メッセージ - A年 四旬節

今日は四旬節第一主日です。四旬節は、内省、悔い改め、刷新、そして復活祭への準備のための40日間です。福音書の中で、イエスは砂漠で40日間断食されました。サタンの誘惑を受け、それを克服されました。これは、私たち自身の苦悩や誘惑について深く考えるよう促すものです。四旬節の旅を始めるにあたり、私たちは道を示してくださるイエスに従いましょう。

皆さん、サタン、世の中、そして肉の誘惑を受けていませんか?どのように誘惑を克服しますか?

今日のテーマは、誘惑、罪、そしてそれらを克服する方法についてです。さらに、四旬節におけろみっつはらしについてです。マタイによる福音書では、イエスは40日間を砂漠で過ごした後、サタンの誘惑を受けました。これは何を意味するのでしょうか?人は誘惑から逃れることはできません。誘惑は現実のものであり、私たちの霊的な旅の中の戦いの一部です。それは神への忠誠を試される試練です。誘惑から逃れられる人はいません。イエスでさえ誘惑の犠牲者でした。彼はサタンに3度誘惑されましたから。

イエスが受けた3つの誘惑は、私たちも日々直面している誘惑と同じです。食べ物の誘惑、神を試す誘惑、そして名声の誘惑、この3つの誘惑に注意しましょう。サタンはいつでもどこでも私たちを誘惑します。私たちが最も弱く、最も傷つきやすいときに誘惑するのです。

最初の誘惑は食べ物の誘惑です。これは「石をパンに変える」誘惑です。次の誘惑は神を試す誘惑です。そして三番目の誘惑は、世の権力を得る誘惑です。イエスは申命記の聖句を引用することで、それぞれの誘惑を克服されました。さらに、イエスはご自分の力を利己的な利益のために用いること、神への従順の道を迂回したりすることを拒まれました。

では、私たちの福音書から学ぶべき教訓は何でしょうか。第一に、イエスがサタンに誘惑されたように、私たちもいつでもどこでも誘惑を受ける可能性があります。「誘惑は罪ではありません。」誘惑に従って行動し、罪深い快楽に屈し、神を忘れると、誘惑は罪になります。誘惑は、疲れているとき、ストレスを感じているとき、あるいは空虚感を感じているときに訪れます。つまり、誘惑は私たちが罪を犯すように誘うのです。

第二に、誘惑に屈してはいけません。四旬節の行いの三本柱、祈り、断食、そして施しを用いてください。これらは誘惑に打ち勝つための強力な手段です。神の言葉を信じ、祈りの力を信じてください。祈りは神を愛することです。祈りがなければ、断食はダイエットと同じになってしまいます。祈りがなければ、施しは単なる社会奉仕になってしまいます。ですから、この四旬節には、祈りの時間を増やし、十字架の道行きに参加し、聖書を読み、毎日ロザリオの祈りを捧げましょう。

第三に、四旬節は愛、回心、そして犠牲の実行に溶離成長酢するための機関です。祈りは神への愛、断食は自己の鍛錬、そして施しは隣人への愛です。どれか一つでも欠けると、四旬節はバランスを欠いたものになります。断食のない祈りは感傷的になり、愛のない断食は傲慢になり、祈りのない愛は空虚な活動主義になってしまいます。これらが合わさることで、霊的な秩序が回復されます。四旬節を漠然と終わらせないでください。具体的な犠牲が真の成長を生み出します。

言い換えれば、四旬節は霊的な感覚を得るための期間ではなく、聖なる者となるための期間です。誘惑は確かに存在しますが、神の恵みはそれよりも強いのです。神にすがるなら、私たちは決して孤独ではなく、共に神がたたかってくださいます。信仰と神の助けがあれば、悪に抵抗し、正しいことを選ぶことができます。

祈り:主イエスよ、誘惑に気づかせてください。この戦いにおいて、私たちは孤独ではないことを思い出させてください。悪に抵抗し、正しいことを選ぶことができるよう、私たちを助けてください。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

日常生活において、私たちはしばしば禁止事項(してよいこと・してはいけないこと)という形で規則や法律と接しているのではないかと思います。定められた規則や法律に対して、私たちは、それらを遵守し、規律正しく責任を持って実行していることでしょう。これは、家庭、学校、職場における調和を生み出すために重要です。では、法律や規則に従う義務は、本当に心の底から湧き上がるものなのか、それとも単なる習慣的な行動に過ぎず、心の中には特別な動機や目的はないのでしょうか。

朗読箇所の御言葉の中で、特にマタイによる福音書では、「愛が律法を完成させる」ことについて深く描かれています。山上の説教において、イエスはご自身の到来が律法を廃止するためではなく、愛の掟によってそれを完成させるためであることを強調されました。つまり、イエスは神への信仰の従順が規則や目に見える行為に留まるのではなく、愛によって変えられた心に根ざすものであることを教えられました。つまり、従順とはもはや「破らないこと」ではなく、神と隣人を愛することなのです。愛の掟を通して、イエスは私たちに、関係を回復し、自分自身と他者を神の創造物として尊重し、言葉と行いにおいて一貫した誠実さをもってそれを現すよう招いています。なぜなら、神は私たちの行いだけでなく、心に秘めているものも見ておられるからです。したがって、私たちは自分自身を刷新し、神の前で正しい人間として生きるための新たな決意と献身を新たにしなければなりません。

今日の神の御言葉を通して、私たちは皆、神の慈愛に満ちた愛の中に生き、留まるよう招かれています。なぜなら、愛の中には人間の心を変えることのできる真実があるからです。その真実は、私たちが怒りを抑えることを可能にします。それは単なる規則のためではなく、私たちが隣人を愛しているからです。私たちが心の清さを保つのは、見せかけのためではなく、自分と他者を神の創造物として尊ぶからです。私たちは恐れによってではなく、キリストの愛が私たちの中に生きているからこそ、真実を語ります。これが律法を完成させ、真の平和をもたらす愛の掟です。聖霊、すなわち知恵と分別のもとである方が、私たちに、神の愛の掟を従順に実践するために、柔らかな心、清い目、真実の口を与えてくださいますように。そしてキリストの愛が私たちのあらゆる従順を完成させ、私たちが神の御前で正しく生き、私たちの生活が神の栄光を賛美し、隣人への祝福となるように。

 
メッセージ - A年 年間

あなたは幸いだ

コンディ・ニコラウス

幸せとは、一体何でしょうか。その答えは、おそらく人それぞれ異なるでしょう。なぜなら、人はそれぞれ自分なりの幸せの基準を持っているからです。ある人にとっては、車や家などの物質的な豊かさが幸せの条件かもしれません。別の人にとっては、安定した収入や仕事の充実、家族や友人との温かい関係が幸せの源になるでしょう。約40年に渡り、神言会フィリピ人中央管区・ミンドロ島に住む少数民族マンギアン族の人々の間に宣教活動をしてきた一人の年配の神言会神の神父に、「宣教師としての幸せは何ですか」と尋ねれことがあります。するとその神父は「マンギアン族の人々と共に生活することが、私の宣教しての幸せです」と答えてくれました。

おそらく私たちが置かれている状況や環境によっても、幸せの感じ方は変わります。健康な体を持っていることのありがたさを感じる人もいれば、困難な状況を乗り越えた経験の中で小さな喜びを見つける人もいます。つまり、幸せとは一つの形や基準で決まるものではなく、私たち一人ひとりの心のあり方や置かれた環境によって、それぞれ違った形で現れるのではないかと思います。

日のマタイ福音書に記されている、いわゆる「山上の説教」の最初の部分では、イエスがこう語れます。「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」。果たしてこのイエスの呼びかけは、どういうことなのでしょうか。実際、イエスの周りに集まってきた人々は、貧しい人たちでした。経済的に困窮している人、病気の人、障害を抱えた人、身寄りのない人、さまざまな理由から社会の中で自分を主張する手段を持たない人々。惨めな思いをし、見捨てられ、後回しにされ、情けない気持ちを抱えながら生きていかなければならなかった人たちです。

そのような人々に向かって、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と。「心の貧しい」という日本語は、一般には「精神的な貧しさ」を意味することがありますが、ここでイエスが言われているのは、そのような意味ではないと思います。この言葉は、「霊において貧しい」「神の前に貧しい」という意味として受け取るとよいでしょう。ちなみ「心の貧しい人」とは自分の力に頼るのではなく、神にのみ寄り頼む人のことです。また神なしには生きられないことを知り、謙遜に神に委ねることです。そのような人こそが「幸い」なのだ、とイエスは語っておられるのではないかと思います。またイエスの「幸いの言葉」は、将来いつか現実する理想的なものを語っているのではありません。イエスに従って生きる人々の間で、すでに起こっている現実をイエスご自身が見つめ、言葉にされたのです。

結局、信仰者にとって幸せとは、物質的な豊かさや外的な状況だけで決まるものではありません。それは、神との正しい関係の中に生き、神の御心に従い、心に平安と感謝を持って歩むことから生まれます。たとえ困難な状況にあっても、人生が神の導きの中にあり、より大きな目的があると信じることで、幸せを感じることができます。信仰に基づく心の平安と希望、そして愛こそが、キリスト者としての幸せの根源なのではないでしょうか。

イエスは、心の貧しい私たちのために来てくださいました。今日も、イエスは私たち人一人に語りかけておられるのではないでしょうか。「あなたは幸いだ」と。この呼びかけを素直に受けとめ、与えられている恵みを感謝しながら、それぞれに与えれた役割を果たしていくことができますよう、共に祈り求めてまいりましょう。

 
メッセージ - A年 年間

きょうの福音は主イエスが四人の漁師を最初の弟子としてお選びになったことについて記されています。このエピソードにおいて、一つの主要な点は、なぜ、イエスは漁師を自分の弟子にしたのかということです。イエスが漁師(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を最初の弟子として選んだのには、単なる偶然ではなく、深い意図と象徴的な意味があると思います。確かに、イエスの中に特別な理由があったと考えられます。

一つ目は、「忍耐力」ということです。漁師の仕事は、夜通し働いたり、網を整えたり、天候の急変に対応したりするなど、高い忍耐力、体力、そして勇気を必要とします。このような不屈の精神は、困難な宣教活動を推進する弟子たちに必要な特質でした。

二つ目は、「チームワークと協調性」ということです。船の上で網を引くには、一人ではなく、仲間と息を合わせて働くチームワークが不可欠です。イエスは、この協調性を、教会という信仰の共同体を築くために生かそうとしました。

三つ目は、「謙虚さ」ということです。漁師たちは、当時の宗教指導者(パリサイ人など)のような高い学歴や社会的身分、宗教的権威を持たない一般の労働者でした。イエスは、そのような地位やプライドに縛られない、謙虚で素直に教えを受け入れる人々を求めていました。

四つ目は、「信頼」ということです。漁師たちを信頼しているからです。主イエスは、彼ら一人一人に目を留め、じっとご覧になり、ご自分から近付いて、「わたしについて来なさい」と声をかけてくださったのです。イエスは四人に、「目を留め、じっとご覧になり、近付いて、声をかけた」という行動です。この主イエスの行動は「信頼の行動」とも言えるのではないでしょうか。つまり、イエスは、その四人の漁師の上に「信頼を置く」ということです。彼らを信頼しているから、お選びになったのです。それがすべての「鍵」だと思います。言い換えれば、信頼がなければ、いくら目の前にいるとしても、声をかけないでしょう。

キリスト者になった私たち自身も、他の人よりも優れた資格を持っているからではなく、キリストが私たちに大きな信頼を置いてくださっているから選ばれたのです。

どうか、主の招きに答えた私たちが、最後まで喜びの内に、キリストに従い、歩み続けていきましょう。そして、人を取る漁師として選ばれた私たちは、それぞれの置かれた場で、キリストの愛と平和を一人でも多くの人に伝えて、実現することができますように。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(ヨハネ1:29-34)では、イエスの公生活の始まりに先立ち、洗礼者ヨハネがイエスについてあかしする場面が読まれます。ヨハネに対して「メシアではないのか」「エリヤかあの預言者ではないのか」と言う人々がいましたが、ヨハネは「自分の後から来られる方こそ、その人物だ」と語り、イエスが自分の方へ来られるのを見て、「この方こそ神の子だ」と示しました。

「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返しながらもヨハネがこのあかしをしたのは、霊が降ってきてイエスにとどまる、という「しるし」を見たからでした。

この世界で私たちに与えられるのも、いわば「しるし」だけです。神の子の姿を目にすることも、神の声を聞くこともありません。私たちは、聖書のみ言葉を通して、目の前で起こる出来事を通して、人々の愛ある行いを通して、そこに神の業を、神の御旨を「感じ取る」ことしかできません。

私たちは、今、何を見て、どこに主の存在を感じるでしょうか。