メッセージ - C年 年間

聖書におけるいやしは、単に「病気の状態から肉体が回復すること」ではありません。それは社会への復帰であり、人々に受け入れられることであり、神に見捨てられたのではなく愛されていると確認することでした。傷ついた全人格のいやしでした。福音朗読における、いやしを求めるサマリア人の必死の訴えと、いやされた後の彼の賛美と感謝が、その重みがどれほどであったかを示しています。第一朗読の列王記(5:14-17)に登場するナアマンも、重い皮膚病からの回復に神の働きを認めました。

私たちにも、日々の生活の中で手にして当たり前と思っていることの内に、大きな恵みを感じ取るチャンスが与えられています。病に限らず、倒れて傷ついた状態から回復するときに、立ち上がる力を与えられていることを実感します。周りの人の支えがあり、恵みに生かされて引き上げてもらっていると気づきます。そのとき、同時に感謝の心を表すことができるように願いたいものです。

 
メッセージ - C年 年間

人生において、人間として、日常生活において私たちは「目に見える富」すなわちお金、名声、健康、時間を手にしているのではないかと思います。その一方で、私たちは「見えない財」すなわち愛、幸福、平和、そして永遠の命への希望も必要としていることでしょう。もちろん、両方とも、私たちが人生で満たすべき必要不可欠なものです。しかし、もし一方を優先し、もう一方を無視したらどうなるでしょうか?ここで私たちは、永遠の命にとって最も重要な要素を注意深く見極め、評価しなければなりません。なぜなら、巡礼者としての人間にとって、人生の最終目的は世俗的なものではなく、天における永遠の命だからです。では、永遠の命を受けるために何をすれば良いでしょうか。

今日の聖書朗読箇所は、「愛と隣人への思いやり」について深く描かれています。第一朗読では、預言者アモスが傲慢な人々を厳しく戒めています。彼らは自己満足のために楽しみを追い求め、他者の苦しみに無関心でした。第二朗読のテモテへの手紙において、パウロは神の命令に従って生きるよう助言しています。その命令は愛、忍耐、そして信仰における持続性を強調し、イエスが自らを現すまで続けることを求めています。同時に、ルカによる福音書では、イエスは、金持ちとラザロのたとえ話を用いて、弟子たちに神の国の価値、すなわち貧しく苦しむ隣人への愛と配慮について教えました。隣人への愛と配慮を伴わなければ、この世の富は永遠の幸福をもたらさないことをイエスは強調しました。

人生において、私たちはしばしば物質的な面でも、精神面においてもラザロのような人々にたくさん出会います。彼らは苦しみ、貧しく、弱く、社会から疎外され、不正や抑圧の犠牲となっています。まさに彼らに対して、私たちはイエスの弟子として、心の目を開き、時間と関心を捧げ、愛と慰めを実践するよう招かれているのです。この世での生活の中で、 隣人への愛の種を蒔き、分かち合うことで、私たちは永遠の命のための貯えをし、天の喜びの礎をしっかりと築いているのです。それゆえ、今日なすべきことを先延ばしにしてはなりません。なぜなら、永遠の喜びは死後のことではなく、今この瞬間、この地上で私たちがすでに、あるいは、今まさに実践していることの中にあるからです。この人生は、神が与えてくださった善を行う機会であり、隣人への愛を示す機会です。ですから、私たちの思いやりを通して、隣人への祝福の器となりましょう。

 
メッセージ - C年 年間

今日の福音で語られたイエスの「金持ちの例え」は、数ある例え話の中でも、なかなか理解しにくいものであります。朗読では省略しましたが、まず前半部分では、不正な管理人が詐欺のようなやり方で、恩を売って、いざという時のために備える話が読まれています。この話で主人は不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた、というのが一つ重要なポイントとなっています。褒めた、という対象は、あくまでこの「抜け目のないやり方」であって、不正行為自体ではないことを理解しなくてはいけません。この管理人は、自分の将来が困難であることを予見し、必死に考えて行動したという、その賢さ、行動力の点で褒められているのです。

この話は、その後に語られる「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というイエスの言葉に繋がります。私たち人間も、死んで天の国に入るには、この世における行動が大切になります。不正にまみれた富、という書き方がなされているので、わかりにくいですが、これはこの世の財産を指しています。つまり、この世の財産をいかに有効に使って、天の国に入る準備が出来るか、ということをイエスは指摘しているのです。それは例えば宣教のため、施し、援助など様々な形があります。そうしたことに有効に財産を使うことで、神の救いに与る人々を増やして、自分が天の国に入る時に、その努力と行動を認めてもらう、あるいは、自分が救いへと導いた人々に迎え入れてもらうのだ、ということをイエスはこの例えで教えているわけです。不正な管理人が褒められた行動力を、私たちも天の国のために示すことの大切さが語られているとも言えると思います。

福音の後半では、小さな事に忠実でなければ、大きなことにも忠実でない、という言葉があります。ここでも、小さな事の例として不正にまみれた富が挙げられています。先ほど読んだ通り、この世の財産のことを指しているものです。神が人間に管理を任せている、この世の財産、時間、能力、あるいは地球の資源など、この世にあるものは、天の国からすれば小さなものです。しかし、そうした小さなものとされるこの世のものを、不正な管理人の例えのように有効に活用することが出来なければ、天の国、神のもとにある大きなものを任せられる人間にはなり得ない、というわけです。ただ、ここで忘れてはならないのは、イエスの「神と富とに仕えることはできない」という最後の言葉です。この世の小さなもの、富や財産を有効に活用することは大事ですが、私たちがそうした富や財産自体に必要以上に執着したり、自分の利益だけに考えが向いてしまったりしてはいけないわけです。この福音箇所は、私たちがキリスト者として、何を最も重視するものとし、何をその重視する物のために活用していくべきなのか、このことを改めて考えさせる例え話であると言えるのではないでしょうか。

この世のもの、財産や富というものを、現実として私たちが生きていく上で全て手放したりすることはまずできません。生きていくためには絶対に必要なものです。しかしそれ自体が私たちキリスト者におけるこの世の目的としてしまっては、神に仕えることはかないません。自分にとって本当に大切にすべきものは何であるかをよく考えながら、この世のものをその本当に大切なもののために有効に活用していくこと、そうした意識を持つことが肝要です。このことを忘れないためにも、今日の福音の言葉をよく黙想し、自分自身の日々の生活を今一度省みながら、キリスト者としての正しい生き方を見いだせるように、ともに祈ることと致しましょう。

 
メッセージ - C年 年間

きょうの福音では、主イエスがご自分の弟子になるための三つの条件を述べられています

まず、第一の条件は、「自分や家族を憎む」ということです。主イエスは、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに、自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と命じられたのです。ここで、注意したいのは、「憎む」という表現です。主イエスが語った「憎む(憎しみ)」には二つの意味があります。まず、一つ目は、「神への絶対的な愛」という意味です。この「憎しみ」とは、感情的な敵対を意味するのではなく、家族との関係を大切にしつつも、神への愛やイエス・キリストの教えへの従順が、より優先されるべきものだということです。二つ目は、「この世的な価値観からの解放」という意味です。この教えは、世俗的な価値観や地位、名誉、財産 等という自分の欲求や願望を優先するのではなく、神の意思に従うために、自己中心的なことを手放すことを意味します。

次に、第二の条件は、「自分の十字架を背負う」ということです。ここで注目したいのは、「自分の十字架」という表現です。つまり、重要だと思うのは、イエス様が私たちのまなざしを「自分自身」に向けるよう促してくださっている点です。あの人が、ではなく、この人が、でもないのです。他ならぬ、「この私」のあり方、生き方が問われています。要するに、「自分の十字架」とは、私たち一人ひとりに与えられている重荷であると同時に、何らかの使命であると受け止めることです。

最後に、第三の条件は、「自分の持ち物を捨てる」ということです。ここで、主イエスが語った「持ち物を捨てる」とは、文字通り物理的な財産を「完全に手放し、投げ捨てること」ではなく、「捧げる、提供する、執着しないこと」を意味します。神を唯一の頼りとし、物質的な安全や安楽に頼らないことを示します。神が不足なくすべてを与えてくださる存在であると信じ、委ねる行為です。

 
メッセージ - C年 年間

イエスがファリサイ派のある議員の家での食事に参加したときの話です。イエスはその場にいた「上流階級」の人々に、へりくだるように、と語ります。現代の私たちの社会でも周りの人に対して「謙遜」を示すことは美徳ですが、イエスが教える「へりくだり」・「謙遜」は、少し異なる視点から語られているようです。

この箇所の前半では、婚宴に招待された人の立場のたとえを用いて、後から来た身分の高い人に席を譲る羽目にならないように、へりくだって上席ではなく末席に座りなさい、と言われます。そして後半では、同じような宴のたとえで、今度は招く側の立場から、貧しい人や体の不自由な人を招くように、とされています。この二つを合わせて考えると、まるで、「へりくだり」とは、「私はたいした人間ではありませんよ」という態度を見せることではなく、現実に弱い立場の人間として存在すること、痛みを抱えて生きることのように描かれています。

まさに、イエスのへりくだりは、十字架の上で罪人として死ぬことでした。その謙遜は、自身の命をもって示されました。