釈義 - C年 待降節

テーマ :神が救い主である

第一朗読:バルク5,1-9

第一朗読の言葉の歴史的な背景としてはバビロニア帝国の隷属時代がある(紀元前586‐538)。エルサレムからバビロニアに捕囚されたユダヤ人が希望を失わないように預言者はエルサレムの町の復活やユダヤ人のユダへの帰還や神によるユダヤ人の開放などについて預言する。

第二朗読:フィリピ1,4-6.8-11

使徒言行録によればマケドニア州のフィリピ市にパウロがヨーロッパで最初の原キリスト教の教会を創立した(使徒16,11-40)。パウロが述べ伝えた福音の中に「まもなく、イエスが再び来られる」という一つの教えがあった。信仰が強いフィリピの信者は「キリストの日まで」、つまりイエスが再び来られる日まで神を信頼してキリスト者として完全な人になるためにいつもイエスの教え通り自分の人生を造らなければならない。パウロによれば、それがこの世界に旅するキリスト者にとって一番大事な義務である。

福音朗読:ルカ3,1-6

洗礼者ヨハネの活動には歴史的な背景がある。ユダはローマ帝国の属州である(3,1)。ユダ地方を支配する領主はヘロデ・アグリッパ1世(エドム人)である。大祭司たち(アナンスはカイアファの義父であった)は宗教より政治に集中した。その時に洗礼者ヨハネが自分の活動を始めた。イザヤ預言から取った引用文(3、4-6)はヨハネの活動の理由と目的を示している。ユダヤ人の社会の悪い動きを正す時代が始まった。

 
メッセージ - C年 待降節

 

「悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。」(バルク5,1)

待降節は回心の時です。本日、読まれる福音の中で、洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。それは、神の子、救い主を迎えるための心の準備となります。御降誕の典礼がキリストの到来を再現します。私達も相応しい心で神から来られる救い主を迎えるように、教会は私達に待降節の回心の時を与えられました。

しかし、12月の日本で、私たちは回心する時を見付けるでしょうか。クリスマス・セールやクリスマ・スパーティー、忘年会、新年を迎える準備などで忙しく、騒がしい時の中で、祈り、節制や償いなどの地味な悔い改めの業に専念するのは、意外のものに見えます。日本での12月の風潮が私たちの心を奪い、神様から遠ざける快楽の道を歩むようにするならば、私たちは回心せずにキリストの到来を迎える喜びにならず、御降誕祭は虚しいものになります。

ところで、待降節の悔い改めは、悪を見つめて自分の罪を悔いるばかりのものになってはいけません。今日のみ言葉の中で神様は私たちに、悔い改めの業を喜びの内に行うように教えてくださいます。預言者バルクの口を通して、「悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。神から与えられる義の衣を身にまといなさい。頭に永遠なる者の栄冠をつけよ。」と教え、使徒パウロは、私たちがキリストの日に備えて清くなり、栄光と誉れを喜ぶように祈ると、第二朗読の中で記しています。

今日のみ言葉に従って、回心へと呼ばれている私たちは、忘年会の時に悪いことを忘れて兄弟と和解し、一年間に亘って神様からの恵みと多くの人に、御世話になったことを感謝し、クリスマス・プレゼントをもって小さい者の喜びを自分の喜びとし、パーティーに参加する中で多くの人に対して友情と愛を示すことができます。このようにして、すべてを祈りの内に温かい心でキリストの降誕を迎える準備として行うならば、それらは私たちの素晴らしい待降節の務めとなることでしょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 待降節

ルカ21・25-28、34-36

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 25「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安 に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大い なる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いか らだ。
34放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日 は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の 前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 
主日の朗読聖書 - C年 待降節

テーマ :イエスを待ち望む

第一朗読 エレミヤ33,14-16

主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。 (Jer 33:14 KOG)

第二朗読:一テサロニケ3,12-4,2

そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。 (1Th 3:13 KOG)

福音朗読:ルカ21,25-28.34-36

これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。 (Luk 21:28 KOG)

 
釈義 - C年 待降節

テーマ :イエスを待ち望む

第一朗読 エレミヤ33,14-16

エレミヤは預言者として紀元前626年から585年まで活動した。この時代にユダ王国は弱くなり、バビロニア帝国に反対する抵抗運動に入った。エレミヤはユダ王国の国際政治を批判したので裏切り者とみなされた。ユダ王国が独立を失う時にエレミヤは慰め的な預言をした。その一つが、第一朗読の言葉である。ダビデ王朝が再びユダ王国を永遠に支配するという預言である。この言葉はキリスト教の解釈ではイエスに関連付けられている。

第二朗読:一テサロニケ3,12-4,2

第二宣教旅行時に創立されたテサロニケのキリスト教会(使徒17,1-10)へ、パウロによって送られた手紙は、新約聖書で最初に書かれた書物だと言われている。この手紙の目的は、パウロとテサロニケ教会の関係を強くして、終末論的な教え(イエスが再び来られること)を説明することである。一般的に言えば、キリスト者にとって現代が終末的な時期である。信者たちがイエスが再び来られることを待つ間(3、13)どのように生活するべきかということについて第二朗読の言葉が説明する。

福音朗読:ルカ21,25-28.34-36

ルカによる福音書の言葉には終末的な意味がある。最初の部分(21,25-28)は紀元後一世紀の一般的な終末論的な考え方に似ている(21,25-26)がすべての行いの理由がキリスト教らしいのである(イエスが再び来られるからだ)。二番目の部分は、キリスト者がこのことを待っている間どのように宗教的な生活をするべきかという教えを述べている。