メッセージ - C年 復活節 |
今日私達は聖霊降臨の主日を迎えました。復活祭の後、50日間祈りながら待つ弟子たちの上に聖霊が注がれた日です。この出来事があったからこそ、弟子達は勇気を持って全世界に福音を述べ伝えはじめました。ある意味で、この日は普遍的な教会の誕生日でもあります。
朗読される御言葉では聖霊とその業によって「主の証しになる」というテーマについて描かれています。第一朗読ではイエス様が十字架に付けられて、死んだ後、弟子たちはいつも恐れて生きていました。しかし、聖霊が彼らの上に降ると、人生は新しいものとなり、心配や、恐れを超えることができるようになりました。そして、弟子たちは勇気を持ってそれぞれの国の言語で神の国の宣教を始めました。それは、イエス様の死と復活を証しするためです。その偉大な業は自分自身の中から出るものではなく、神の恵みと聖霊の導きのおかげなのです。
福音書ではイエス様は弟子たちと別れる前、偉大なメッセージを与えられました。「父は別の弁護者を遣わし、永遠にあなたと一緒にいるようにしてくださる。あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とイエス様はおっしゃいました。つまり、Parakletos「弁護者」である聖霊は私たちを導き、信仰の真理を語ることができるようにしてくださるのです。イエス様にとって、信仰とは単なる言葉ではありません。イエス様のことを信じて、その業を認め、証しすることこそが重要な宣教の方法だからです。なぜなら、行いのない信仰はむなしいからです。
私たちも洗礼の恵みに与ることのできた1人ですから、イエス様は私たち一人ひとりが証しになるために呼びかけているのです。では証しをするためには何が必要でしょうか?私たちの生き方や行動が、他の人たち、その人が自分にとってどんな立場であっても、その人の慰めになるべきではないかと思います。聖霊降臨後の、弟子たちの模範にならい、日々の生活の中で、主の栄光を証ししていきましょう。隣の人と、イエス様の教えを分かち合うことでも、良い選択をすることでも、隣の人の話を聞くことでも、祈ることでも、美味しいご飯を作ることでも、笑顔でほほえみかけることでも、ひとり一人にそれぞれのやり方が与えられています。さまざまな方法で、私たちは、イエス様の愛を証しすることができます。そうすれば、私たちは、豊かな喜びに満たされるでしょう。どうぞ、聖霊の賜物を願いながら日々の生活を過ごして参りましょう。
メッセージ - C年 復活節 |
私たちは今日、主の昇天を祝っています。教会の暦を通して、私たちも聖週間の間にイエスの死を思い起こし、復活祭を経て、イエスが死に打ち勝って今も私たちと共にいることを実感し、今日の昇天の出来事を通して、イエスの復活が単に生き返ったというものでなく、神とともに永遠のいのちに生きる者となったことを再確認します。使徒信条にある通り、イエスは「天に昇って、全能の父である神の右の座」についたわけですね。また、私たちはイエスが弟子たちに聖霊を送ると約束していたことを、これまでの復活節の間の福音箇所で見てきました。それは今日の福音の49節にも書かれています。その出来事の実現を来週の聖霊降臨の日に祝います。こうした復活・昇天・聖霊降臨という一連の出来事、イエスの死の後にどのようなことが起こったのか、というこの流れ、そしてその一つ一つの出来事が私たちの信仰の中心であるわけですから、今一度これらの事をしっかりと理解するよう求められていると思います。
さて、今日の福音箇所では、まさにイエスが天に昇られるその場面が読まれていますが、その中で特に私が注目したのは48節「あなたがたはこれらのことの証人となる」というイエスの言葉です。メシア、つまりイエスの死と復活、そして罪の赦しと悔い改め、これらが世界中に宣べ伝えられることの証人となると、イエスは弟子たちに語っています。弟子たち自身がそれを宣べ伝えるのではなく、宣べ伝えられていくことの証人となる、という言い方は、少し不思議に思います。もちろん、弟子たち自身も宣べ伝える者となっていくのですが、彼らの宣教が彼らだけで終わってしまうことなく、後継者に受け継がれ、徐々に世界に広がっていくことを、イエスは天に昇る直前にこうした言葉で弟子たちにまた「約束」をしているのだと思います。この宣教の始まりは、イエスの言葉通り「エルサレム」から始まるものですが、その終わりはどこになるのかは示されていません。これは、弟子たちから現代の私たちに至るまで、そして私たちの後に続くこれからの人々にも、その宣教が続いていくことを教えているのだと言えます。弟子たちの宣教を受け継いだ私たちも一人のキリスト者として、自分の信仰をまた改めて見つめ直しながら、次に伝えていく使命を果たすことができるように、今日のこの主の昇天の日を祝いたいと思います。
先に述べた通り、昇天を含め、イエスがどういう存在であり、私たちが信じるべき出来事は何か、というものが全てミサの中で唱えられる「使徒信条」に集約されています。普段何気なく、ただ唱えているだけになってしまいがちですが、特に今日はこの使徒信条の言葉をよく噛みしめながら、私たちの信仰をしっかりと確認することと致しましょう。そしてその信仰をこれからも固く保ち続けられるように、共に祈りたいと思います。
メッセージ - C年 復活節 |
心細くて不安なとき、何をしてくれるというのでなくても、信頼できる誰かがそばにいてくれるだけで勇気が出る、ということがあります。
この日の福音朗読(ヨハネ14:23-29)では、ミサの中で唱えられる言葉が語られます。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。ここで私たちに与えられる平和とは、表面的に、問題が何もないということではありません。弟子たちはその後、世から迫害を受けることになりました。殉教した者もたくさんいました。現代でも、残念ながらこの世界には病気があり、戦争があり、様々な苦しみがあります。しかしそれでも、そこに平和をもたらす、平和を与える、といわれます。
「わたしはまた、あなたがたのところへ戻ってくる」と言われた「復活のキリスト」を、私たちはどのように感じとることができるでしょうか。それができたとき、私たちはたとえ嵐の中でも平和の内に歩むようになるでしょう。
メッセージ - C年 復活節 |
きょうの福音では、主イエスによる愛の掟について記されています。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と。
この主の御言葉に基づいて注目したいことは、最後のところにあります。「互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」という聖句です。ここでイエスは愛についての生きた証言の重要性を強調したいのです。愛の生きた証言は単なるスローガンよりも、はるかに強力です。
聖書のある場面では、主イエスは、「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる(ルカ6:44)」と言っています。行動や言動によってその人の信仰の本質や性格が分かる、と言うのです。つまり、「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」というように、その人の内面が行動や言動に現れるという意味です。
一つのラテン語の名句を思い出します。「Verba Movent Exempla Trahunt.」それを日本語にすると、「言葉は人を動かし、行いは人を引きつける」です。信仰の本質も同様です、「何を言っているか」よりも、「何をしているか」が大事です。言い換えると、立派な言葉を口に出しても、行いを伴っていないなら、人々の心に伝わらないということです。
ここで強調するところは“信仰は生きるもの”なので、周りの人々が私たちの存在を通して、キリストの愛という「互いに大切にし合う姿、互いに赦し合う姿、互いに支え合う姿」を肌で体験することができるように、ということです。「皆の間で、お互いに愛し合うならば、あなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」と。アーメン。
メッセージ - C年 復活節 |
この主日の福音朗読(ヨハネ10:27-30)は非常に短いイエスの言葉から取られていますが、そこでは、私たちがイエスの手の内にある羊だとされています。羊は様々な家畜の中でも生き延びるために人の手を必要とする動物で、数千年もの長い間、人間に飼われてきたので、今さら野生に戻ることもできず、生まれるときに取り上げてもらうところから餌の世話などすべて助けが必要なのだそうです。また、単独ではなく群れで行動したがる動物で、群れから引き離されると強いストレスを感じ、その上自分が積極的に何かを始めるより、羊飼いや牧羊犬や群れ全体についていく傾向がとても強いと言われています。ですから、先を行くものが間違っていてもついていってしまうようで、一匹の羊が崖から飛び出した後に群れ全体が同じように崖から次々と飛び降りて死んでしまった、というニュースもたびたび報じられています。更に、非常に臆病で、何か危険に直面すると、単純にそこから逃げ出そうとする行動を真っ先に取る弱さもあります。
私たちは、このような羊にたとえられています。ことさら卑下する必要はありませんが、冷静に考えても、私たちはいつも誰かの助けを必要としながら生きています。そこには物理的な援助も含まれでしょうし、安心感を与えてくれる心の支え、道を示してくれる導き手でもあるでしょう。私たちは、最終的には、何に頼るでしょうか。誰の声に耳を傾けて行く先を決めるでしょうか。イエスは私たちに対し、「わたしの羊」と呼びかけています。