メッセージ - A年 待降節

イエスが生まれる750年ぐらい前に、ダビデの子孫であるユダの王アハズの元に預言者イザヤが訪れて、今日の第一朗読にあるように、あの有名なインマヌエル預言を語ったのです。その時、ユダ王国は大きな危機にさらされていたのです。国が危険な状況の中に、アハズ王はヤハヴェに頼るのではなく、アシリアという大国に頼ろうとするのです。アシリアの力で守ってもらおうと考えていたのです。そこで、預言者イザヤがアハズの元に来て、王にはヤハヴェという力強い守りがいることを訴えました。「もしも神がイスラエルになさったこと、ダビデに約束したことを疑うのなら、今、主なる神にしるしを求めなさい」とアハズに訴えたのです。預言者に責められて、アハズは「私は求めない。主を試すようなことはしない」と答えたが、彼の心の中にはアシリアに頼る決断は既に固まっていたのです。そこで、イザヤは、「あなたがしるしを求めないなら、神ご自身がしるしを与える。乙女が身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエル、神が我々と共にいる。最終的に共にいて守ってくれるのは「大国アシリア」ではなく、「神ご自身」だということを約束したのです。

750年後、その約束が実現しようとした時に、もう一人のダビデの子孫がせっぱ詰まった状況に置かれていました。ヨセフが、婚約者マリアと一緒になる前に彼女が身ごもっていました。それを知った時に、ヨセフには裏切られた気もちがないはずがないです。しかし、正しい人、律法に忠実なヨセフが出した決断は「ひそかにマリアとの縁を切る」ということでした。なんと思慮深い紳士でやさしい男でしょう。しかし、神様はヨセフにそれ以上のことを求めるのです。人生の岐路に立っている時に、困った時に、神はヨセフに自分自身の中のかっと、自分自身の気持ちとの戦いを超えて、宗教的な決まりをも超えて、大胆なことを求めました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。訳の分からない理由で妊娠した妻を迎え入れること、生まれてくる子を我が子のように育てることはけっして単純なことではないです。ヨセフは一言も言わないが、彼の答えははっきりしています。

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。せっぱ詰まった時に、ヨセフは自分自身ではなく、社会の中の常識でもなく、宗教の決まりごとでもなく、神を信じるのです。神が共にいることを信じるからこそマリアを迎えいれたのです。神が共にいることを信じるからこそ、ヨセフはイエス、インマヌエルの父親となることができたのです。神が共にいるというヨセフの信仰を通して、聖霊によって宿られたイエスが同時にダビデの子孫となるのです。

せっぱ詰まった時に神は私達に大胆な決断を求めるのです。それは自分自身の安全でもなく、目の前の利益でもなく、世の中の政治的動向でもなく、宗教の決まりごとへの従順に基づいた決断でもないのです。「神が共にいてくださるから」という信仰に基づいた決断でなければならないのです。

クリスマスは後数日です。毎日私たちは様々な決断に迫られています。都合が悪い時にも、ヨセフのように、信仰を持って答えることが出来るように祈りながら、主のご降誕を迎えましょう。

 
メッセージ - A年 待降節

きょうの福音に記された出来事に基づいて、二点のことに注目したいです。

一点目は、弟子たちを派遣する洗礼者ヨハネ。

牢獄から二人の弟子をイエスのところに遣わしたことにおいて、三つの意味が込められています。まず、一つ目は、「確認と安心」のためです。ヨハネは投獄され死が間近に迫る中、自分の弟子たちを通してイエスに直接問いかけることで、自らの信仰を再確認し、安心感を得たかったと考えられます。次に、二つ目は、「弟子たちへの導き」のためです。イエスの奇跡や教えを弟子たち自身の目で見聞きさせるため、彼らが将来イエスを信じ、従うように仕向けたかったと考えられます。最後に、三つ目は、「公的な証言の要求」のためです。イエスに公の場でメシアとしての宣言を促し、人々に自身の役割(メシアの先駆者)を理解してもらおうとした可能性もあります。

二点目は、イエスの反応と命令。

イエスはヨハネの弟子の質問に対して、直接的な「はい」とは答えず、代わりに、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、重い皮膚病を患っている人が清くなり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死んだ人が生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされている。わたしにつまずかない者は幸いである」と命じました。このイエスの語られた「見聞きしたことを伝えなさい」という言葉には二つの意味があります。まず、一つ目は、イエスのこの命令は、預言者たちが預言したことと洗礼者ヨハネが宣言していることはすべて、事実であり、イエスの中に実現されたことを意味します。次に、二つ目は、伝聞や不確かな情報ではなく、個人の実体験や確実な根拠に基づくことの重要性を強調していると考えられます。

最後に、洗礼者ヨハネとイエスから学ぶべき重要な価値観が二つあります。第一に、洗礼者ヨハネから学ぶべきことは、神から与えられた使命を徹底的かつ責任を持って遂行することです。どんな困難に直面しても、信仰の証しを妨げてはなりません。第二に、イエスのメッセージから学ぶべきことは、ヨハネの二人の弟子に命じたことと同じように、現代の信仰や宣教において、私たち自身は知識力や教義だけでなく、神との深い関係と信仰の生きた経験は絶対的な基準(土台)だということです。

 
メッセージ - A年 待降節

洗礼者ヨハネが天の国の到来が近いことを宣べ伝え、人々に悔い改めを呼びかける姿は、「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)とたとえられています。実際にユダヤの荒れ野で活動していたヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、イナゴとの蜜を食べ物としていた、という独特の風貌でしたが、更に厳しい言葉を用いて人々を非難し、その罪をとがめます。神の怒りが差し迫っており、木の根元には斧が置かれていて、良い実を結ばないなら、すぐに切り倒されて火に投げ込まれる、という厳しさです。まさに人が生きていくことができない、過酷な自然環境である「荒れ野」のあり様です。

しかし、そんな荒れ野でこそ、「聖霊と火」で洗礼を授ける、洗礼者ヨハネよりも優れた方の到来が告げられました。荒れ野でこそ、救いの訪れ、神の国の訪れが宣べ伝えられました。私たちは、だれしも自分の「荒れ野」で苦しい状況を生きることがあります。けれども、そんな荒れ野の中にこそイエスが生まれた、人々の苦しみや痛みによりそい、いやしを与えるために生まれた、そういうことを思い起こさせてくれます。

人々が幸せを感じ、楽しみを分かち合うクリスマスの時期だからこそ、荒れ野のメッセージを大切にしたいものです。

 
メッセージ - A年 待降節

今日の福音朗読(マタイ24:37-44)、そして第二朗読のパウロの手紙(ローマ13:11-14a)において、中心となっているメッセージは、「目を覚ましていなさい」「眠りから覚めなさい」ということです。それは肉体的な眠りや目覚めのことではなくて、精神的あるいは霊的な目覚めのことであり、私たちが神の国の到来に敏感であるように、との勧めになっています。

神の国はもちろん見えるものではなく、またどこでどのように実現するかわからない、人の子は思いがけないときに来る(マタイ24:44)と言われています。ですから、見えないものへの感覚を研ぎ澄ますことが重要です。第一朗読のイザヤ(2:1-5)は、国が戦争の危機に直面するという厳しい状況にあって、そこには見えるはずがない、武器が必要なくなる平和のビジョンへの希望を持ちました。私たちは見えていない希望に強められ、見えてないが恵みを受けていると感じて感謝し、見えない愛を形にして自分の使命を果たします。

福音朗読で言及されているノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という当たり前の日常的なことだけにとらわれて、洪水が襲ってくるのに気づかなかったように、私たちも目の前の見えていることだけにとらわれると、大切なものを見逃してしまうかもしれません。

馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに目を向けるとき、キリスト者でなければ、そこにあどけない、無垢だが無力な赤ん坊を見るだけです。しかし、イエス・キリストを知っている者は、その赤ん坊に、貧しい人の友となり、病の人に手を差し伸べていやし、十字架の死に至るまでその行き方を貫いた姿を見出します。

 
メッセージ - C年 年間

カトリック教会の典礼暦年間の最後の主日は、「王であるキリスト」を祝います。福音朗読の箇所(ルカ23:35-43)は、イエスが十字架につけられた場面です。そこでは、十字架を囲む兵士たちがイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいますけれども、それはもちろん皮肉です。十字架の上で何もできない、自分を救うこともできない、と言って侮辱したわけです。また、一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も同じように「お前がメシアなら、自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。彼らにとっての「王」とは、第一朗読(サムエル下5:1-3)に描かれているダビデのように、この世界で強い武力を持ち、戦争の時に人々の前に立って敵と戦ってくれる人物のこと、当時の状況なら、ローマの支配から独立を勝ち取ってくれる民族の救世主でした。それに対して、十字架につけられていたもう一人の犯罪人は、「あなたの御国においでになるときには」、つまり「あなたが王としてご自分の国に入るときには、わたしのことを思い出して下さい」と言いました。

両者ともイエスのことを「王」だと言いながら、王がどういう者かということについては、別々の考えを抱いていました。兵士たちは、力強く戦う王・敵を力で滅ぼす王のイメージを持ち、イエスのことを皮肉で「王」と呼びながら、十字架から降りてくる力がない、弱々しくて自分自身も他の人も救えない、と侮辱しました。逆に一人の犯罪人は、イエスは何も悪いことをしていないのに、その必要もないのに、すべての人の救いのために、自分から十字架に上がり、命を献げようとしている。そこに王としての姿を見出しました。

私たちにとっての王は、戦いの中で敵を攻撃して滅ぼす王でしょうか。それとも、人々を愛し、そのためには身をささげるほどの苦しみを受け入れて、人々を救う王でしょうか。私たちにとって、十字架の上のイエスは、弱い、力のない、惨めな人でしょうか。それとも私たちのために命をかけるほど、強い愛を持った方でしょうか。