メッセージ - A年 年間

きょうの福音は主イエスが四人の漁師を最初の弟子としてお選びになったことについて記されています。このエピソードにおいて、一つの主要な点は、なぜ、イエスは漁師を自分の弟子にしたのかということです。イエスが漁師(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を最初の弟子として選んだのには、単なる偶然ではなく、深い意図と象徴的な意味があると思います。確かに、イエスの中に特別な理由があったと考えられます。

一つ目は、「忍耐力」ということです。漁師の仕事は、夜通し働いたり、網を整えたり、天候の急変に対応したりするなど、高い忍耐力、体力、そして勇気を必要とします。このような不屈の精神は、困難な宣教活動を推進する弟子たちに必要な特質でした。

二つ目は、「チームワークと協調性」ということです。船の上で網を引くには、一人ではなく、仲間と息を合わせて働くチームワークが不可欠です。イエスは、この協調性を、教会という信仰の共同体を築くために生かそうとしました。

三つ目は、「謙虚さ」ということです。漁師たちは、当時の宗教指導者(パリサイ人など)のような高い学歴や社会的身分、宗教的権威を持たない一般の労働者でした。イエスは、そのような地位やプライドに縛られない、謙虚で素直に教えを受け入れる人々を求めていました。

四つ目は、「信頼」ということです。漁師たちを信頼しているからです。主イエスは、彼ら一人一人に目を留め、じっとご覧になり、ご自分から近付いて、「わたしについて来なさい」と声をかけてくださったのです。イエスは四人に、「目を留め、じっとご覧になり、近付いて、声をかけた」という行動です。この主イエスの行動は「信頼の行動」とも言えるのではないでしょうか。つまり、イエスは、その四人の漁師の上に「信頼を置く」ということです。彼らを信頼しているから、お選びになったのです。それがすべての「鍵」だと思います。言い換えれば、信頼がなければ、いくら目の前にいるとしても、声をかけないでしょう。

キリスト者になった私たち自身も、他の人よりも優れた資格を持っているからではなく、キリストが私たちに大きな信頼を置いてくださっているから選ばれたのです。

どうか、主の招きに答えた私たちが、最後まで喜びの内に、キリストに従い、歩み続けていきましょう。そして、人を取る漁師として選ばれた私たちは、それぞれの置かれた場で、キリストの愛と平和を一人でも多くの人に伝えて、実現することができますように。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(ヨハネ1:29-34)では、イエスの公生活の始まりに先立ち、洗礼者ヨハネがイエスについてあかしする場面が読まれます。ヨハネに対して「メシアではないのか」「エリヤかあの預言者ではないのか」と言う人々がいましたが、ヨハネは「自分の後から来られる方こそ、その人物だ」と語り、イエスが自分の方へ来られるのを見て、「この方こそ神の子だ」と示しました。

「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返しながらもヨハネがこのあかしをしたのは、霊が降ってきてイエスにとどまる、という「しるし」を見たからでした。

この世界で私たちに与えられるのも、いわば「しるし」だけです。神の子の姿を目にすることも、神の声を聞くこともありません。私たちは、聖書のみ言葉を通して、目の前で起こる出来事を通して、人々の愛ある行いを通して、そこに神の業を、神の御旨を「感じ取る」ことしかできません。

私たちは、今、何を見て、どこに主の存在を感じるでしょうか。

 
メッセージ - A年 降誕節

今日の典礼は主の洗礼です。クリスマスシーズンの喜びに満ちた終わりと年間の始まりを告げるものです。ヨルダン川で洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けたことを記念するものです。また、イエスの公の宣教の始まりをも告げ、鳩のように降りてきた聖霊によって神の子としてのイエスの身分を明らかにしました。神の素晴らしい計画を常に信頼し、洗礼の約束を生きながら、信仰を成長させていきましょう。

皆さん、ご自身の洗礼を覚えていますか?洗礼の約束に従って生きていますか?あなたは神に愛されている息子、娘ですか?あなたは神の子と呼ばれるにふさわしいでしょうか?

今日のテーマは、イエスの洗礼とその重要性についてです。ヨルダン川でのイエスの洗礼は、四福音書すべてに記録されています。マタイによる福音書では、その時、イエスは自分が罪人であることを認める人々の列に加わります。ヨハネはイエスに洗礼を授けることをためらい、自分こそイエスから洗礼を受けるべき者であると主張します。しかしイエスは、「今は止めないでほしい。このようにして、私たちはすべての正しいことを行うのにふさわしいのです」と言われました。

イエスはなぜ洗礼を受けたのでしょうか?ヨハネの洗礼は、悔い改めと罪の赦しのためでしょうか?イエスが洗礼を受けた理由は3つあります。まず、洗礼に用いる水を清め、聖別するためです。イエスがヨルダン川に入ったことは、洗礼に用いる水が聖なるものであることを意味します。そのため、洗礼の際に司祭は用いる水を祝福します。次に、イエスは洗礼の秘跡という形で私たちを模範として導いてくださいます。イエスの弟子として、私たちもイエスの足跡に従うよう招かれています。私たちは水に浸かり、そして復活を通してイエスと共によみがえる必要があります。もう一つ、イエスは公の宣教に備えるために洗礼を受けました。実際、イエスの洗礼は第二の偉大な顕現です。それはイエスが「神の子」として誰であるか、そしてイエスが受けた使命を明らかにするものです。

イエスの洗礼では何が起こりましたか?天が開き、聖霊が鳩の姿をとってイエスの上に降り立ちます。すると天から声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」この洗礼は、三位一体の三位一体のすべてを表わしています。御子が洗礼を受け、聖霊が鳩の姿をとって降り、そして父が天から語りかけます。

一方、洗礼の重要性とは何でしょうか?

第一に、洗礼は私たちを神に愛され、最も大切な子供とします。私たちは愛され、かけがえのない存在であるがゆえに、父なる神から最高の賜物を受けています。私たちは信仰、希望、そして愛という三つの徳性を受け継いでいます。なぜでしょうか?それは私たちが特別だからです。神は私たちを深く愛しておられます。

第二に、洗礼は私たちを天国の住人へと導きます。天国は私たちの永遠の住まいであり、地上は一時的な場所です。それは霊的な再生と神の国への入り口を意味します。洗礼によって、私たちは天国の門を開きました。では、どのようにして天国の扉を開くのでしょうか?謙虚で、正直で、聖なる者となり、神に従うことです。

第三に、洗礼は私たちに消えることのない特質を刻み込みます。それは私たちをキリストの体である教会の一部とします。この特質は、たとえ私たちが道を踏み外したとしても、自分が本当に何者であるかを忘れたとしても、消えることも、取り除くこともできません。

言い換えれば、洗礼はイエスが制定された最初の秘跡です。それは霊的な清めとキリストにおける新しい命を象徴しています。洗礼は私たちの誕生日のようなものです。洗礼によって、私たちはキリスト者としての人生に生まれ変わります。洗礼を覚え、祝いましょう。洗礼を大切にしましょう。神の目に喜ばれる者となりましょう。神のふさわしい子となりましょう。

祈り:主イエスよ、私たちがあなたによって洗礼を受けたので、福音の使者としてあなたの救いの使命に加わるよう選ばれたことを私たちに知らせてください。アーメン。

 
メッセージ - A年 降誕節

今日、カトリック教会はエピファニー「主の公現」の祭日を祝います。これは光を通して救い主はすべての国々に現れるという意味です。したがって、この祭日は、すべての国民のためのクリスマスとしても知られています。今日の典礼を通して、私たちは日々の生活体験一つ一つの中で、神の存在について考えるよう招かれています。

先ほど読まれた朗読では「光を通して示される救い主の姿」について深く描かれています。第一朗読では、預言者イザヤは、栄光に輝く光としての救い主の到来を預言しました。救い主は、闇の力の中に生きていたイスラエル人に神の救いを悟らせるために来られます。信じて受け入れる者は光に至り、救いを受けることができます。第二朗読のエフェソの教会への手紙においては、パウロは神の恵みの摂理について強調します。神はパウロに、啓示によって明らかにされた救いの神秘を告げ知らせるように託されました。福音の宣教のおかげで、ユダヤ人も異邦人も、すべての国民がイエス・キリストによって与えられた救いの約束を受け継ぎ、それにあずかる者となります。福音書の中では、マタイが平和の王であるイエスを見、礼拝するために東方から学者たちが訪れたことについて説明しています。彼らは星の導きによって、ベツレヘムでの飼い葉桶に寝かされている幼子のイエスを見つけました。彼らは大喜びで黄金、没薬、乳香の贈り物を捧げ、王であるイエスへの感謝と栄誉を表しました。

今日祝う主の公現を通して、私たちはどのようなメッセージを受け取ることができるでしょうか。まず、世の光であるイエスが私たちの生きているこの今、まさに、ただ中に現存してくださるということです。イエスはその信仰を信じるすべての人を照らすために来られ、永遠の救いを見出すように、私たちを導いてくださいます。次に、光に対する私たち人間の反応です。今日の福音では、それを、イエスに出会って礼拝するためにやって来たあらゆる国の代表である学者から学ぶことができます。彼らはイエスを、破滅ではなく救いを、悲しみではなく喜びを、敵意ではなく平和をもたらす王として、謙虚に受け入れ認めています。

これらのことから、謙虚に心を開き、聖霊の導きを求め、私たちの生活の中に光としての神の存在を実現できるようになりましょう。 また、自分たちが受けた洗礼の秘跡を通して、私たち自身が、家族、同僚、共同体、日々出会うすべての人々に対して、神の存在のしるしとなることができますように。そして、神の平和、喜び、愛をすべての人が感じることができるように、共に祈り求めましょう。

 
メッセージ - A年 降誕節

今日祝う聖家族という日は、カトリック教会の歴史としてはかなり新しい習慣であります。元々は300年程前にカナダの司教と信徒のグループで祝い始めたものでしたが、それが広まって、正式に祝日となったのは1900年代に入ってからのことです。この日には、毎年、イエスの幼年時代の話を聞いて、家族というものを考えることが大きなテーマとなっています。

この祝日は、聖家族を構成している子であるイエス、そしてマリアとヨセフという両親、この小さな家族に目を注ぎながら、自分たちの家庭を振り返ってみる、そうした日であります。年末年始は誰もが故郷や実家などに帰省したり、連絡を取ったりと、お盆と同様に自分達の家族を意識する時期でありますが、そうした季節に合わせて、教会がこの聖家族を祝う日を設定していることには大きな意味があると思います。

今日の福音ではヨセフが夢のお告げに従い、マリアと幼子イエスを守る場面が読まれています。しかしながら、その後ヨセフはほとんど表舞台に登場せず、彼がどのような生涯を送ったのか、またイエスが成長する間にどのようなことがあって、人間としてのイエスの思想や倫理観を作っていったのか、こうした内容は福音書に何も書かれていません。当然、福音書の記者たちも、イエスの少年時代のことはわからないですし、弟子たちと過ごす間も、イエスは自分の家のことをあまり語らなかったのかも知れません。ですが、その語られない家族との生活の中で、間違いなく人間としてのイエスは育ち、現代にまで伝わる教え、言葉を残す人物となったわけです。そこにはどういう家族、両親の影響あったのか、生活の環境がどうだったのか、このような隠れている福音書の行間というものを、あくまで想像の域は超えないかも知れませんが、想像してみる、そしてその家族の姿に、今のキリスト者の家庭はどうならっていけるだろうか、そうした部分を考えてみるのも、今日の聖家族の日には良い黙想の材料となるかもしれません。

そしてまた、今日は1年間で最後の日曜日、主日であります。今年1年の日曜日の集いに感謝し、これからも持ち続けることが出来るように、全てのキリスト者と心を合わせて祈りましょう。