| メッセージ - C年 年間 |
Afri Dietger
今日の聖書朗読を通して、教会は「祈り」というテーマを示すと共に、祈りが単なる外面的な儀式ではなく、神と心から出会うことだということを教えています。第一朗読のシラ書は、謙虚な者の祈りを通して、この神との心からの出会いを描いています。謙虚な人の祈りは「雲」にまで届き、その力はいと高き方が御手を下されるまで止まることはありません。
謙虚な人の祈りをさらに探るために、ルカ福音記者はファリサイ派の祈りと徴税人の祈りを対比して示しています。一つ目は、ファリサイ派の人は感謝の祈りを捧げますが、そこには自己中心性が含まれています。このファリサイ派の人は、自分が他人とは異なっていることに感謝しています。「神様、私はこの徴税人のような者でもないことを感謝しています」とファリサイ派の人が祈っています。 確かに、私たちの誰一人として、他の人と同じではありません。 私たち一人ひとりには、それぞれの個性と独自性が与えられています。その違いと独自性は、ファリサイ派の人がしたように他人を軽んじるためではなく、神の創造の偉大さを悟り、隣人に対する理解を深めるためのものです。また、祈りとは本来、神との対話であるべきですが、このファリサイ派の祈りは神との対話ではなく、自分自身への語りかけなのです。
二つ目は、祈りにおける謙遜です。ファリサイ派とは対照的に、徴税人は三つの行動で祈りにおける謙遜を表明しています。一つ目の行動は、遠くに立っていることです。徴税人は、その仕事ゆえに人々から罪人であり裏切り者と見なされていたため、神殿の中心部には近づかなかったのです。徴税人は遠くに立って、自らの不適格さを自覚しています。この行動は敬意と畏敬の念を表しています:彼は神に近づいているふりをせず、自らの憐れみへの必要性を認めています。
一定の距離を取ること によって、この徴税人は神との出会いを経験することができます。ある程度、距離を取ることで、私たちは神の顔を見つめ、その慈しみ深いまなざしと存在を感じることが可能にされます。神を自分の中に取り込んでしまうほど近くもなく、全く感じられなくなるほど遠くもない距離です。適切な距離は、単に神の呼びかけを聞くだけでなく、私たちの祈りが聞き届けられ、叶えられることを実感するために不可欠なことです。
二つ目の行動は、目を天に上げようともしないことです。この徴税人は、自分のあり方を恥じて、空を見上げるほど勇気がありません。目を伏せることは、深い恥じらい、悔い改め、そして謙虚さのしるしです。徴税人は神を見るに相応しくないと感じ、このことは逆説的に彼を神に近づけるのです。天を見上げるのが祈りの動作であるなら、ここでは徴税人はこの動作さえも無視しています。彼にとって祈りは完全に内面的なものだからです。語るのは目ではなく心なのです。
三つ目の行動は、胸を打つことです。この徴税人は、悔い改めと絶望の印として自分の胸を打ち叩いています。徴税人が胸を打つのは、心が砕け、悔い改めた思いに満ちているからです。悔い改めた心からこそ、真の祈りが流れ出ます。心は、へりくだる祈りを表す器であり、人の深い状態から湧き上がる祈りの源です。この徴税人は、自分が完全に罪深いことを自覚しています。そのため、彼は自分の罪を認め、神の憐れみを願い求めています。「神様、罪人の私を憐れんでください」と徴税人は祈っています。
遠くに立っていること、目を天に上げようともしないこと、胸を打つことという三つの行動によって、徴税人は今日の第一朗読に描かれている謙虚な人の祈りのように、神と心から向かい合うことができます。三つの謙虚さを示す行動の内、徴税人はついに自分の祈りを神の憐れみを求める願いで締めくくっています。憐れみとは、神ご自身だけが架けることのできる橋であり、私たち人間と神との間にある隔たりを取り除くものです。
この徴税人は言葉と行いの調和を示しています。徴税人は言葉においてだけでなく、行いにおいても謙虚さを示唆しているのです。私たちが祈りと行いにおいて、謙遜な者となることができますように、祈り求めましょう。
| メッセージ - C年 年間 |
人生には試練や困難がつきものです。困難は人それぞれに異なり、仕事、健康、人間関係、家庭など様々な形で現れます。人は困難な状況をどのように理解し、対処するかが重要です。誰もが、これらすべての困難に立ち向かい、克服するための独自の方法、戦略、または戦術を持っていると思います。
きょうの福音にはイエスが私たちに、「気を落とさずに、絶えず祈りなさい」と教えてくださいました。主イエスが語った言葉には二つのキーワードがあります。
まず、一つ目は、「気を落とさず」という言葉です。主イエスが言った「気を落とさず」とは、失望や悲観、不安に打ちひしがれないように、希望を持って神の国を待ち望みなさいという意味です。これは、世の中の出来事や苦難に打ちひしがれるのではなく、神の約束を信じ続けることの重要性を弟子たちに伝えた言葉です。
そして、二つ目は、「絶えず祈る」という言葉です。「絶えず祈る」とは、神からの助けが必ずあると信じて、信仰に根ざした祈り(神への叫び)を捧げ続けることです。また、「どうせ」と不信仰になるのではなく、神がご自身の目的のために苦しみさえも用いられることを信じ、神の御心が成るように祈ることが大切だと説いています。
そして、二つ目は、「絶えず祈る」という言葉です。「絶えず祈る」とは、神からの助けが必ずあると信じて、信仰に根ざした祈り(神への叫び)を捧げ続けることです。また、「どうせ」と不信仰になるのではなく、神がご自身の目的のために苦しみさえも用いられることを信じ、神の御心が成るように祈ることが大切だと説いています。
| メッセージ - C年 年間 |
聖書におけるいやしは、単に「病気の状態から肉体が回復すること」ではありません。それは社会への復帰であり、人々に受け入れられることであり、神に見捨てられたのではなく愛されていると確認することでした。傷ついた全人格のいやしでした。福音朗読における、いやしを求めるサマリア人の必死の訴えと、いやされた後の彼の賛美と感謝が、その重みがどれほどであったかを示しています。第一朗読の列王記(5:14-17)に登場するナアマンも、重い皮膚病からの回復に神の働きを認めました。
私たちにも、日々の生活の中で手にして当たり前と思っていることの内に、大きな恵みを感じ取るチャンスが与えられています。病に限らず、倒れて傷ついた状態から回復するときに、立ち上がる力を与えられていることを実感します。周りの人の支えがあり、恵みに生かされて引き上げてもらっていると気づきます。そのとき、同時に感謝の心を表すことができるように願いたいものです。
| メッセージ - C年 年間 |
人生において、人間として、日常生活において私たちは「目に見える富」すなわちお金、名声、健康、時間を手にしているのではないかと思います。その一方で、私たちは「見えない財」すなわち愛、幸福、平和、そして永遠の命への希望も必要としていることでしょう。もちろん、両方とも、私たちが人生で満たすべき必要不可欠なものです。しかし、もし一方を優先し、もう一方を無視したらどうなるでしょうか?ここで私たちは、永遠の命にとって最も重要な要素を注意深く見極め、評価しなければなりません。なぜなら、巡礼者としての人間にとって、人生の最終目的は世俗的なものではなく、天における永遠の命だからです。では、永遠の命を受けるために何をすれば良いでしょうか。
今日の聖書朗読箇所は、「愛と隣人への思いやり」について深く描かれています。第一朗読では、預言者アモスが傲慢な人々を厳しく戒めています。彼らは自己満足のために楽しみを追い求め、他者の苦しみに無関心でした。第二朗読のテモテへの手紙において、パウロは神の命令に従って生きるよう助言しています。その命令は愛、忍耐、そして信仰における持続性を強調し、イエスが自らを現すまで続けることを求めています。同時に、ルカによる福音書では、イエスは、金持ちとラザロのたとえ話を用いて、弟子たちに神の国の価値、すなわち貧しく苦しむ隣人への愛と配慮について教えました。隣人への愛と配慮を伴わなければ、この世の富は永遠の幸福をもたらさないことをイエスは強調しました。
人生において、私たちはしばしば物質的な面でも、精神面においてもラザロのような人々にたくさん出会います。彼らは苦しみ、貧しく、弱く、社会から疎外され、不正や抑圧の犠牲となっています。まさに彼らに対して、私たちはイエスの弟子として、心の目を開き、時間と関心を捧げ、愛と慰めを実践するよう招かれているのです。この世での生活の中で、 隣人への愛の種を蒔き、分かち合うことで、私たちは永遠の命のための貯えをし、天の喜びの礎をしっかりと築いているのです。それゆえ、今日なすべきことを先延ばしにしてはなりません。なぜなら、永遠の喜びは死後のことではなく、今この瞬間、この地上で私たちがすでに、あるいは、今まさに実践していることの中にあるからです。この人生は、神が与えてくださった善を行う機会であり、隣人への愛を示す機会です。ですから、私たちの思いやりを通して、隣人への祝福の器となりましょう。
| メッセージ - C年 年間 |
今日の福音で語られたイエスの「金持ちの例え」は、数ある例え話の中でも、なかなか理解しにくいものであります。朗読では省略しましたが、まず前半部分では、不正な管理人が詐欺のようなやり方で、恩を売って、いざという時のために備える話が読まれています。この話で主人は不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた、というのが一つ重要なポイントとなっています。褒めた、という対象は、あくまでこの「抜け目のないやり方」であって、不正行為自体ではないことを理解しなくてはいけません。この管理人は、自分の将来が困難であることを予見し、必死に考えて行動したという、その賢さ、行動力の点で褒められているのです。
この話は、その後に語られる「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というイエスの言葉に繋がります。私たち人間も、死んで天の国に入るには、この世における行動が大切になります。不正にまみれた富、という書き方がなされているので、わかりにくいですが、これはこの世の財産を指しています。つまり、この世の財産をいかに有効に使って、天の国に入る準備が出来るか、ということをイエスは指摘しているのです。それは例えば宣教のため、施し、援助など様々な形があります。そうしたことに有効に財産を使うことで、神の救いに与る人々を増やして、自分が天の国に入る時に、その努力と行動を認めてもらう、あるいは、自分が救いへと導いた人々に迎え入れてもらうのだ、ということをイエスはこの例えで教えているわけです。不正な管理人が褒められた行動力を、私たちも天の国のために示すことの大切さが語られているとも言えると思います。
福音の後半では、小さな事に忠実でなければ、大きなことにも忠実でない、という言葉があります。ここでも、小さな事の例として不正にまみれた富が挙げられています。先ほど読んだ通り、この世の財産のことを指しているものです。神が人間に管理を任せている、この世の財産、時間、能力、あるいは地球の資源など、この世にあるものは、天の国からすれば小さなものです。しかし、そうした小さなものとされるこの世のものを、不正な管理人の例えのように有効に活用することが出来なければ、天の国、神のもとにある大きなものを任せられる人間にはなり得ない、というわけです。ただ、ここで忘れてはならないのは、イエスの「神と富とに仕えることはできない」という最後の言葉です。この世の小さなもの、富や財産を有効に活用することは大事ですが、私たちがそうした富や財産自体に必要以上に執着したり、自分の利益だけに考えが向いてしまったりしてはいけないわけです。この福音箇所は、私たちがキリスト者として、何を最も重視するものとし、何をその重視する物のために活用していくべきなのか、このことを改めて考えさせる例え話であると言えるのではないでしょうか。
この世のもの、財産や富というものを、現実として私たちが生きていく上で全て手放したりすることはまずできません。生きていくためには絶対に必要なものです。しかしそれ自体が私たちキリスト者におけるこの世の目的としてしまっては、神に仕えることはかないません。自分にとって本当に大切にすべきものは何であるかをよく考えながら、この世のものをその本当に大切なもののために有効に活用していくこと、そうした意識を持つことが肝要です。このことを忘れないためにも、今日の福音の言葉をよく黙想し、自分自身の日々の生活を今一度省みながら、キリスト者としての正しい生き方を見いだせるように、ともに祈ることと致しましょう。
