| メッセージ - A年 年間 |
今週の福音朗読(マタイ16:21-27)は、先週のペトロの信仰告白(16:13-20)の続きです。ペトロの信仰告白は受け入れられましたが、その後、受難と復活を予告したイエスをいさめたペトロは、「邪魔をしている」と叱責されます。その後のイエスの言葉から考えると、ペトロの考えは「自分の命を救いたい」という立場から「自分を捨てず、十字架を背負わない」態度を示すものだったということができます。
第一朗読(エレミヤ20:7-9)でエレミヤは自分が陥った苦境に嘆きの声を上げますが、しかし神の言葉に自分を明け渡します。第二朗読(ローマ12:1-2)では、この世に倣うことなく、自分の心を変えて、何が神の御心であるかをわきまえるように、とパウロが勧めています。
自分の命にしがみつくとき、私たちは神のことを忘れ、人々から目をそらします。自分を大切にすることは自然なことですが、それは自分を閉ざすこととは異なります。私たちの心は神に、人に、開かれているでしょうか。
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マタイ16・13-20
今日の福音箇所は「ペトロの信仰告白」という非常に有名な場面が読まれました。この場面は共観福音書と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカの3つの福音書の中で同様に描かれています。弟子たちと共に、地方の村々に宣教活動へと出向いているイエスは、その道中で「自分は何者であるか」について弟子たちに質問します。弟子たちは、人々が語るイエスについて、いくつかの名前を挙げながら答えます。そんな中、ペトロは「あなたはメシアです」とはっきり答えます。イエスはこのペトロの発言について、否定も肯定もせず、ただ自分のことを誰にも話さないようにと注意しました。
ペトロがイエスをメシアだと考えたのは、これまで共に旅をしてきて、様々な奇跡や癒しの業を見る中で、この人こそ、かつてダビデやソロモンといった王たちが作り上げた強いイスラエルの国を再興してくれるような政治的救世主であると思ったからです。イエスがメシアである、というペトロの告白は正しいものでしたが、どのようなメシアか、という部分においては、まだ正しい理解をしていませんでした。ですからイエスは、このことを誰にも話さないようにと注意したわけです。
さて、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの問いかけは、今日の福音を通して、私たち全てのキリスト者に向けられたものでもあります。現代に生きる私たちは幸いにも、聖書を通じてイエスがどのようなメシアであるか、またどのような救いを人々に与えたのかを知ることが出来ます。その意味で、私たちは正しくイエスを「メシア」であると言える信仰を持っているわけですが、同じく大切なのは、私たちがメシアである、と信じているイエスに、どのように従っていくことが出来るのか、という点であります。
『使徒ヤコブの手紙』の2章には「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と語られています。私たちがイエスをメシアであると理解し、イエスを心から信じていたとしても、もしイエスの教えにそぐわない生活や行い、あるいは発言をしていたならば、その信仰をイエスは認めてくれるでしょうか。このイエスの「私を何者だと言うのか」という問いかけに対し、私たち一人ひとりが、自分の信仰にも、言動にも何も後ろめたさを持つことなく、メシアであるイエスに従っているのだと堂々と言える、そんな生き方が出来るように、今日の福音の言葉をよく心に留めて、自分自身の日々の信仰生活を省みながら、これからを過ごして行きたいものであります。
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今日の三つの聖書朗読では、「異邦人」という言葉がテーマになっています。
第一朗読のイザヤの預言(56:1、6-7)では、イスラエルの民だけではなく、異邦人も主のもとに集い、主との契約を守るなら受け入れられる、と言われています。
第二朗読のローマの教会への手紙(11:13-15、29-32)では、自身を「異邦人のための使徒」と呼ぶパウロが、異邦人に福音をのべ伝える自分の働きは神の計画に従うものであると語っています。
福音朗読のマタイ福音書(15:21-28)には「異邦人」という言葉自体は出てきませんが、異邦人であるティルス・シドン生まれのカナンの女がイエスのもとにやってきて、その信仰により娘の病気をいやしてもらう、というエピソードが取り上げられます。
異邦人が救いに与る、ということは旧約時代のイスラエル人や新約時代のユダヤ人にとって驚きであり、受け入れがたいことだったかもしれません。しかし彼らも実は神の救いに招かれている、その恵みに与ることができる、そういうメッセージが語られています。
私たち自身にとって、異邦人とは誰でしょうか。生まれだけではなく考え方も価値観も全く異なっていて、自分にとっては受け入れがたい、どうしても好きにはなれないと思っている人も、同じく大切な存在として神に愛されている、そのことを受け入れ、認めることができるでしょうか。福音朗読のカナンの女と同様に、私たちの信仰も問われています。
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きょうの福音には、弟子たちが舟に乗って湖を渡る途中、激しい嵐に遭った出来事が記されています。弟子たちは荒れ狂う波に翻弄され、進むことも戻ることもできず、恐れに包まれていました。その時、イエスは弟子たちのもとへ来られ、こう言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この言葉には、弟子たちの恐れを取り除こうとされるイエスの深い愛が込められています。イエスは弟子たちを嵐のない安全な場所へ導いてから、「安心しなさい」と言われたのではありません。風が吹き荒れ、波が押し寄せる嵐のただ中で、「わたしがここにいる」と語りかけられたのです。
私たちも人生の中で、さまざまな嵐に遭遇します。病気や不安、将来への心配、人間関係の悩み、思いがけない試練など、誰もが人生の嵐を経験します。そのような時、私たちは「なぜ神様はこの状況を変えてくださらないのだろう」と思うことがあります。しかし、イエスが約束してくださるのは、嵐がいつもすぐに過ぎ去ることではありません。そうではなく、嵐の中にあっても私たちと共にいてくださるということです。
弟子たちに本当に必要だったのは、風や波がすぐに静まることだけではありませんでした。彼らに必要だったのは、「この嵐の中にもイエスがおられる」という確かな安心でした。主イエスが語られた「わたしだ」という言葉は、単なる自己紹介ではありません。神ご自身が共におられるという力強い宣言です。恐れに支配されそうになる時、イエスは「自分の力で乗り越えなさい」とは言われません。「わたしがいる。だから恐れるな」と、私たちを励ましてくださるのです。
私たちは、問題が解決すれば安心できると思いがちです。しかし、本当の平安は、問題がなくなることによってだけ与えられるものではありません。どのような状況の中にも共にいてくださる主を知ることから生まれるのです。嵐の中で弟子たちが見失っていたのは、舟の安定ではなく、共にいてくださるイエスの存在でした。今、私たちはどのような嵐の中にいるでしょうか。心に重くのしかかる不安や悲しみ、誰にも打ち明けることのできない苦しみを抱えているかもしれません。そのような私たちを、主は責めることなく、恐れのただ中で優しく呼びかけてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
主がおられるところには、恐れに打ち勝つ平安があります。ペテロは、風を見ると恐れて沈みました。しかし、イエスを見ている間は水の上を歩くことができました。今日の第一朗読に記された預言者エリヤも、周囲の恐ろしい状況ではなく、神の静かな声を聞いた時に、新しい力を受けました。信仰とは、「もう怖くない」と自分を強くすることではなく、恐れの中でも「神はここにおられる」と信頼することです。アーメン。
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知恵の書 12章13節、16~19節
私たちが信じる神は、唯一の統治者です。神はご自身が造られたすべてのものを顧みられ、その御業は善いものです。キリスト教徒の信じる神は、ご自身を信じない者たちに対してもその力を示される、公正な神です。キリスト教徒の神は復讐の神ではなく、赦しと正義の神です。キリスト教徒の神は、慈悲深さ、優しさ、そして社会正義の模範を示しておられます。
ローマの信徒への手紙 8章26~27節
イエス・キリストは私たちに聖霊を遣わしてくださいました。聖霊は、私たちが弱さや不信仰、あるいは神に背く心に陥っている時や、自らの力ではどうすることもできないあらゆる事柄に直面している時に、私たちを力で満たしてくださいます。どのように祈ればよいか、あるいは問題をどう解決すればよいか分からないとき、聖霊は神から来る「祈り」という賜物を私たちに授けてくださるのです。
マタイによる福音書 13章24~30節
神は常に、ご自身を信じ、その言葉に耳を傾け、求められることをすべて行うことによって、自らを神の御手に委ねる人々の味方であられます。こうしたキリスト教徒こそが、神の「麦」なのです。しかしその一方で、神に敵対し、人々の間に、また神の計画の中に混乱をまき散らす人々もいます。こうした人々は世の「毒麦」であり、やがて神による裁きを受けることになります。
