| メッセージ - A年 年間 |
今日の福音朗読箇所(マタイ11:25-30)の中の有名な一節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は、私たちにとって大きな慰めです。忙しく物事が動き、めまぐるしく変化し、矢のように時が過ぎていく現代にあって、私たちはみな疲れています。毎日朝から晩までしなければいけないことが山積みになっている、学業や仕事で良い結果を残さなければならない、気を抜き息をつく暇もない、そんな生活を送っているかもしれません。こうしたことは、私たちがこの世界で生きていく上で必要であり、責任を負っていることです。
けれども、それらが最も重要なことではない、手段であって目的ではない、もっと大切なことがある、とイエスは語ります。「わたしのもとに来れば安らぎを得られる」というのは、そのもっと大切な、新しい価値観の提示です。「柔和」で「謙遜」(11:29)なイエスの生き方は、私たちがこの世的な強さや結果や価値を求められるような中にあってもそれにしばられず、大切なものを見失わないように、と私たちを招きます。
| メッセージ - A年 年間 |
きょうの福音の中で、私たちの心に強く響くのは、イエスのこの言葉ではないでしょうか。「父や母、息子や娘をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。」
この言葉を聞くと、「家族を大切にしてはいけないのだろうか」「自分を犠牲にしなければならないのだろうか」と少し戸惑いを感じるかもしれません。しかし、イエスは家族への愛を否定しているのではありません。むしろ、私たちの人生の中心に神を置くことの大切さを教えておられるのです。
神を第一にすることと家族を愛することは、本来対立するものではありません。イエスは別の箇所で「父母を敬いなさい」と教えておられますし、十字架の上でも母マリアを弟子に託し、その生活を気遣われました。ですから、「神を第一にする」とは家族への愛を捨てることではなく、神の愛に導かれて家族をより深く、正しく愛することを意味しています。
私たちは日々、多くのものを大切にしています。家族、仕事、財産やお金、夢や目標などは、どれも決して悪いものではありません。しかし、それらが人生の最高の価値となるのではなく、神を第一にするとき、それぞれが本来あるべき場所に置かれます。家族も仕事も人生そのものも、神との関わりの中で正しく受け止め、愛することができるようになるのです。
ですから、きょうのイエスの言葉は、「家族か神か」という選択を迫る言葉ではありません。そうではなく、「あなたの人生の中心には何がありますか」と静かに問いかける招きの言葉なのです。
今日の第二朗読でパウロは、「キリストとしっかり結ばれる者は、キリストとともに死に、またキリストとともに復活の栄光を受けることになる」と語りました。言い換えると、神やキリストを人生の第一にするなら、この地上で生きている間だけ恵みや祝福を受けるのではなく、永遠の命の恵みも受けることができるということです。
信仰とは、単に宗教的な行いを増やすことではありません。人生の最も深いところで神を信頼し、神を第一にして歩むことです。そのとき私たちは、自分自身も、家族も、周りの人々も、神の愛の中でより豊かに愛することができるようになるのです。
| メッセージ - A年 年間 |
今日の聖書朗読は、キリスト者の生き方に関する重要な真理を私たちに示しています。それは、「神への真の証しは、しばしば苦しみを伴う」ということです。
第一朗読において、預言者エレミヤは神の前に自らの心をさらけ出します。彼は神の言葉を語ったがゆえに、人々から嘲られ、拒絶され、迫害されました。本来、神の言葉を届けるために遣わされた相手が、かえって彼に敵対したのです。しかし、それでも彼は沈黙することができませんでした。神の言葉は彼の内に燃える火のように宿り、語らずにはいられなかったからです。苦しみの中にあっても、彼は神から託された使命に忠実であり続けました。
今日の福音は、先週読んだマタイによる福音書における十二使徒への宣教命令の続きです。イエスが十二使徒を派遣するにあたり、弟子として生きる現実を語られます。
イエスは弟子たちに、神の言葉を宣べ伝えることが決して容易な道ではないことを前もって教えられます。「弟子は師にまさるものではない」と主は言われます。師であるイエスご自身が拒絶と苦しみを経験されたのであれば、弟子たちも同じ道を歩むことになるのです。
しかしイエスは、だからといって恐れてはならないと励まされます。弟子たちは迫害や苦しみの中にあっても、恐れることなく神の言葉を証しするよう招かれています。神はご自分の者たちを見守り、その苦しみの中にあっても決して見捨てることはないからです。
このメッセージは、私たち一人ひとりの日常生活にも向けられています。私たちの多くは、エレミヤや使徒たちのような激しい迫害を経験することはないかもしれません。しかし、キリスト者として生きる中で、信仰を証しするために何らかの犠牲を払うことはあります。正直であること、不正に反対すること、赦すこと、福音の価値観に従って生きることは、時として誤解や批判を招くかもしれません。しかし、そのような時こそ私たちはキリストの証人として生きているのです。
預言者エレミヤの勇気と、使徒たちの忠実さに倣い、私たちも恐れることなくキリストを証しする者となりましょう。預言者と使徒たちの土台の上に建てられた私たち教会は、証しする教会であり、必要であれば苦しむ教会でもあるからです。
| メッセージ - A年 年間 |
今日の福音朗読(マタイ9:36-10:8)は、「イエスの弟子である」とはどういうことかを思い起こさせてくれます。イエスは、自分一人だけで活動したのではなく、弟子たちと共に行動し、12人の使徒を選んで使命を与え、信頼して弟子たちを派遣しました。イエスが弟子たちを必要とした、ということです。
けれども選ばれた12使徒は、漁師や徴税人、熱心党の人もいて、決して有能で優れていたわけではなく、ひときわ信仰が深くて人格者だったわけでもありませんでした。彼らは弱さを抱え、時につまずき、裏切った者さえいて、十字架の前にはみんな逃げ出してしまいました。しかしイエスは、そんな彼らを一番近くにおいて大切にしたのであり、自分のミッションを彼らに託して自分の代わりに派遣するほどでした。
この12人の使徒の選びと派遣は、キリスト者である私たちの選びと派遣の物語でもあります。私たちは様々なところから集められましたが、それは何か特別な能力があったからでも、聖人だったからでもありませんでした。欠点ばかりで足りないところばかりですが、それでも私たちは呼ばれています。派遣されています。
| メッセージ - A年 年間 |
申命記 8:2-3;14-16
エジプトから選ばれた民を解放した神は、彼らに約束されたカナンの地への40年間の旅の間、彼らを見守り、世話をされました。旅の間ずっと、神は民と共におられました。40年間、神は彼らと共にいて、ついに選ばれた民は自らを神に委ねました。イスラエルの神は民を養い、マナを与え、岩から水を与え、モーセの戒めを守るように教えられました。
―コリント10:16−17
神がご自身の選民を慈しまれたように、イエス・キリストはユダヤ教や異教からキリスト教へと移った人々に、キリスト教会におけるご自身の存在を示す聖餐のしるしを残されました。これらのしるしとは、イエスの聖体であるパンと、私たちの罪のために流されたイエスの聖体である血のしるしであるぶどう酒です。
ヨハネによる福音 6:51-58
イエスは、ユダヤの人々がご自身の神性を認識することを願って、直接語りかけました。そのために、イエスは出エジプト記から例を挙げました。そこでは、神がエジプトの奴隷状態から救い出した民を慈しみ、世話をされたことが描かれており、これはキリスト教における罪と魂の喪失の原型となっています。イエス・キリストは、ご自身を信じる者は皆、天国で永遠の命にあずかることができると説かれました。この永遠の命が実現する前に、キリスト教徒はパンとぶどう酒という形で、聖体におけるイエスの臨在のしるしを与えられています。日々の聖なるミサにおいて、私たちはイエス・キリストの体と血によって養われ、それによって、イエスを信じるすべての人に対するイエスの慈しみが私たちにもたらされるのです。
