釈義 - C年 年間

第一朗読:イザヤ6,1-2a.3-8

第一朗読の言葉は「エマニュエル書」と呼ばれている文書の始めである(イザ6-12)。この言葉の歴史的な背景にはシリヤ-エフライム戦争がある(紀元前735‐734)。その時、イザヤが預言者になるべく神に選ばれた(イザ6,6)。彼の仕事はこの困難な時期に国民の希望を守るため、やがて現れる救い主について預言を述べ伝えることであった(イザ9,1-6)。ユダヤ人にとって神を見た人は必ず亡くなるが、イザヤの場合は異なる。イザヤにされた啓示(イザ6,1-5)の目的は命を取ることではなく彼を預言者にすることであった(イザ6,5)。

第二朗読:一コリント15,1-11

一致が無いコリント原初キリスト教の中にはイエスが復活されたということを信じていない人々もいた(1コリ15,12)。だから、イエスが復活されたと言う教えは最初からキリスト者にとって基本的な部分であった(1コリ15,3-6)。パウロにとっても復活されたイエスに会ったということが彼の信仰の源泉であった(1コリ15,8-10)。それだけではなく、イエスを信じるようになったサウロ/パウロは身体復活の教えを述べ伝えるため、イエスに選ばれた人になった(1コリ15,11)。

福音朗読:ルカ5,1-11

シモン・ペトロは漁師として自分の仕事に関することをよく理解していた(ガリラヤ湖では朝早くと夜遅くにしか魚がとれない)。だから、ペトロにとってイエスの行いは偶然ではなく、その人に特別な力があるということの証であった。この行いはペトロの信仰の源になった。信仰を持っているペトロはイエスの弟子になるために選ばれた。

 
メッセージ - C年 年間

「シモンは、「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。」ルカ 5:5

シモンがイエスに言われて、漁に出かけたのは、魚がとれると思ったというよりも、イエスに対する尊敬を示すためだったでしょう。しかし、魚がとれるはずのないその時に意外に沢山の魚がかかり、どんな時よリも沢山とれました。

それは、シモンにとって大きなショックだったでしょう。突然、大きな贈物、しかも自分が望んでいても、全然期待していなかった賜物を与えられました。シモンはイエスにこの望みを表したわけでもないし、頼んだわけでもありません。イエスは自ら、彼の望みを見分けて、それをかなえてくださったのです。

シモンの目は、この賜物に留まったのではなく、この賜物の大きさによって、それを与えてくださった方の愛の偉大さを見出しました。その時恐ろしくなりました。自分が罪深くて、弱い者で、この愛に全く相応しくないということが分かっていたし、どうしたらこの愛に応えることができるかということも知りませんでした。

イエスは、彼に安心するように言って、ご自分がおん父から与えられた使命に参加するように招きました。シモンは喜んでこの招きを受け入れました。なぜかというと、この招きを受け入れるのは、自分が体験したこの偉大な愛を受け入れること、この愛に応えることになると分かったからです。

私たち一人ひとりを愛してくださり、私たちの幸福を求めておられる神は私たちにも多くの恵み、多くの賜物を与えてくださいます。それは、私たちがこれらの恵みや賜物によって幸せになるからではなく、私たちがいつかシモンと同じように、それを通して神の愛を見出し、シモンと同じようにこの愛を受けることを求めておられるからです。最終的に、神の愛だけが私たちの心を完全に満たし、愛である神ご自身だけが私たちを完全に幸福にすることができるのです。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ4・21-30 (年間第4主日)
[そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた] 21イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に 驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、 『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言 者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イス ラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、 預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会 堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは 人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :愛と恐れ

第一朗読 エレミヤ1,4-5.17-19

さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、 わたしがあなたに命じることをみな語れ。 彼らの顔におびえるな。 さもないと、 わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。 (Jr 1:17 )

第二朗読:一コリント12,31-13,13

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 (1Co 13:7)

福音朗読:ルカ4,21-30

立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。 (Lk 4:29-30)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読 エレミヤ1,4-5.17-19

第二朗読の言葉は、神がエレミヤを預言者として活動させるために選んだということを表している。エレミヤは紀元前626年から亡くなる時までこの仕事をした。彼が活動をした時期はユダヤ人の国民(南王国)にとって非常に苦しい、王国を失った時期であった。エレミヤは人として心の優しい人物であったと思われている。しかし、預言者として神の御旨のとおり、王たちと南王国のエリトーに対して激しく反対をしなければならなかった。エレミヤの心の中で彼の性格と彼の義務は最初から最後まで戦っていたが、エレミヤは神の御旨を行う道しか歩いていなかった。

第二朗読:一コリント12,31-13,13

「愛の賛歌」と呼ばれている一コリント12,31-13,13の部分は一致が無いコリントの原初キリスト教を議論するパウロの最も大事な教えである。コリントのキリスト者たちは妬み、党派心、謗り、高慢の霊の内に強く議論した。この議論の中には社会的な問題(1コリ11,1-34)と宗教的な問題(1コリ12,1-30;14,1-40)があった。「愛の賛歌」は宗教的な問題に関する部分の中心である。パウロにとって「愛」こそが全てに勝る道である(1コリ12,31)。コリントのキリスト者はこの道を歩いて行く筈である。

この中には三つの文書がある:愛が無い人の価値(13,1-3);愛の業(13,4-7);真実的な愛(13,8-13)。

福音朗読:ルカ4,21-30

イエスは父を愛し、人間を愛する。そのため人間に恐れられることはなかった(ルカ4,28-30)。世論より真実を言う、神の御旨を行うことがイエスの業であった。信仰を持っていない(イエスを信じていない)ナザレの人々は奇跡を見たがったが奇跡を行うためには信仰が必要である。ユダヤ人ではないけれども信仰を持っている人々は奇跡を見た(4,15-27)。ユダヤ人ではあるが信仰を持っていない人々は奇跡を見られなかった。