メッセージ - A年 年間

きょうの福音には、弟子たちが舟に乗って湖を渡る途中、激しい嵐に遭った出来事が記されています。弟子たちは荒れ狂う波に翻弄され、進むことも戻ることもできず、恐れに包まれていました。その時、イエスは弟子たちのもとへ来られ、こう言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この言葉には、弟子たちの恐れを取り除こうとされるイエスの深い愛が込められています。イエスは弟子たちを嵐のない安全な場所へ導いてから、「安心しなさい」と言われたのではありません。風が吹き荒れ、波が押し寄せる嵐のただ中で、「わたしがここにいる」と語りかけられたのです。

私たちも人生の中で、さまざまな嵐に遭遇します。病気や不安、将来への心配、人間関係の悩み、思いがけない試練など、誰もが人生の嵐を経験します。そのような時、私たちは「なぜ神様はこの状況を変えてくださらないのだろう」と思うことがあります。しかし、イエスが約束してくださるのは、嵐がいつもすぐに過ぎ去ることではありません。そうではなく、嵐の中にあっても私たちと共にいてくださるということです。

弟子たちに本当に必要だったのは、風や波がすぐに静まることだけではありませんでした。彼らに必要だったのは、「この嵐の中にもイエスがおられる」という確かな安心でした。主イエスが語られた「わたしだ」という言葉は、単なる自己紹介ではありません。神ご自身が共におられるという力強い宣言です。恐れに支配されそうになる時、イエスは「自分の力で乗り越えなさい」とは言われません。「わたしがいる。だから恐れるな」と、私たちを励ましてくださるのです。

私たちは、問題が解決すれば安心できると思いがちです。しかし、本当の平安は、問題がなくなることによってだけ与えられるものではありません。どのような状況の中にも共にいてくださる主を知ることから生まれるのです。嵐の中で弟子たちが見失っていたのは、舟の安定ではなく、共にいてくださるイエスの存在でした。今、私たちはどのような嵐の中にいるでしょうか。心に重くのしかかる不安や悲しみ、誰にも打ち明けることのできない苦しみを抱えているかもしれません。そのような私たちを、主は責めることなく、恐れのただ中で優しく呼びかけてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

主がおられるところには、恐れに打ち勝つ平安があります。ペテロは、風を見ると恐れて沈みました。しかし、イエスを見ている間は水の上を歩くことができました。今日の第一朗読に記された預言者エリヤも、周囲の恐ろしい状況ではなく、神の静かな声を聞いた時に、新しい力を受けました。信仰とは、「もう怖くない」と自分を強くすることではなく、恐れの中でも「神はここにおられる」と信頼することです。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

知恵の書 12章13節、16~19節

私たちが信じる神は、唯一の統治者です。神はご自身が造られたすべてのものを顧みられ、その御業は善いものです。キリスト教徒の信じる神は、ご自身を信じない者たちに対してもその力を示される、公正な神です。キリスト教徒の神は復讐の神ではなく、赦しと正義の神です。キリスト教徒の神は、慈悲深さ、優しさ、そして社会正義の模範を示しておられます。

ローマの信徒への手紙 8章26~27節

イエス・キリストは私たちに聖霊を遣わしてくださいました。聖霊は、私たちが弱さや不信仰、あるいは神に背く心に陥っている時や、自らの力ではどうすることもできないあらゆる事柄に直面している時に、私たちを力で満たしてくださいます。どのように祈ればよいか、あるいは問題をどう解決すればよいか分からないとき、聖霊は神から来る「祈り」という賜物を私たちに授けてくださるのです。

マタイによる福音書 13章24~30節

神は常に、ご自身を信じ、その言葉に耳を傾け、求められることをすべて行うことによって、自らを神の御手に委ねる人々の味方であられます。こうしたキリスト教徒こそが、神の「麦」なのです。しかしその一方で、神に敵対し、人々の間に、また神の計画の中に混乱をまき散らす人々もいます。こうした人々は世の「毒麦」であり、やがて神による裁きを受けることになります。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音箇所は、有名な種まきのたとえ話が読まれました。このマタイ13章は、先ほど読みました9節までが「たとえ話」、そして朗読では省略しましたが、17節まで「たとえを話す理由」が語られ、23節まで「解釈」が語られるという3つの構造になっています

この箇所のお話ですが、結論から簡単に言いますと、私たち人間がみ言葉を、神の言葉を聞いて受け入れ、それを自分の生活の中でしっかりと実践していくことが大切ですよ、というわけです。そう聞くとあまり難しいことではないように思えますが、実際に私たちそれぞれの生活で、ちゃんとできていますか、というところを改めて考えてみる必要があると思います。

聖書を通じて、私たちは数多くの教えを受けていますが、イエスが強調しているのは「言葉」と「行い」、この2つであります。教会で毎週日曜日のミサがあり、時には勉強会もあり、言葉を聞く、という機会は、私たちにはたくさんあります。言葉の種は多くまかれているわけですね。しかし、その言葉を普段の生活において生かすことが出来ているか、これが難しいところです。ミサの中で「隣人を大切にしなさい」という言葉を聞いて、ああそうだな、その通りだな、と聞いた時は思っていても、ミサが終わって外に出たら他人のことをボロクソに言ってしまう、そんなことも時にはあるかと思います。私も覚えがあります。人間というのはそんなものですね。そんな人間だからこそ、私たちは何度も何度も同じ福音を聞き、説教を聞き、そのたびにまた自分の中に強い根が張るように種をまかれているんですね。後は少しでも、ほんの一瞬だったとしても、言葉の通りに、教えの通りに生きようとすること、このことが何倍もの実を結ばせる結果に繋がります。この結ぶ実、というのは、決して自分自身だけのことではありません。言葉の通りに生きようとする姿、行動する姿を見た、他の多くの人に影響を与えるものです。私たちがイエスの言葉と行いにひかれ、その道を歩もうと思うように、キリスト者である私たち一人ひとりの行いを見て、ひかれる人は必ずいます。そうした実が広く結ばれていくためにも、まずは、私たちも自分自身の「聞く」姿勢、そしてそれを「行う」姿勢を今一度、見つめなおすことが、今日の福音から得られる一つのメッセージではないかと思います。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読箇所(マタイ11:25-30)の中の有名な一節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は、私たちにとって大きな慰めです。忙しく物事が動き、めまぐるしく変化し、矢のように時が過ぎていく現代にあって、私たちはみな疲れています。毎日朝から晩までしなければいけないことが山積みになっている、学業や仕事で良い結果を残さなければならない、気を抜き息をつく暇もない、そんな生活を送っているかもしれません。こうしたことは、私たちがこの世界で生きていく上で必要であり、責任を負っていることです。


けれども、それらが最も重要なことではない、手段であって目的ではない、もっと大切なことがある、とイエスは語ります。「わたしのもとに来れば安らぎを得られる」というのは、そのもっと大切な、新しい価値観の提示です。「柔和」で「謙遜」(11:29)なイエスの生き方は、私たちがこの世的な強さや結果や価値を求められるような中にあってもそれにしばられず、大切なものを見失わないように、と私たちを招きます。

 
メッセージ - A年 年間

きょうの福音の中で、私たちの心に強く響くのは、イエスのこの言葉ではないでしょうか。「父や母、息子や娘をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。」

この言葉を聞くと、「家族を大切にしてはいけないのだろうか」「自分を犠牲にしなければならないのだろうか」と少し戸惑いを感じるかもしれません。しかし、イエスは家族への愛を否定しているのではありません。むしろ、私たちの人生の中心に神を置くことの大切さを教えておられるのです。

神を第一にすることと家族を愛することは、本来対立するものではありません。イエスは別の箇所で「父母を敬いなさい」と教えておられますし、十字架の上でも母マリアを弟子に託し、その生活を気遣われました。ですから、「神を第一にする」とは家族への愛を捨てることではなく、神の愛に導かれて家族をより深く、正しく愛することを意味しています。

私たちは日々、多くのものを大切にしています。家族、仕事、財産やお金、夢や目標などは、どれも決して悪いものではありません。しかし、それらが人生の最高の価値となるのではなく、神を第一にするとき、それぞれが本来あるべき場所に置かれます。家族も仕事も人生そのものも、神との関わりの中で正しく受け止め、愛することができるようになるのです。

ですから、きょうのイエスの言葉は、「家族か神か」という選択を迫る言葉ではありません。そうではなく、「あなたの人生の中心には何がありますか」と静かに問いかける招きの言葉なのです。

今日の第二朗読でパウロは、「キリストとしっかり結ばれる者は、キリストとともに死に、またキリストとともに復活の栄光を受けることになる」と語りました。言い換えると、神やキリストを人生の第一にするなら、この地上で生きている間だけ恵みや祝福を受けるのではなく、永遠の命の恵みも受けることができるということです。

信仰とは、単に宗教的な行いを増やすことではありません。人生の最も深いところで神を信頼し、神を第一にして歩むことです。そのとき私たちは、自分自身も、家族も、周りの人々も、神の愛の中でより豊かに愛することができるようになるのです。