釈義 - C年 祭祝日

第一朗読:使徒言行録1,11-11

第一朗読の言葉が使徒言行録、すなわちルカによる福音書から続いている第二冊の始めである。ルカによる福音書が主の昇天で終わる(ルカ24、44-53)ので使徒言行録は主の昇天から始まる(使徒1、1-11)。イエスは自分の父のところに戻る前に、弟子が信仰の道を歩き続けるために必要な準備をすることができた。弟子の信仰を強めて、聖書の言葉が理解できるように説明し、宣教できるように聖霊の力を受けるまでエルザレムに留まるよう命令した後にこの世に離れた。キリスト教の教えによればイエスはこの世に再び来られる。この時栄光の時代が始まる。

第二朗読:ヘブライ人9,24-28;10,19-23

ヘブライ人への敵網の著者によれば、イエスは第祭司である。永遠の祭司である。 イエスは祭司として天国で人間のために神の御前に現れている。この世に来た目的は人間の罪を許すためにご自分のことを捧げ物として神に捧げるということであった(使徒9,24)。イエスが再び来られることの目的は人間がイエスとともに天国に入れるようにすることである (使徒9,28;10、19)。

福音朗読:ルカ24,46-53

主の昇天についてルカ24,46-53と使徒1、1-11が同じこと書かれている。並び方と細かい部分が異なるだけである。この二つの書物が同じ著者だからである。

 

 
メッセージ - C年 祭祝日

主の御昇天の出来事は私たちのために様々なメッセージがあると思います。

 

* キリストは復活して40日間、自分の弟子たちに現れ、そして天にお昇りになりました。40という数は、この地上の試練を現す数字です。キリストは、人間としてこの地上で多くの試練に耐え、罪と死に対して勝利を納めたのです。したがって、罪のために閉ざされた天国の門がキリストの御昇天によってすべての人のために開かれたのです。魂だけでなく、体もともに天に昇ったということは、人間性を強調し、キリストは最初の人間として天国にお入りになったことを伝えます。

私たちもキリストに従っていつも上のものを目指し、天国へと向かって生きるように招かれています。

 

* キリストはこの地上で、死にいたるまで御父に従順と謙遜の模範を示してくださいました。自分を謙遜に低くする者を神様が高めてくださると聖書は教えています。御昇天は、へりくだったキリストが御父によって高められ、「神の右の座」に着いたという表現は、神に等しい者として栄光と誉れを受けたことを教え、教会の頭となられたしるしです。

私たちもキリストのように神様に謙遜に聞き従い、神様の恵みによって神様の子ども見なされるように招かれています。

 

* キリストは、弟子たちに私たちのために天国で場所を用意しに行くことを約束してくださいました。神様の救いの計画の中で初めから私たちのために天国で場所がありました。私たちの罪がその場所をなくしたのです。しかし、キリストが私たちの罪を御自分の実に受けて十字架に付けられましたので、私たちは天国で場所をもう一度設けたのです。

キリストが私たちを迎えに来られると言われたのですから、 私たちは天国に入るために罪に背を向け、キリストを迎える回心が必要です。

 

* 地上にキリストが共におられた時、弟子たちは福音宣教については消極的で恐れていました。キリストの救いの業をこの世の中で実現していくために弟子たちに聖霊が必要でした。キリストが天に昇ったのは、彼らに御父のもとから聖霊を遣わすためでした。弟子たちをとおして聖霊の交わりの中で全世界に広がる普遍の教会が誕生しした。

教会である私たちも今、この地上で神の国を実現していくように召されており、聖霊の導きによって天国へと近づくことができます。

 

 

本日の第一聖書朗読、使徒言行録にもとづくと、キリストが天に昇ったことを見た弟子たちは、キリストのすがった消えた後も、ずっと天を仰ぎつづけていたのです。そこで神様は天使を使わして、それを止めるようにしたのです。なぜなら、御昇天なさったキリストは、聖霊の注ぎによって私たちの心の中で生きることになります。大切なのは、私たちの心を天国の一部として、キリストを生きることです。

 
主日の朗読聖書 - C年 復活節

ヨハネ17・20-26


〔そのとき、イエスは天を仰ぎ、弟子たちのために祈って言われた。「聖なる父よ、〕20彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のた めにも、お願いします。21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内 にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22あなたがくださった栄光を、わたしは 彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完 全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知 るようになります。24父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与え てくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。25正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたし を遣わされたことを知っています。 26わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるため です。」

 
主日の朗読聖書 - C年 復活節

テーマ :聖なる都エルサレムが

第一朗読 使徒言行録15,1-2,22-29

そこで使徒たちと長老たち、また、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送ることを決議した。選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった。 (Act 15:22 JAS)

第二朗読:黙示録21,10-14,22-23

都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。 (Rev 21:12 JAS)

また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。 (Rev 21:14 JAS)

福音朗読:ヨハネ14,23-29

『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。 (Joh 14:28 JAS)

 
メッセージ - C年 復活節

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」ヨハ 14:27

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」というイエスの言葉はミサが行われる度に唱えられるほど重要です。この言葉を語られる後にイエスは「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ 14:27)という言葉を付け加えて、自分が与える平和と、一般的に考えられている平和とは違うものであると強調されました。

ある国語事典によれば、平和とは、「心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。戦争や災害などが無く、不安を感じないで生活ができる状態。」です。考えてみれば、そのような平和を実現するために、悪い行い、他人を悲しませ、傷付けるような行いを避けるだけで十分です。それが簡単に見えるかもしれませんが、人類はそのような平和さえもなかなか実現できないのです。歴史を見れば、誰でも分かることですが、自分の幸福だけを求めている人は、自分が弱い時、相手と争うことが自分の損失になるだろうと思う時、悪いことを諦めて、以上の意味での平和を保つように努力しますが、相手より強くなって、相手を攻めることが自分の利益になると思う時は、平和を簡単に破ります。

イエスが与えてくださる平和とは、シャローム、すなわち人間の完全な幸福の状態です。この平和を実現するために、イエスは、私たちを利己心から解放し、神と他の人々との正しい関係に導いてくださいます。正しい関係というのは、相手に悪いことをしないだけではなく、相手を尊敬すること、相手の善を求めて、そのために積極的に力を尽くすこと、すなわち相手を愛することなのです。

人々は、神と他の人々との愛によって結ばれる時だけ、すべての人々が心の中で求めている平和、しかも、永遠に続く平和が実現されるのです。この恵みを常に願い求めましょう。