メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(マタイ5:17-37)の冒頭のことば、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」は、何を意味しているのでしょうか。福音書全体を見れば、イエスが旧約の律法や預言者を乗り越えようとしたことは明らかです。律法や預言者をを価値のないものとして捨てるのではなく、その精神をより突き詰めて完成させることによって乗り越えようとしたということだと思います。

この福音の箇所で、「律法や預言者」を端的に表すものとして引用されて語られている掟(「殺すな。人を殺したのは裁きを受ける」、「姦淫するな」、「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」)は、いずれも、人と人との正しい関係、神と人との正しい関係を成り立たせるのを目的としたものです。おそらくイエスは、規則の条文に違反することさえ避けていればいい、というような、掟の表面的な決まりとしてのあり方に縛られている人々の姿を見て、批判したのではないでしょうか。ですからイエスは、「ファリサイ派の人々の義」と対比させる形で「あなたたちの義」がどのようであるべきかを明らかにし、「殺すな」ではなく「兄弟に腹を立てるな」と言い、「姦淫するな」ではなく「みだらな思いで他人の妻を見るな」と教えています。

規則に従うこと・違反しないことではなく、神の前で義を貫くことが、イエスに従って生きることです。

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メッセージ - A年 年間

第一朗読 イザ58:7-10
第二朗読 1コリ2:1-5
福音朗読 マタ5:13-16

前日の2月5日に日本の教会は 『日本26聖人殉教者』の記念日を祝いました。26聖人は西坂での殉教の前に京都から長崎へ30日間、真冬の中歩かされました。手は縛られたまま。出発の前に方耳は切り落とされました。西坂の十字架の上までの道のりは長かったでしょう。そして、苦しかったでしょう。一人一人はどのような思いで西坂に向かっているのでしょうか。怖くないのでしょうか・・・。信仰を諦めることは考えていないのでしょうか・・・。怖くないはずはないと思います。それでも彼らは何百キロもの十字架の道を歩き通しました。なぜそれが出来たのでしょうか。その答えは、第2朗読のパウロの言葉と重なっているように思います。「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたから」でしょう。心に決めた生き方を必死に守り通すことはパウロも26聖人も同じです。そして、それはイエスご自身の生き様そのものです。

洗礼の時に「神の愛する子」と宣言されたイエスは、今日のマタイ福音書にあるように、山上の説教で弟子たちに「あなたがたは地の塩。あなたがたは世の光」と語られました。山上の説教をまとめれば、それは「愛」という一言で集約できます。神への愛と隣人への愛。その隣人愛は敵にまで及ぶものです。これを教えるイエスご自身はやがて十字架の上で自ら実現しました。十字架の上にこそイエスは地の塩となり、世の光として最も輝いているのです。同じように、26聖人もその殉教を通して日本の教会のための「地の塩」となりました。彼らは西坂の十字架の上で日本のためにまた世界のために「光」として永遠に輝いていくのです。

ところで、「地の塩、世の光」となることはどういうことなのでしょうか。第1朗読の預言者イザヤは具体的な答え(するべきことと避けるべきこと)を与えてくれます。「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」です。そして、「軛を負わすこと、指を指すこと、呪いの言葉をはくことをあなたの中から取り去る」ことです。これを徹底的に守ることは決して簡単なことではないです。京都から長崎に向かう26聖人の殉教の旅と同じように、最後までやり通すためには自分の洗礼の時に一度「心に決めていた」ことを守る決心が必要です。毎日、毎日、毎日・・・。

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主の奉献の祝日は、生後40日のイエスを両親が律法に従ってエルサレム神殿で献げたことを記念します。

この出来事を描いているルカ福音書の箇所(2:22-40)を読むと、主の奉献の出来事に多くの人が関わっていることがわかります。幼子イエスはもちろん自分で神殿に上ることはできませんから、両親が「エルサレムに連れて行った」(2:22)と言われています。

このとき、エルサレムで出会ったのは、「正しい人で信仰があつく・・・聖霊が彼にとどまっていた」(2:25)というシメオンでした。シメオンは霊に導かれて幼子イエスに出会い、神をたたえ、家族を祝福し、また母マリアに預言の言葉を語りました。エルサレムでは更に、年老いた女預言者アンナが「近づいてきて神を賛美し」、救いを待ち望む人々に幼子のことをあかししました(2:38)。

既にイエスの誕生に際しても、洗礼者ヨハネとその両親であるザカリアおよびエリサベト、そして天使のお告げを受けた羊飼いたちなど、多くの人の関わりが見られました。主の奉献を含む誕生物語は、神の子イエスによる神の国の広がりが、最初期から多くの人々との関わりの中で示されたことを明らかにしています。聖書のことばを耳にする私たちも、その関わりの輪に加わるよう招かれています。

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今日の福音の箇所(マタイ4:12-23)は、イエスの宣教活動の始まりです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って福音を宣べ伝え始めたとき、最初にイエスがしたのは、数人の漁師たちを呼んで自分に従うよう招くことでした。イエスの宣教活動は、最初から弟子たちと共に行われ、分かち合われ、後に引き継がれて続けられるように計画されていたのです。この宣教の手段こそが、伝える福音のメッセージの内容を体現したものだと思います。

イエスは「ガリラヤ中を回って」福音を宣べ伝え、「民衆のありとあらゆる病気や患いを」いやした、と言われています。すべての人に救いが伝えられ、すべての人に手を差し伸べるイエスの宣教は、田舎の漁師のような人をも友にして行われました。それこそが、第一朗読で読まれ、福音朗読でイエスの宣教の解釈として引用されているイザヤ書の言葉が伝えている状況、暗闇に住む民が大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ、ということではなかったでしょうか。

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今日の三つの朗読では、それぞれの救い主への信仰が告白されています。
第一朗読のイザヤ書(49:3、5-6)では、国が滅ぼされ捕囚にあった人々に、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」ために、神が「国々の光」であり「救いを地の果てまで、もたらす者」であるしもべを遣わされる、と語られます。
第二朗読の第一コリント書(1:1-3)の冒頭、書簡の挨拶の部分では、パウロが、自分自身と同じ信仰を持つコリントの人々へ、イエス・キリストへの信仰を強調しています。自分が「キリスト・イエスの使徒」であると言い、コリントの教会の人々を「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」・「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と呼び、「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主」であると信仰告白し、彼らに父である神と「主イエス・キリストからの恵みと平和」を祈っています。すべての根拠をイエス・キリストに見出す信仰です。
福音朗読(ヨハネ1:29-34)では、洗礼者ヨハネがイエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、自分のいのちを献げて人々を救うことになるイエスの生き様を前もって示しています。
洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返して語りますが、しかし霊が降ってきてとどまる、という「しるし」を見て、イエスこそ神の子であると証しするようになりました。イザヤも、パウロも、何らかのしるしを通して、神のメッセージを受け取り、信仰を得て、それを証しするようになりました。
私たちは、今、何を見て、何を信じるでしょうか。

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