メッセージ - A年 年間

今日は三位一体の主日であります。私もそうですが、恐らく、多くの司祭にとって、この三位一体についてのお話が一年で一番難しいと感じるものだと思います。三位一体の教義自体は381年の第1コンスタンティノープル公会議で確定したものであります。私たちが唱えている二ケア・コンスタンティノープル信条が採択されたのも、この会議です。現代でもこの三位一体に関する研究は盛んで、様々な三位一体への理解の仕方が論じられています。しかし、そのどれもが難解で、一言でこういうものだ、と言えるようなものではないところが、また三位一体の理解の難しさを表しています。

普段から私たちは、「父と子と聖霊」という言葉を用いていますが、その言葉から、父、子、聖霊という3つが存在することは理解出来ます。この3つは、それぞれが、独自の「位格」を持っています。人格ではなく位格と呼ぶのは、人ではないからですね。しかし、それぞれの位格を持っていながら、神、という一つの本質を共有している、という考え方が三位一体であるわけです。この位格、というのは「ペルソナ」というラテン語がよく使われています。このことから基本的に三位一体は「一つの本質、三つのペルソナ」という言葉で理解され続けています。

教義としての三位一体の理解は、非常に難解ですが、三位一体の神を分かりやすく理解するヒントは今日の福音箇所の冒頭にあります。「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、つまり神という存在が、この世に生きる私たちを含め、全てを愛しているというわけです。使徒ヨハネの手紙に「神は愛である」という言葉がある通り、神とは、愛そのものであります。父なる神が愛であるなら、同一の本質である子なるキリストも愛であります。そして聖霊は、ニケア・コンスタンティノープル信条にもあるように、父と子から出るものでありますので、聖霊自体もまた愛であるということが言えます。つまり、三位一体の神とは、それぞれ表現される形がありながらも、等しく「愛」という存在である、と考えることが出来るわけです。この三位一体の主日において、私たちは、愛である神を信じていること、また、今日の第二朗読、そしてミサの冒頭の言葉にもあるように、神から注がれる愛の交わりの中に、私たち全ての人間が招かれていることをしっかりと心に留めておきたいと思います。愛である神の、その愛の中で私たちが生きているからこそ、私たち人間同士の中でも、他の人にも、自分自身にも、愛を持って生きる、接することを忘れてはなりません。こうして三位一体の神の愛というものを考えることで、ああ、だからイエスも「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」と教えたのだなと、また理解を深めることが出来ると思います。

この三位一体の教義、そして「愛」という言葉を心に留めながら、これから私たちは信条を唱えます。私たちの信じる神という存在を今一度確認し、自分自身の生き方の中に、その「愛」を多くの人に表していくことが出来るように、共に祈りましょう。

 
メッセージ - A年 復活節

聖書の中に見られる聖霊に関する記述は、神学的・教義的な聖霊についての教えというより、聖霊が私たちの間でどのような働きをしているかを生き生きと示している方が多いように感じられます。

第一朗読の使徒言行録では、言葉も、出身も、文化的背景も違う人々が神の言葉を聞く聖霊降臨の場面が描かれています。ここに見られる聖霊は、神の言葉を弟子たちに語らせ、また人々の耳と心を開き聞かせます。

第二朗読の第一コリント書によれば、聖霊はキリストにおいて私たちを一つに結びながら、一人一人に様々な賜物と務め・働きを与えて下さる神の霊です。聖霊に生かされて、私たちはそれぞれの場で、それぞれの生を生きながら、キリストにつながる一つの体として働きます。

そして福音朗読のヨハネ福音書では、イエスが、弟子たちを遣わすにあたって聖霊を与える、と語られています。ここで聖霊を受けるということが、イエスの息を受けることとして描かれています。家の戸に鍵をかけて閉じこもり、どんよりとした閉塞感の中で息を潜め心も閉じていた弟子たちの真ん中にイエスは現れ、ご自分の息を吹き込み、新しい風を吹かせ、暗く閉じていた彼らを開かれました。イエスの息が、命が、私たちの中で生き生きと息づいているとき、そこに聖霊が働いていると言うことができます。弟子たちに聖霊を与え遣わすときに「平和」が強調され、「罪のゆるし」が使命として与えられているように、聖霊を受けて、イエスの息を吸って生かされている私たちも、平和とゆるしのためにキリストの使者として送り出されています。

聖霊降臨の日の聖書朗読が私たちに問うているのは、聖霊についてどれだけ正しく知っているか、ではなく、聖霊を受けてどれだけイエスに従う者らしく生きるか、です。聖霊に吹かれ、主の命を受け、それぞれの場で生き生きと神の言葉をあかしすることができますように。

 
メッセージ - A年 復活節

使徒言行録 2:14a、36-41

第一朗読は、聖霊がエルサレムに集まった群衆に降臨した際のペトロの説教の続きです。ペトロは大胆にキリスト教の信条を告白します。すなわち、イエスは殺されたが、神は彼を主、キリストとされた、と。群衆の中には、彼の信仰告白を受け入れ、彼に倣おうと願う者もいました。ペトロに倣うためには、信じる者は皆、悔い改め、罪の赦しのために洗礼を受け、聖霊を受けなければなりません。ペトロのこの告白は、少し拡大された形で、すべてのキリスト教徒に拘束力を持つものです。

ペトロの手紙一 2:20b-25

キリスト教徒はイエス・キリストに従います。キリストに従うとは、サンヘドリンがイエスを認めず十字架につけたように、キリスト教徒もまた、罪を犯したにもかかわらず、イエス・キリストへの信仰を告白したゆえに、同じ運命をたどるということです。イエスに従うことのこの側面は、キリストの治世4世紀まで特に重要でした。

ヨハネによる福音書 10:1-10

福音記者ヨハネは、イエス・キリストを羊飼い、すなわちキリスト教徒の羊飼いとして寓意的に表現しています。キリストは、信じる羊たちを守り、天の牧場へと導くために先導されます。イエスは、ご自身だけが天国への門であると厳かに宣言されます。イエスを羊飼いとしておられなければ、私たちには救いの道はありません。

 
メッセージ - A年 復活節

弟子たちは家の戸に鍵をかけて中にこもっていた。この福音朗読箇所(ヨハネ20:19-31)の場面では、復活の日とそれから8日目の2回、その様子が描かれていますが、師であるイエスを亡くした後の弟子たちのことを考えると、「鍵がかけられて閉じられた家」という状態は、弟子たちがおかれた閉塞感を表しているように感じられます。自分たちに救いをもたらしてくださると慕っていた主が、捕らえられて、罪に定められて、十字架の上で残酷に惨めな姿をさらされて殺された。彼に付き従っていた自分たちも、いつ同じような目に遭わされるかわからない、これからどうしたらいいのか、不安と恐れに悩まされながら、暗く狭い家の中で震えている様子が目に浮かぶようです。

けれども、そこにイエスが現れて、雰囲気が一変します。鍵がかかっていたのに、やってきて、真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」閉じこもっていたのに、「主を見て喜んだ」と言われています。恐れが喜びに変わりました。ユダヤ人たちに捕まる危険性がなくなったわけではありません。けれども、それにもかかわらず、彼らは喜びを得ました。

ご復活は喜びです。私たちは、「ご復活おめでとうございます」と言います。この世界に生きている私たちにとっての、その喜びは、恐れや、不安や、悲しみや悩みがなくなることではなくて、恐れや不安や悲しみや悩みがあっても、私たちは孤独にうち捨てられることはないということです。その中で、立ち上がり、立ち向かう勇気が与えられるということです。

恐れの中で喜びを得た弟子たちは、閉じこもっていた家から外に出て、全世界に行って、福音を告げ知らせました。私たちは、どんな力をいただいているでしょうか。今、どんな力をいただきたいと願うでしょうか。

 
メッセージ - A年 復活節

主の復活の出来事に基づき、二つの点に注目したいと思います。

第一点は、「墓の石が取りのけられていたこと」です。 この出来事は、単なる物理的な現象ではありません。イエス・キリストの復活において、深い霊的な意味を持つと考えられます。それは「死と絶望が取り除かれたこと」のしるしです。墓の石は「死によって閉ざされた状態」や「希望を失った状況」を象徴しています。その石が取り除かれていたことは、死が最終的な支配者ではないこと、絶望が終わりではないことを示しています。神が人間の限界を超えて道を開かれた象徴なのです。

第二点は、「マグダラのマリアの、闇を突き破る勇気」です。 福音書によると、マグダラのマリアはまだ暗い早朝にイエスの墓へ向かいました。恐れや悲しみの中にありながらも、彼女は愛と献身に従って行動しました。「暗いうちに」という描写は、時間を示すだけでなく、絶望や不安の中でも希望を求めて歩み出す姿を象徴しているように思えます。彼女が暗闇の中で墓へ向かったこと、そして最初に復活の光を目にしたことは、希望が絶望に打ち勝つ力強いメッセージを私たちに伝えています。

どうか、主の復活の光が私たちの心の障害を取り除き、マグダラのマリアのように恐れや過去を超えて未来に勇気をもって歩む力を与えてくださいますように。“主のご復活、おめでとうございます”