メッセージ - A年 待降節

きょうの福音に記された出来事に基づいて、二点のことに注目したいです。

一点目は、弟子たちを派遣する洗礼者ヨハネ。

牢獄から二人の弟子をイエスのところに遣わしたことにおいて、三つの意味が込められています。まず、一つ目は、「確認と安心」のためです。ヨハネは投獄され死が間近に迫る中、自分の弟子たちを通してイエスに直接問いかけることで、自らの信仰を再確認し、安心感を得たかったと考えられます。次に、二つ目は、「弟子たちへの導き」のためです。イエスの奇跡や教えを弟子たち自身の目で見聞きさせるため、彼らが将来イエスを信じ、従うように仕向けたかったと考えられます。最後に、三つ目は、「公的な証言の要求」のためです。イエスに公の場でメシアとしての宣言を促し、人々に自身の役割(メシアの先駆者)を理解してもらおうとした可能性もあります。

二点目は、イエスの反応と命令。

イエスはヨハネの弟子の質問に対して、直接的な「はい」とは答えず、代わりに、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、重い皮膚病を患っている人が清くなり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死んだ人が生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされている。わたしにつまずかない者は幸いである」と命じました。このイエスの語られた「見聞きしたことを伝えなさい」という言葉には二つの意味があります。まず、一つ目は、イエスのこの命令は、預言者たちが預言したことと洗礼者ヨハネが宣言していることはすべて、事実であり、イエスの中に実現されたことを意味します。次に、二つ目は、伝聞や不確かな情報ではなく、個人の実体験や確実な根拠に基づくことの重要性を強調していると考えられます。

最後に、洗礼者ヨハネとイエスから学ぶべき重要な価値観が二つあります。第一に、洗礼者ヨハネから学ぶべきことは、神から与えられた使命を徹底的かつ責任を持って遂行することです。どんな困難に直面しても、信仰の証しを妨げてはなりません。第二に、イエスのメッセージから学ぶべきことは、ヨハネの二人の弟子に命じたことと同じように、現代の信仰や宣教において、私たち自身は知識力や教義だけでなく、神との深い関係と信仰の生きた経験は絶対的な基準(土台)だということです。

 
メッセージ - A年 待降節

洗礼者ヨハネが天の国の到来が近いことを宣べ伝え、人々に悔い改めを呼びかける姿は、「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)とたとえられています。実際にユダヤの荒れ野で活動していたヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、イナゴとの蜜を食べ物としていた、という独特の風貌でしたが、更に厳しい言葉を用いて人々を非難し、その罪をとがめます。神の怒りが差し迫っており、木の根元には斧が置かれていて、良い実を結ばないなら、すぐに切り倒されて火に投げ込まれる、という厳しさです。まさに人が生きていくことができない、過酷な自然環境である「荒れ野」のあり様です。

しかし、そんな荒れ野でこそ、「聖霊と火」で洗礼を授ける、洗礼者ヨハネよりも優れた方の到来が告げられました。荒れ野でこそ、救いの訪れ、神の国の訪れが宣べ伝えられました。私たちは、だれしも自分の「荒れ野」で苦しい状況を生きることがあります。けれども、そんな荒れ野の中にこそイエスが生まれた、人々の苦しみや痛みによりそい、いやしを与えるために生まれた、そういうことを思い起こさせてくれます。

人々が幸せを感じ、楽しみを分かち合うクリスマスの時期だからこそ、荒れ野のメッセージを大切にしたいものです。

 
メッセージ - A年 待降節

今日の福音朗読(マタイ24:37-44)、そして第二朗読のパウロの手紙(ローマ13:11-14a)において、中心となっているメッセージは、「目を覚ましていなさい」「眠りから覚めなさい」ということです。それは肉体的な眠りや目覚めのことではなくて、精神的あるいは霊的な目覚めのことであり、私たちが神の国の到来に敏感であるように、との勧めになっています。

神の国はもちろん見えるものではなく、またどこでどのように実現するかわからない、人の子は思いがけないときに来る(マタイ24:44)と言われています。ですから、見えないものへの感覚を研ぎ澄ますことが重要です。第一朗読のイザヤ(2:1-5)は、国が戦争の危機に直面するという厳しい状況にあって、そこには見えるはずがない、武器が必要なくなる平和のビジョンへの希望を持ちました。私たちは見えていない希望に強められ、見えてないが恵みを受けていると感じて感謝し、見えない愛を形にして自分の使命を果たします。

福音朗読で言及されているノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」という当たり前の日常的なことだけにとらわれて、洪水が襲ってくるのに気づかなかったように、私たちも目の前の見えていることだけにとらわれると、大切なものを見逃してしまうかもしれません。

馬小屋の飼い葉桶に寝かされている幼子イエスに目を向けるとき、キリスト者でなければ、そこにあどけない、無垢だが無力な赤ん坊を見るだけです。しかし、イエス・キリストを知っている者は、その赤ん坊に、貧しい人の友となり、病の人に手を差し伸べていやし、十字架の死に至るまでその行き方を貫いた姿を見出します。

 
メッセージ - C年 年間

カトリック教会の典礼暦年間の最後の主日は、「王であるキリスト」を祝います。福音朗読の箇所(ルカ23:35-43)は、イエスが十字架につけられた場面です。そこでは、十字架を囲む兵士たちがイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼んでいますけれども、それはもちろん皮肉です。十字架の上で何もできない、自分を救うこともできない、と言って侮辱したわけです。また、一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人も同じように「お前がメシアなら、自分自身と我々を救ってみろ」とののしりました。彼らにとっての「王」とは、第一朗読(サムエル下5:1-3)に描かれているダビデのように、この世界で強い武力を持ち、戦争の時に人々の前に立って敵と戦ってくれる人物のこと、当時の状況なら、ローマの支配から独立を勝ち取ってくれる民族の救世主でした。それに対して、十字架につけられていたもう一人の犯罪人は、「あなたの御国においでになるときには」、つまり「あなたが王としてご自分の国に入るときには、わたしのことを思い出して下さい」と言いました。

両者ともイエスのことを「王」だと言いながら、王がどういう者かということについては、別々の考えを抱いていました。兵士たちは、力強く戦う王・敵を力で滅ぼす王のイメージを持ち、イエスのことを皮肉で「王」と呼びながら、十字架から降りてくる力がない、弱々しくて自分自身も他の人も救えない、と侮辱しました。逆に一人の犯罪人は、イエスは何も悪いことをしていないのに、その必要もないのに、すべての人の救いのために、自分から十字架に上がり、命を献げようとしている。そこに王としての姿を見出しました。

私たちにとっての王は、戦いの中で敵を攻撃して滅ぼす王でしょうか。それとも、人々を愛し、そのためには身をささげるほどの苦しみを受け入れて、人々を救う王でしょうか。私たちにとって、十字架の上のイエスは、弱い、力のない、惨めな人でしょうか。それとも私たちのために命をかけるほど、強い愛を持った方でしょうか。

 
メッセージ - C年 年間

皆さん、終末について聞くと、皆さんは何を思い浮かべますか?試練や混乱、苦難が訪れたとき、あなたはどのように対応しますか?恐れをもってですか、それとも神の計画を信じて耐え忍ぶことによってですか?

私たちの福音書は「終わりの時」について語っています。それは、神殿の破壊、そしてイエスの再臨に先立って起こる戦争、自然災害、迫害といった将来の試練についてです。また、恐れを抱かないように、そして「私が救世主だ、時が来た」と言う者たちに惑わされないようにと警告しています。イエスは言われました。「彼らに従ってはいけません。恐れてはいけません。これらのことは必ず起こるからです。しかし、それはすぐに終わりではありません。」

これは何を意味するのでしょうか?イエスがこのことを告げた目的は、人々を恐れさせることではなく、信者たちが信仰にしっかりと立ち続けるよう励ますことでした。典礼暦の終わりが近づくにつれ、福音朗読は、常に目を覚まし、警戒を怠らず、備えを怠らないようにという呼びかけを強めています。主が再び来られるという約束の成就に備えましょう。困難な時が訪れるとしても、私たちは常に備えていなければなりません。この福音から私たちはどのような教訓を学ぶことができるでしょうか?

一つ目の教訓は、困難に備えることです。イエスはこれから起こる試練や苦難について警告しています。苦難や困難は人生の一部であることを認識しましょう。それらに立ち向かう唯一の方法は、忍耐、決意、そして正しい態度で向き合うことです。困難こそが人生を面白くするものであり、それを乗り越えることが人生に意味を与えるのです。

二つ目の教訓は、迫害に耐えることです。福音は、信じる者たちが信仰ゆえに迫害、逮捕、憎悪に直面することを前もって警告しています。イエスは、彼らが弁護のために神の知恵を与えられることを約束し、耐え忍ぶ者たちを守ると保証しています。私たちは迫害や反対を恐れるのではなく、それらを成長の機会と捉えることができます。そうすることで、信仰は研ぎ澄まされ、人格が磨かれ、より強い精神力が養われるでしょう。

三つ目の教訓は、神の計画を信頼することです。イエスは、試練の時にも常に私たちと共にいてくださると、弟子たちに約束しています。神は、私たちが直面するあらゆる苦しみや困難よりもはるかに偉大です。神は私たちにとって何が最善かを知っておられます。ただ信じ、信頼し、すべてを神に委ねましょう。未来への不安に囚われることなく、今を生きましょう。神の計画は、常に私たちの計画よりも偉大で、素晴らしく、美しいものです。

祈り:主イエスよ、困難な時が来ても、恐れおののかないように助けてください。常に落ち着いてあなたを信頼できるようにしてください。アーメン。