メッセージ - A年 年間

今日の福音箇所は、有名な種まきのたとえ話が読まれました。このマタイ13章は、先ほど読みました9節までが「たとえ話」、そして朗読では省略しましたが、17節まで「たとえを話す理由」が語られ、23節まで「解釈」が語られるという3つの構造になっています

この箇所のお話ですが、結論から簡単に言いますと、私たち人間がみ言葉を、神の言葉を聞いて受け入れ、それを自分の生活の中でしっかりと実践していくことが大切ですよ、というわけです。そう聞くとあまり難しいことではないように思えますが、実際に私たちそれぞれの生活で、ちゃんとできていますか、というところを改めて考えてみる必要があると思います。

聖書を通じて、私たちは数多くの教えを受けていますが、イエスが強調しているのは「言葉」と「行い」、この2つであります。教会で毎週日曜日のミサがあり、時には勉強会もあり、言葉を聞く、という機会は、私たちにはたくさんあります。言葉の種は多くまかれているわけですね。しかし、その言葉を普段の生活において生かすことが出来ているか、これが難しいところです。ミサの中で「隣人を大切にしなさい」という言葉を聞いて、ああそうだな、その通りだな、と聞いた時は思っていても、ミサが終わって外に出たら他人のことをボロクソに言ってしまう、そんなことも時にはあるかと思います。私も覚えがあります。人間というのはそんなものですね。そんな人間だからこそ、私たちは何度も何度も同じ福音を聞き、説教を聞き、そのたびにまた自分の中に強い根が張るように種をまかれているんですね。後は少しでも、ほんの一瞬だったとしても、言葉の通りに、教えの通りに生きようとすること、このことが何倍もの実を結ばせる結果に繋がります。この結ぶ実、というのは、決して自分自身だけのことではありません。言葉の通りに生きようとする姿、行動する姿を見た、他の多くの人に影響を与えるものです。私たちがイエスの言葉と行いにひかれ、その道を歩もうと思うように、キリスト者である私たち一人ひとりの行いを見て、ひかれる人は必ずいます。そうした実が広く結ばれていくためにも、まずは、私たちも自分自身の「聞く」姿勢、そしてそれを「行う」姿勢を今一度、見つめなおすことが、今日の福音から得られる一つのメッセージではないかと思います。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読箇所(マタイ11:25-30)の中の有名な一節、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」は、私たちにとって大きな慰めです。忙しく物事が動き、めまぐるしく変化し、矢のように時が過ぎていく現代にあって、私たちはみな疲れています。毎日朝から晩までしなければいけないことが山積みになっている、学業や仕事で良い結果を残さなければならない、気を抜き息をつく暇もない、そんな生活を送っているかもしれません。こうしたことは、私たちがこの世界で生きていく上で必要であり、責任を負っていることです。


けれども、それらが最も重要なことではない、手段であって目的ではない、もっと大切なことがある、とイエスは語ります。「わたしのもとに来れば安らぎを得られる」というのは、そのもっと大切な、新しい価値観の提示です。「柔和」で「謙遜」(11:29)なイエスの生き方は、私たちがこの世的な強さや結果や価値を求められるような中にあってもそれにしばられず、大切なものを見失わないように、と私たちを招きます。

 
メッセージ - A年 年間

きょうの福音の中で、私たちの心に強く響くのは、イエスのこの言葉ではないでしょうか。「父や母、息子や娘をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。」

この言葉を聞くと、「家族を大切にしてはいけないのだろうか」「自分を犠牲にしなければならないのだろうか」と少し戸惑いを感じるかもしれません。しかし、イエスは家族への愛を否定しているのではありません。むしろ、私たちの人生の中心に神を置くことの大切さを教えておられるのです。

神を第一にすることと家族を愛することは、本来対立するものではありません。イエスは別の箇所で「父母を敬いなさい」と教えておられますし、十字架の上でも母マリアを弟子に託し、その生活を気遣われました。ですから、「神を第一にする」とは家族への愛を捨てることではなく、神の愛に導かれて家族をより深く、正しく愛することを意味しています。

私たちは日々、多くのものを大切にしています。家族、仕事、財産やお金、夢や目標などは、どれも決して悪いものではありません。しかし、それらが人生の最高の価値となるのではなく、神を第一にするとき、それぞれが本来あるべき場所に置かれます。家族も仕事も人生そのものも、神との関わりの中で正しく受け止め、愛することができるようになるのです。

ですから、きょうのイエスの言葉は、「家族か神か」という選択を迫る言葉ではありません。そうではなく、「あなたの人生の中心には何がありますか」と静かに問いかける招きの言葉なのです。

今日の第二朗読でパウロは、「キリストとしっかり結ばれる者は、キリストとともに死に、またキリストとともに復活の栄光を受けることになる」と語りました。言い換えると、神やキリストを人生の第一にするなら、この地上で生きている間だけ恵みや祝福を受けるのではなく、永遠の命の恵みも受けることができるということです。

信仰とは、単に宗教的な行いを増やすことではありません。人生の最も深いところで神を信頼し、神を第一にして歩むことです。そのとき私たちは、自分自身も、家族も、周りの人々も、神の愛の中でより豊かに愛することができるようになるのです。

 
メッセージ - A年 年間

今日の聖書朗読は、キリスト者の生き方に関する重要な真理を私たちに示しています。それは、「神への真の証しは、しばしば苦しみを伴う」ということです。

第一朗読において、預言者エレミヤは神の前に自らの心をさらけ出します。彼は神の言葉を語ったがゆえに、人々から嘲られ、拒絶され、迫害されました。本来、神の言葉を届けるために遣わされた相手が、かえって彼に敵対したのです。しかし、それでも彼は沈黙することができませんでした。神の言葉は彼の内に燃える火のように宿り、語らずにはいられなかったからです。苦しみの中にあっても、彼は神から託された使命に忠実であり続けました。

今日の福音は、先週読んだマタイによる福音書における十二使徒への宣教命令の続きです。イエスが十二使徒を派遣するにあたり、弟子として生きる現実を語られます。

イエスは弟子たちに、神の言葉を宣べ伝えることが決して容易な道ではないことを前もって教えられます。「弟子は師にまさるものではない」と主は言われます。師であるイエスご自身が拒絶と苦しみを経験されたのであれば、弟子たちも同じ道を歩むことになるのです。

しかしイエスは、だからといって恐れてはならないと励まされます。弟子たちは迫害や苦しみの中にあっても、恐れることなく神の言葉を証しするよう招かれています。神はご自分の者たちを見守り、その苦しみの中にあっても決して見捨てることはないからです。

このメッセージは、私たち一人ひとりの日常生活にも向けられています。私たちの多くは、エレミヤや使徒たちのような激しい迫害を経験することはないかもしれません。しかし、キリスト者として生きる中で、信仰を証しするために何らかの犠牲を払うことはあります。正直であること、不正に反対すること、赦すこと、福音の価値観に従って生きることは、時として誤解や批判を招くかもしれません。しかし、そのような時こそ私たちはキリストの証人として生きているのです。

預言者エレミヤの勇気と、使徒たちの忠実さに倣い、私たちも恐れることなくキリストを証しする者となりましょう。預言者と使徒たちの土台の上に建てられた私たち教会は、証しする教会であり、必要であれば苦しむ教会でもあるからです。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読(マタイ9:36-10:8)は、「イエスの弟子である」とはどういうことかを思い起こさせてくれます。イエスは、自分一人だけで活動したのではなく、弟子たちと共に行動し、12人の使徒を選んで使命を与え、信頼して弟子たちを派遣しました。イエスが弟子たちを必要とした、ということです。

けれども選ばれた12使徒は、漁師や徴税人、熱心党の人もいて、決して有能で優れていたわけではなく、ひときわ信仰が深くて人格者だったわけでもありませんでした。彼らは弱さを抱え、時につまずき、裏切った者さえいて、十字架の前にはみんな逃げ出してしまいました。しかしイエスは、そんな彼らを一番近くにおいて大切にしたのであり、自分のミッションを彼らに託して自分の代わりに派遣するほどでした。

この12人の使徒の選びと派遣は、キリスト者である私たちの選びと派遣の物語でもあります。私たちは様々なところから集められましたが、それは何か特別な能力があったからでも、聖人だったからでもありませんでした。欠点ばかりで足りないところばかりですが、それでも私たちは呼ばれています。派遣されています。