メッセージ - C年 祭祝日

「イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」ルカ 2:48-49

イエスがその生みの母であったマリアに向かって語った言葉、例えば「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」・・・「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マコ 3:33-35)という言葉を読むと、イエスは孝行息子ではなかったとか、血の繋がりを大事にされなかったというような印象を受ける人がいるようです。

しかし、もしそれが事実であったならば、イエスは34年間の生涯の中の30年間も家庭生活をされたのでしょうか。決してそうではないはずです。やはり、人生の凡そ90%を家族にささげたイエスは、家族の生活は非常に大事であるということを示したと思います。

考えてみれば、非常に多くの場合は、血の繋がりがあっても、犬猿の仲の関係に生きる人が多くいます。自分の野心や欲望を優先して自分の子どもに対する責任を怠ったり、または子どもを虐待したりする親がいたら、自分の両親を敬わずに、ただのいろいろな援助や資金の源としてしか見ない子どもも沢山います。家族の中でいろいろな問題が世代から世代へと伝わることも珍しくありません。

イエスが聖母マリアに語った言葉によって、血族関係が大切であっても、何よりも大事なのは、神との関係であるということを教えています。神は、私たちの幸福を妬むような恋がたきではなく、すべての人が互いに愛し合うことを求めておられる天の父であり、愛の源です。ですから、神との関係を何よりも大切にするということは、他の人間関係を犠牲にするということではなく、神から真の愛をいただくことによって血族関係を含め、あらゆる人間関係を癒していただくということなのです。

 
主日の朗読聖書 - C年 待降節

ルカ1・39-45
39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエ リサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子 さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にし たとき、胎内の子は喜んでおどりました。45
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 
主日の朗読聖書 - C年 待降節

テーマ : きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった

第一朗読:ミカ5,1-4

しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。 (Mic 5:2 KOG)

第二朗読:ヘブライ10,5-10

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。 (Heb 10:10 KOG)

福音朗読:ルカ1,39-45

主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。 (Luk 1:45 KOG)

 
釈義 - C年 待降節

テーマ : きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった

第一朗読:ミカ5,1-4

預言者ミカはモレセト市に住んでいたが、宗教的な活動はエルサレムでした。彼はイザヤ,ホゼア、アモスら預言者たちと共に(紀元前759-698)ユダヤ人の社会や宗教的な問題(ミカ2,2;6、11;ミカ3,5.11;ミカ5、12;ミカ1、7;ミカ1,8;8,11-13)を正すために強く批判した。しかし、彼の教えの中には慰め的な預言もある(5,1-3)。この第二朗読の言葉はユダヤ教にとってメシアに関する言葉である。キリスト教にとってはこの言葉はメシアとしてのイエスを表している。

第二朗読:ヘブライ10,5-10

第二朗読の言葉は「大祭司としてのイエス」という主題(4,14-10,18)が一つの部分である。一般的に言えば、ユダヤ教の教えにとって人間の罪を許すことができるのは、神だけである。ユダヤ教の律法では、罪が許されるためには、エルザレム神殿で捧げ物を捧げなければならない。ヘブライ人への手紙の著者とこの手紙の受取人たちはイエスを信じているユダヤ人であった。だから、ヘブライ人への手紙の言葉によれば、神のみ旨のとおりイエスは人間の罪が許されるように自分の命を捧げ物として捧げた。この捧げ物が完全な捧げ物である(10,10)。

福音朗読:ルカ1,39-45

ユダヤ人社会ではマリヤよりエリザベトの立場のほうが高かった。だから、マリヤは身籠ったエリザベトを助けるためにガリラヤのナザレからユダのベツレヘムまで危険な旅をした。マリヤのあいさつの後のエリザベトの言葉(1、43)が予言であった。社会的な立場が低い者の子供が社会的な立場が高い者とその子供の主になるからである。ルカによれば、エリザベトはこの予言を聖霊の力のうちに語った。ルカの書物では聖霊の力がすべての正しく不思議な業の理由である。

 
メッセージ - C年 待降節

「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んで踊りました。(ルカ1,44)

カトリックの世界では一番多く祈られている祈りは、天使の祝詞(アヴェ・マリアの祈り)であると言います。それは、ロザリオの祈りを一環だけ唱えたら、53回も繰り返して「アヴェ・マリアの祈り」を祈ることになるわけです。この祈りの始めである、「アヴェ、マリア。恵みに満ちた方。主はあなたと共におられます。」という言葉は、御告げの時に大天使ガブリエルが神様から預かったマリア様への挨拶です。その続きである、「あなたは女の内で祝福され、御胎内の御子イエスも祝福されています。」は、本日の福音の中でエリザベトが聖霊に満たされて御訪問なさった聖母マリアに交わした挨拶の言葉に基づいています。

キリストの誕生物語は挨拶で特徴づけられます。福音の中で紹介された挨拶は、人間、また、歴史の流れを変え、永久の影響を及ぼします。大天使ガブリエルが伝える神様からの挨拶によって、マリア様は世の救い主、神の子イエス・キリストを身籠りました。本日の福音の中で、マリア様がエリザベトに挨拶した時、エリザベト自身は聖霊に満たされ、エリザベトの胎内の子(後の洗礼者ヨハネ)も喜びおどりました。その挨拶に応えたエリザベトは、マリア様を「わたしの主のお母様」と呼び、教会の聖母への信心を始めました。後に、マリア様は賛歌(挨拶)を持って、神様を誉め讃える模範を後の教会に残してくださったのです。歴史を動かすほどの力ある挨拶の言葉は、ヨハネによる福音のプロローグによると、『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1,1)ということにわけがあったと言います。

現在、わたしたちが生きている社会の中で挨拶は少なくなり、正式な場では、義務を果たすための機械的なものになりがちです。この環境で育てられている青少年の挨拶はますます悪くなっている現象が見られます。その結果として、今の時代は、ものに恵まれても人間関係が難しくなり、人との交わりが表面的なものになって行くから、群衆の中に居ても寂しさを感じられます。楽しむ場や道具をいくら増やしたとしても、満たされることなく、挨拶がなければ、心から喜ぶ人は少なくなって行くわけす。

信者の、神様への挨拶とは、祈りの一つです。しかし、この頃の多くの信者にとって、神様の存在は隔たりがあり、挨拶はできないほどに遠くなって行く恐れがあります。すなわち、家族の祈りがなくなって行き、個人的な祈りを忙しさの理由で忘れたりする人が増えます。その結果としては、教会離れ、御ミサへの遅れ、典礼や教会の奉仕に関わりたくないという現象が見られます。

御降誕祭に向けてわたしたちは今、マリア様のように祈りの中で神様に心の聴く体制を整え、クリスマスの挨拶は人から頂くだけではなく、主の御降誕祭の典礼の中で来られる神の子、イエス・キリストからの愛の挨拶(祝福)として頂きましょう。そして、マリア様が挨拶をして、聖霊によってエリザベトを喜びで満たしたように、わたしたちも、季節としてのクリスマスの挨拶だけではなく、どんな時にも、人を生かして、霊的に力づけるような心からの挨拶を身につけましょう。