涯、特にイエスの受難と十字架上の死ですが、神は今日に至るまで無限の方法を以て一人ひとりにご自分の愛を表し、愛の交わりへと招いておられるのです。人間は知的に神を知らずに、それを意識しなくても、真の愛に生きることによって、実際に神の招きに応えているし、永遠の救いに向かって歩んでいるのです。

殆どの人々が自分と自分が属しているグループのことだけを考え、自分の楽しみ、自分の快楽や満足のみを求めている現代、つまり利己心が一番高く評価されている現代に生きる私たちにとって愛に生きることは非常に難しいです。なぜなら、愛に生きること、つまり自分のためではなく、他人のために生きることは、自分の楽しみ、自分の快楽や満足、一言で言えば自分の幸福を犠牲にすることであって、現代人の価値観では、一番愚かな生き方として考えられているからです。

愛に生きるために、傷つけられているゆえに自己防衛的になっている自分の本性だけではなく、現代の価値観や一番強い流行に逆らう必要があっても、ますます多くの人々が、ご自分の復活によってイエス・キリストが表してくださった愛の力を信じて、神の望みと同時に、自分自身の心の最も深い望みに沿って愛に生き、神の招きに応えることができますように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ12・49-53


〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :主の僕の道

第一朗読:エレミヤ38,4-6,8-10

あの男は、 この民のために平安を求めず、 かえってわざわいを求めているからです (Jer 38:4 JAS)

第二朗読:ヘブライ12,1-4

イエスは、 ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。 (Heb 12:2 JAS)

福音朗読:ルカ12,49-53

わたしが来たのは、 地に火を投げ込むためです。  (Luk 12:49 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ :主の僕の道

第一朗読:エレミヤ38,4-6,8-10

この朗読の歴史的な背景には、南王国の終わりの時期ということがある。南王国はバビロニア王国に敵対するエジプトと契約した。ゼデキヤ王とユダ国民の長老たちはエジプトが南王国を守る力があると思っていたが、神の言葉を伝える預言者エレミヤにとって南王国がエジプトと契約するのは間違いであった。そのことを伝えたエレミヤは、ユダ国民の長老たちに裏切り者とみなされた。何年間か過ぎて、預言者エレミヤの言葉の通りになった。南王国は国として滅亡した(紀元前586年)。この世の者には、神の言葉を伝えている者の声が聞こえない。

第二朗読:ヘブライ12,1-4

この朗読の時代の社会的な背景として、イエスを信じている人々がイエスを信じていない人々から迫害されていたということがある。著者によれば、完全な信仰を持っているイエスが迫害されたのだから、イエスを信じている人々(まだ信仰が弱い人)もまた迫害される。迫害されたときには、イエスのようなやり方が必要である。それは、最後まで信仰を守ることである。

福音朗読:ルカ12,49-53

ルカによれば、イエスが神の子としてこの地上に現れた目的は、人間の心に信仰の火を投じることである(12,49)。そのために十字架上で死ぬまであらゆることを受けた(12,50)。イエスの死と復活の後、この世に生きている人々はイエスを信じるか、イエスを信じないかという選択をしなければならなくなった。一人一人の人間によってこの選択は異なるだろう。そのため、分裂が起こる場合も出てくる(12,51-53)。

 
メッセージ - C年 年間

「わたし(イエス)が来たのは、地上に火を投ずるためである。」ルカ 12:49

社会の中で、家族の愛、親子の絆、共同体の一致、諸民族の友情関係、人間共同体の協力や助け合いなどによって平和を実現することは、尊いものとして認められ、分裂や戦いを社会の中から取り除くべきであるということを、常識としてどんな社会の中でも教えられています。ところで、本日の福音の中で、キリストはこの常識を覆すような表現を用いて、御自身が来られたのは、地上に火を投ずるためであることとか、地上に平和をもたらすためではなく、分裂や、家族の中で親と子が対立して分かれるためであることなどを言われたりします。

人間は、誰でも平和、喜び、愛を求めます。しかし、人間の本性には罪のためにキズがあって、滅びへと導く悪い楽しみに惑わされ、自我と欲望のために必ず悪が付きまとうのです。私たちの一人ひとりも、また、それぞれの社会の共同体も、自分の内に悪が生じる場合、それを恥じ入り、認めたくないように悪を隠したり、見せかけの平和を作ったりします。例えば、現代の親の大勢には、自分の子どもを諭すことも注意することも怠っているという現象が現れています。調査によりますと原因は様々です。子どもを悲しめないため、子どもが暴れないため、子どもに嫌われないため、子どもを叱ると親子の関係が悪いと人の目に映らないようにするため、忙しい中で面倒だから物を買って子どもの気持ちをごまかすことなどに理由があります。このようにして幸せに見える家族の中で、秘かに悪が育てられ、義と愛を失って心の平和に繋がりません。

御ミサの中で私たちはキリストの御言葉に倣い、世が与える平和ではなく、キリストの平和を願い、「主の平和」という言葉を持って、平和の挨拶を交わします。キリストは悪に染まった人間と戦うのではなく、御自分の命を献げる最大な愛を持って罪人である私たちを救うために来られたのです。キリストは、悪を退けるために悪と戦われますが、誰であろうとも、悪意を持つ人との分裂を避けられないと教えています。しかし、キリストは善意の人々を皆、罪から解放し、御自分の内にすべての人を一つにすることを望んでおられます。

聖書の中での「火」とは、破壊する力としてよりも、「神の臨在」を表現する象徴として用いています。神様は「燃える芝」の中からモーセに語りかけて、使命を与え、『火』の柱の内に御自分の存在を秘められ、イスラエルの民を災いとすべての悪から守り、約束の地まで導いてくださいました。イスラエルの民は、『火』を用いて神様に全焼のいけにえを献げることによって創造主への感謝、尊敬と愛を表現し、その煙は天と地、神と人を繋ぐしるしとなりました。預言者イザヤが召命を受けた時に、神様は彼の口を祭壇の上で燃える炭火で清め、彼を聖別して御言葉を宣べ伝えるために相応しい者としてくださいました。また、新約時代に御昇天なさったキリストは弟子たちに御父から聖霊を注ぎ、聖霊は舌の形を取った炎として現れ、十二使徒の内に留まって、教会の中で神様が生きておられることを示したのです。

したがって、キリストが世界に火を投ずるというのは、金が火の中で精錬されるように、すべての人々が神様の愛の火によって清められ、心を燃え立たせて御父の御旨を行い、「神の似姿」、「神の子ども」としての自分らしい自分を見出すためです。