釈義 - C年 待降節

テーマ :主は人を守る

第一朗読:ゼファニヤ3,14-17

ゼファニヤは預言者として宗教的な活動をユダ王国のヨシヤ王の時に(紀元前641-609)した。紀元前7世紀からユダ王国はアシリヤ帝国の属州であったのでこの王国の社会、政治、宗教は改革が必要なことであった。ヨシヤ王がこの改革をするようにゼファニヤは活動をした。特別に、宗教的な改革できるようにゼファニヤは強い預言した。この予言は二つの部分があった。最初の部分(大きな部分)が脅迫であった(1,2-3,8)。最後の部分(短い部分)が慰めである(3,9-20)。第一朗読の言葉はユダ王国の将来ろ関する慰めの預言である。

第二朗読:フィリピ4,4-7

フィリピの信徒への手紙はパウロが逮捕された時に書かれた書物である。一般的にいえばそれはローマの刑務所に生活する時だ(紀元後59-61年)と思われていることである。しかし、この手紙の内容は明るい。信仰が強いパウロは自分でイエスに信頼して神に感謝することではなく信者がいつも同じことをするために第二朗読の言葉の中で命令した。

福音朗読:ルカ3,10-18

洗礼者ヨハネは人々が自分の考え方と生活のし方を直すためにさまざまな役に立つ教えをした(3、10-14.18)。民衆は洗礼者ヨハネの教えを理解出来った(3,15)。しかし、人間の心を直すために完全な社会の制度を造ることが足りないということをヨハネが分かったので聖霊の力を人間に与えられるイエスのことを述べ伝えた(3,16‐17)。

 
メッセージ - C年 待降節

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ルカ 3:15

民衆はメシアを待ち望んでいたのに、メシア・救い主が実際に来られたとき、彼を喜んで迎え入れたのではなく、「十字架につけろ」と叫んで、ローマの兵士の手によって殺してしまったのです。それは、非常に悲劇的なことでしたが、私たちの人生においても、同じようなことが起こっていないでしょうか。

人間は、それをはっきりと意識しなくても、誰かに意向的に会おうとしているときに、必ずこの人に関して何らかの期待を持っています。非常に多くの場合、この期待は出会った人自身や、この人との出会いを評価する基準になっています。この人は、私たちの期待通りに話したり、期待通りに振る舞ったりするならば、私たちは満足や喜びを感じて、この人を高く評価します。しかし、客観的にこの人が私たちに良いことをしても、それは、私たちが期待したようなことでないならば、がっかりしますし、この人やこの人がしてくださった良いことを受け入れることができないだけではなく、この人を非難したり、攻撃したりすることがあります。当時の人々がイエスを排斥してしまったのは、イエスが悪いことをしていたからではなく、この人たちがメシアから期待していたようなことをしなかったからです。

私たちは、この人たちと同じような過ちを犯さないために。キリストを迎え入れる準備のために与えられている待降節の後半を生かし、自分の心を支配しているいろいろな思い込みや勝手な期待、また、余計な愛着や拘り等のようなことを手放して、私たちのために最善のことを求め、最善のことを行うイエスをありのままに受け入れることができますように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 待降節

1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リ サニアがアビレネの領主、2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3そこで、ヨハネはヨルダン川 沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
5谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

 
主日の朗読聖書 - C年 待降節

テーマ :神が救い主である

第一朗読:バルク5,1-9

神は自らの慈しみと義を持って栄光の輝きを表し、喜びのうちにイスラエルを導かれる。

第二朗読:フィリピ1,4-6.8-11

そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 (Phi 1:6 KOG)

福音朗読:ルカ3,1-6

人はみな神の救を見るであろう (Luk 3:6 KOG)

 
釈義 - C年 待降節

テーマ :神が救い主である

第一朗読:バルク5,1-9

第一朗読の言葉の歴史的な背景としてはバビロニア帝国の隷属時代がある(紀元前586‐538)。エルサレムからバビロニアに捕囚されたユダヤ人が希望を失わないように預言者はエルサレムの町の復活やユダヤ人のユダへの帰還や神によるユダヤ人の開放などについて預言する。

第二朗読:フィリピ1,4-6.8-11

使徒言行録によればマケドニア州のフィリピ市にパウロがヨーロッパで最初の原キリスト教の教会を創立した(使徒16,11-40)。パウロが述べ伝えた福音の中に「まもなく、イエスが再び来られる」という一つの教えがあった。信仰が強いフィリピの信者は「キリストの日まで」、つまりイエスが再び来られる日まで神を信頼してキリスト者として完全な人になるためにいつもイエスの教え通り自分の人生を造らなければならない。パウロによれば、それがこの世界に旅するキリスト者にとって一番大事な義務である。

福音朗読:ルカ3,1-6

洗礼者ヨハネの活動には歴史的な背景がある。ユダはローマ帝国の属州である(3,1)。ユダ地方を支配する領主はヘロデ・アグリッパ1世(エドム人)である。大祭司たち(アナンスはカイアファの義父であった)は宗教より政治に集中した。その時に洗礼者ヨハネが自分の活動を始めた。イザヤ預言から取った引用文(3、4-6)はヨハネの活動の理由と目的を示している。ユダヤ人の社会の悪い動きを正す時代が始まった。