釈義 - C年 待降節

テーマ :イエスを待ち望む

第一朗読 エレミヤ33,14-16

エレミヤは預言者として紀元前626年から585年まで活動した。この時代にユダ王国は弱くなり、バビロニア帝国に反対する抵抗運動に入った。エレミヤはユダ王国の国際政治を批判したので裏切り者とみなされた。ユダ王国が独立を失う時にエレミヤは慰め的な預言をした。その一つが、第一朗読の言葉である。ダビデ王朝が再びユダ王国を永遠に支配するという預言である。この言葉はキリスト教の解釈ではイエスに関連付けられている。

第二朗読:一テサロニケ3,12-4,2

第二宣教旅行時に創立されたテサロニケのキリスト教会(使徒17,1-10)へ、パウロによって送られた手紙は、新約聖書で最初に書かれた書物だと言われている。この手紙の目的は、パウロとテサロニケ教会の関係を強くして、終末論的な教え(イエスが再び来られること)を説明することである。一般的に言えば、キリスト者にとって現代が終末的な時期である。信者たちがイエスが再び来られることを待つ間(3、13)どのように生活するべきかということについて第二朗読の言葉が説明する。

福音朗読:ルカ21,25-28.34-36

ルカによる福音書の言葉には終末的な意味がある。最初の部分(21,25-28)は紀元後一世紀の一般的な終末論的な考え方に似ている(21,25-26)がすべての行いの理由がキリスト教らしいのである(イエスが再び来られるからだ)。二番目の部分は、キリスト者がこのことを待っている間どのように宗教的な生活をするべきかという教えを述べている。

 

 
メッセージ - C年 待降節

神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」1コリ 1:9

待降節を迎える私たちは、待降節第1主日に読まれるみことばによってキリスト者としての生き方の基本を思い起こさせます。キリスト者の生活は、旅に出かけている主人から仕事を与えられた僕たちや目を覚ましているように命じられた門番の生活に似ています。

私たちが与えられた仕事というのは、自分の生活によって神の愛を現し、神の国を証することなのです。または、門番のように目を覚ましている目的は、いつでもキリスト自身を受け入れることなのです。キリストが約束してくださったように、世の終わりに誰でもはっきりと分かるような形で来られますが、その前に目を覚ましている人たちだけが分かるような方法で私たちのところに来ています。もし、私たちはキリストのことを忘れて、他のことに夢中になって、キリストが私たちのところにいらっしゃっているのに気が付かずに、キリストを受け入れないならば、与えられた仕事を果たすことが出来ません。なぜなら、私たちは、キリストと結ばれて、キリストと共に生きているときだけ、神の愛に生きることができますし、神の国を証することができるからです。

私たちは、いつもキリストを自分の人生に受け入れ、いつも共に生きることによって、与えられた使命を果たすことができるだけではなく、最高の賜物を受け入れるために準備をすることができます。この最高の賜物というのは、キリストとの完全な交わりであります。同時にそれは、永遠に続く三位一体の神との交わり、また、救われたすべての人々との愛の交わりでもあります。言い換えれば、この最高の賜物というのは、完成された神の国に受け入れられることなのです。