| メッセージ - A年 年間 |
2026年9月6日
年間第23主日
①Ez 33:7-9 ②Rm 13 : 8-10 ③Mt 18 : 15-20)
神言神学院 松本 勝男
1.「被造物を大切にする世界祈願日」
2015年に回勅『ラウダート・シ』という回勅を出された教皇フランシスコは、東方正教会に倣い、環境保護の助けを願う日として、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と制定されました。
日本の教会では、司牧的な配慮から9月の第1日曜日である今日がこの祈願日に当たります。そして、2019年の11月に教皇フランシスコが日本を訪問され、「すべての命を守ろう」、「誰一人取り残される人がいないように」と、各地で命の大切さを訴えるメッセージを遺されたことに応えて、日本司教団は、「すべてのいのちを守るための月間」を制定しました。「月間」とはいっても、厳密には9月1日から10月4日と月を跨いでいますが、これは10月4日が「自然環境保護の聖人」であるアシジの聖フランシスコの記念日であることに関連しているものと思われます。
そもそも、回勅のタイトルとなっている「ラウダート・シ」とは古イタリア語で「あなたは称えられますように」という意味で、これはアシジの聖フランシスコの祈り、「太陽の賛歌」の冒頭の言葉です。この回勅は、環境問題を取り扱っているものですが、自然環境の保護だけを呼びかけているのではありません。すべての人たちが「ともに暮らす家」である地球を大切にするためには、自然環境の保護だけではなく、先進国と発展途上国との経済格差に伴う搾取や不正をなくしていかなければならないということ、つまり、人間の営み全体が環境問題と深く関わっていて、すべての人が安心して「共に暮らす家」で生活していくことができるように、生活のあり方を変えていかなければならないということです。まさに『ラウダート・シ』という回勅は、「すべてのいのちを守るための月間」の源泉になっていると言えるのではないでしょうか。
2.すべてのいのちを守るために
今日は、日曜日ということで、聖書の朗読箇所は3つありますが、いずれの箇所にも、すべてのいのちを守るためにどうしたらよいかを考えるヒントを見出すことができると思います。
第1朗読のエゼキエル書では、神が預言者エゼキエルを「イスラエルの家の見張りとする」(Ez 33 : 7)というエピソードが出てきました。「見張り」という言葉を聞くと、「人を監視して縛りつける」というイメージがありますが、ここでは、「イスラエルの民が誤った道から離れ神の救いに与ることができるように守り導く」ことを意味しているように思います。まさにエゼキエルは、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代、捕囚の地で活躍した預言者でしたから、捕囚生活に苦しむイスラエルの民に救いの希望をもたらす使命を担っていたわけです。
次に第2朗読のローマの教会への手紙で取り上げられているテーマは、隣人愛の重要性です。聖パウロが「人を愛する者は、律法を全うしている」(Rm 13 : 8)と記しているように、一人ひとりを大切にすることが神からの掟を守ることに繋がっていきます。613もあると言われる律法の要となるものは隣人愛だということです。
そして、福音朗読のマタイ福音書では、「自分に対して罪を犯した兄弟を断罪するのではなく、忠告することによって、兄弟の繋がりを失わないように」というイエス様の教えが出てきました。ちょうどこのエピソードの直前に、イエス様は「迷い出た羊」のたとえ話をされています(Mt 18 : 10-14)。まさに、「小さな者が一人でも滅びることのないように」(Mt 18 : 14)心を砕かれているイエス様に倣い、私たちも罪を犯した兄弟を失うことのないように心を砕くことが大切なのではないでしょうか。
このように今日の3つの聖書の朗読箇所を振り返ってみると、すべてのいのちを守るための基本は、一人ひとりを大切にするということだと言えそうです。それは、お互いにただ優しくするということだけではなく、間違っていることはきちんと正し、共に神の救いに与ることができるように、お互いを高め合っていくということではないでしょうか。
3.まとめ
言うまでもなく、一人ひとりを大切にするという最高の模範を示されたのはイエス様です。私たち一人ひとりを大切にしてくださるイエス様の、時には優しく時には厳しい愛が、私たちにとってすべてのいのちを守るために頑張る力の源泉となっているのではないでしょうか。
ルカ福音書の10章、通りがかりに追いはぎに襲われて倒れていた旅人を助けたサマリア人についてのたとえ話の中で、「行って、あなたも同じようにしなさい」(Lk 10 : 37)とイエス様は仰っています。そのように、困っている人たちの隣人となって力になることが、イエス様が示された模範に倣うことになるのではないでしょうか。
ここに集う私たちには、イエス様のように奇跡を行なう力はないかもしれません。しかし、イエス様のように出会う人たちを大切にすることはできるのではないでしょうか。どうぞここに集う私たち一人ひとりが、日々の生活の中での一つひとつの出会いを大切にし、共に喜びに充ちた日々を過ごすことができるよう恵みを願いながら、今日のミサを続けていきましょう。
| メッセージ - A年 年間 |
今週の福音朗読(マタイ16:21-27)は、先週のペトロの信仰告白(16:13-20)の続きです。ペトロの信仰告白は受け入れられましたが、その後、受難と復活を予告したイエスをいさめたペトロは、「邪魔をしている」と叱責されます。その後のイエスの言葉から考えると、ペトロの考えは「自分の命を救いたい」という立場から「自分を捨てず、十字架を背負わない」態度を示すものだったということができます。
第一朗読(エレミヤ20:7-9)でエレミヤは自分が陥った苦境に嘆きの声を上げますが、しかし神の言葉に自分を明け渡します。第二朗読(ローマ12:1-2)では、この世に倣うことなく、自分の心を変えて、何が神の御心であるかをわきまえるように、とパウロが勧めています。
自分の命にしがみつくとき、私たちは神のことを忘れ、人々から目をそらします。自分を大切にすることは自然なことですが、それは自分を閉ざすこととは異なります。私たちの心は神に、人に、開かれているでしょうか。
| メッセージ - A年 年間 |
マタイ16・13-20
今日の福音箇所は「ペトロの信仰告白」という非常に有名な場面が読まれました。この場面は共観福音書と呼ばれるマタイ・マルコ・ルカの3つの福音書の中で同様に描かれています。弟子たちと共に、地方の村々に宣教活動へと出向いているイエスは、その道中で「自分は何者であるか」について弟子たちに質問します。弟子たちは、人々が語るイエスについて、いくつかの名前を挙げながら答えます。そんな中、ペトロは「あなたはメシアです」とはっきり答えます。イエスはこのペトロの発言について、否定も肯定もせず、ただ自分のことを誰にも話さないようにと注意しました。
ペトロがイエスをメシアだと考えたのは、これまで共に旅をしてきて、様々な奇跡や癒しの業を見る中で、この人こそ、かつてダビデやソロモンといった王たちが作り上げた強いイスラエルの国を再興してくれるような政治的救世主であると思ったからです。イエスがメシアである、というペトロの告白は正しいものでしたが、どのようなメシアか、という部分においては、まだ正しい理解をしていませんでした。ですからイエスは、このことを誰にも話さないようにと注意したわけです。
さて、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの問いかけは、今日の福音を通して、私たち全てのキリスト者に向けられたものでもあります。現代に生きる私たちは幸いにも、聖書を通じてイエスがどのようなメシアであるか、またどのような救いを人々に与えたのかを知ることが出来ます。その意味で、私たちは正しくイエスを「メシア」であると言える信仰を持っているわけですが、同じく大切なのは、私たちがメシアである、と信じているイエスに、どのように従っていくことが出来るのか、という点であります。
『使徒ヤコブの手紙』の2章には「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と語られています。私たちがイエスをメシアであると理解し、イエスを心から信じていたとしても、もしイエスの教えにそぐわない生活や行い、あるいは発言をしていたならば、その信仰をイエスは認めてくれるでしょうか。このイエスの「私を何者だと言うのか」という問いかけに対し、私たち一人ひとりが、自分の信仰にも、言動にも何も後ろめたさを持つことなく、メシアであるイエスに従っているのだと堂々と言える、そんな生き方が出来るように、今日の福音の言葉をよく心に留めて、自分自身の日々の信仰生活を省みながら、これからを過ごして行きたいものであります。
| メッセージ - A年 年間 |
今日の三つの聖書朗読では、「異邦人」という言葉がテーマになっています。
第一朗読のイザヤの預言(56:1、6-7)では、イスラエルの民だけではなく、異邦人も主のもとに集い、主との契約を守るなら受け入れられる、と言われています。
第二朗読のローマの教会への手紙(11:13-15、29-32)では、自身を「異邦人のための使徒」と呼ぶパウロが、異邦人に福音をのべ伝える自分の働きは神の計画に従うものであると語っています。
福音朗読のマタイ福音書(15:21-28)には「異邦人」という言葉自体は出てきませんが、異邦人であるティルス・シドン生まれのカナンの女がイエスのもとにやってきて、その信仰により娘の病気をいやしてもらう、というエピソードが取り上げられます。
異邦人が救いに与る、ということは旧約時代のイスラエル人や新約時代のユダヤ人にとって驚きであり、受け入れがたいことだったかもしれません。しかし彼らも実は神の救いに招かれている、その恵みに与ることができる、そういうメッセージが語られています。
私たち自身にとって、異邦人とは誰でしょうか。生まれだけではなく考え方も価値観も全く異なっていて、自分にとっては受け入れがたい、どうしても好きにはなれないと思っている人も、同じく大切な存在として神に愛されている、そのことを受け入れ、認めることができるでしょうか。福音朗読のカナンの女と同様に、私たちの信仰も問われています。
| メッセージ - A年 年間 |
きょうの福音には、弟子たちが舟に乗って湖を渡る途中、激しい嵐に遭った出来事が記されています。弟子たちは荒れ狂う波に翻弄され、進むことも戻ることもできず、恐れに包まれていました。その時、イエスは弟子たちのもとへ来られ、こう言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」この言葉には、弟子たちの恐れを取り除こうとされるイエスの深い愛が込められています。イエスは弟子たちを嵐のない安全な場所へ導いてから、「安心しなさい」と言われたのではありません。風が吹き荒れ、波が押し寄せる嵐のただ中で、「わたしがここにいる」と語りかけられたのです。
私たちも人生の中で、さまざまな嵐に遭遇します。病気や不安、将来への心配、人間関係の悩み、思いがけない試練など、誰もが人生の嵐を経験します。そのような時、私たちは「なぜ神様はこの状況を変えてくださらないのだろう」と思うことがあります。しかし、イエスが約束してくださるのは、嵐がいつもすぐに過ぎ去ることではありません。そうではなく、嵐の中にあっても私たちと共にいてくださるということです。
弟子たちに本当に必要だったのは、風や波がすぐに静まることだけではありませんでした。彼らに必要だったのは、「この嵐の中にもイエスがおられる」という確かな安心でした。主イエスが語られた「わたしだ」という言葉は、単なる自己紹介ではありません。神ご自身が共におられるという力強い宣言です。恐れに支配されそうになる時、イエスは「自分の力で乗り越えなさい」とは言われません。「わたしがいる。だから恐れるな」と、私たちを励ましてくださるのです。
私たちは、問題が解決すれば安心できると思いがちです。しかし、本当の平安は、問題がなくなることによってだけ与えられるものではありません。どのような状況の中にも共にいてくださる主を知ることから生まれるのです。嵐の中で弟子たちが見失っていたのは、舟の安定ではなく、共にいてくださるイエスの存在でした。今、私たちはどのような嵐の中にいるでしょうか。心に重くのしかかる不安や悲しみ、誰にも打ち明けることのできない苦しみを抱えているかもしれません。そのような私たちを、主は責めることなく、恐れのただ中で優しく呼びかけてくださいます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
主がおられるところには、恐れに打ち勝つ平安があります。ペテロは、風を見ると恐れて沈みました。しかし、イエスを見ている間は水の上を歩くことができました。今日の第一朗読に記された預言者エリヤも、周囲の恐ろしい状況ではなく、神の静かな声を聞いた時に、新しい力を受けました。信仰とは、「もう怖くない」と自分を強くすることではなく、恐れの中でも「神はここにおられる」と信頼することです。アーメン。
