メッセージ - A年 年間

教会の典礼暦によると、今日は「王であるキリスト」の祭日です。「王であるキリスト」とは地上の王のようではなく、天と地、すべての万物を愛の内に支配する王です。キリストは人を支配するために世に下ってきたのではなく、人を救うために世に来られた王なのです。さらに、一般の王様とは大きく違い、「仕えられるための王ではなく、仕えるための王である」というのがキリストによる王の立場です。それだけではなく、私たちにとって、主イエスは王であり、大預言者であり、大祭司であり、真の救い主であることを信じています。今日は年間の典礼の最後に当たって、教会が王であるキリストを祝うということは、とても特別な意味があると思います。

今日のマタイ福音書では、イエス様が羊と山羊の例えを用いて、終末の裁きについて語られています。王であるキリストは栄光の座に着き、正しい人と不正な人を分けられて、裁きを行います。正しい人は羊のように右へ、不正な人は山羊のように左へ置かれます。右の人に対し、王様が救いを与え、左の人には、罰を与えます。では、その裁きの基準とは何でしょうか?

今日の福音書にイエス様が仰る、裁きの標準は「神と隣人への愛」という一点に尽きます。その愛は口先だけではなく、行動による愛です。なぜなら、愛は生きるものだからです。主イエスは、「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。この言葉では何よりも愛の行為が重んじられているのです。王であるキリストを信じる私たちはその愛の掟を守り、実行することが大切な使命なのです。

皆さん、私たちの生活する周りを見渡したら、どうでしょうか?貧しい人、病気の人、身体の不自由な人、ホームレスの方がおられます。彼らは私たちの兄弟姉妹なのです。しかも、この小さき人々の中にはイエス様がおられます。その方々に対して、「かわいそうに」とか「助けたいな」という気持ちだけで終わりのではなく、このような兄弟姉妹に、何かできることをしなければならないと思います。また、単に自分と比べてだけではなく、すべての人々に対しても同様です。好き嫌い、得か損かではありません。助け、そして愛を必要としている方々へ行動することこそが、真の愛です。

どうか、今日の主イエスが語った言葉を心に留め、お互いに助け合い、励まし合いながら前に進んで行きましょう。そして、世の終わりに関して、「今の世界がどう終わるか」ということを心配するよりも、まず、今生きることは偉大な恵みであることを実感し、一日一日を、感謝の内に生きましょう。そして、キリストが約束してくださった永遠の国に相応しく入ることができますように。

 
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日本のカトリック教会は、毎年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」としています。今年は11月19日~26日で、テーマは、教皇フランシスコのお告げの祈り(2023年2月12日)で引用された「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。

この聖書週間に合わせて、私たちも小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音でイエスはタラントンのたとえを話されています。たとえの中のタラントンは、神から人に与えられた賜物を指し、たとえ話では5タラントン、2タラントン、1タラントンを預かった者が登場します。そして1タラントンを土に隠した僕に対し、主人は「怠け者の悪い僕だ」としかります。一見、不公平で理不尽に見えますが、ここで注意しなければならないのは、タラントン自体大きな額であること、そしてタラントンが神から与えられたものであることです。私たちが与えられた才能、能力は与えられたもので、分かち合うべきものであることを忘れてはなりません。一方で私たち自身、分かち合うような才能を持ち合わせていないと感じることがあります。また劣等感から、自分の持っているものを分かち合うことができないことがあります。

福音の中でイエスは、2タラントンをもうけたものに対しても「忠実でよい僕だ」というように褒められています。神にとって、私たちが感じている才能や能力の差は、些末なものであること、そして神にとって私たちがどれほどのものを持っているかは問題ではなく、自分のもっている財産、能力、才能、時間を神のため、そして周りの人々のために分かち合おうとする信仰を、神はいつも受け入れてくださるのだということを忘れてはならないのだと思います。

私たちが持っているものを、神に、そして周りの人々に分かち合うことができるよう祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - A年 年間

花婿が花嫁を迎えに来るのを待っている10人の乙女の内に、5人の愚かで、5人は賢い乙女たちでしたが、10人とも花嫁の家で一緒に待っていました。10人ともみんなそれぞれ「ともし火」を持っています。婚礼に行く乙女たちなので、おそらく皆、おしゃれして待っていることでしょう。しかし、花婿が来るのが遅れて、待ちくたびれた10人は全員「眠り込んでしまいました」。この時点までは、どちらかが賢いものか、どちらかが愚かなものかは誰も知らない、区別することができません。

真夜中になって、花婿の到着を知らせる叫び声を聞いて、それぞれ慌ててともし火を整えます。その時に、初めて誰が愚かなのか、誰が賢い者なのかが分かります。愚かな者と賢い者の差がその時にはっきりと分かります。愚かさと賢さの分かれ目は「油」を用意したかどうかということにあります。愚かな5人の乙女が、気付いたときにはもう遅かったのです。普通ならば、婚宴に少し送れるくらいなら、入ることが許されるのですが、イエスがたとえ話の中に語られる婚礼は特別なものです。油を用意しなかったために遅れてきた乙女たちに対して、「はっきり言っておく、私はお前たちを知らない」と厳しく断りました。最終的に、5人は楽しみにしていた婚礼に参加することができませんでした。

第1朗読の知恵の書の言葉で言い換えれば、賢い5人の乙女たちは知恵のある人達です。普通の意味で、「知恵」という時に「知識、認識」と同時に、「それを正しく用いる、行動する」という観念的な側面と実践的な側面があります。それが普通に考えられる知恵ですが、聖書の中(特に今日の第一朗読の中)の「知恵」は全く違う特徴があります。それは、知恵は知識とその実践によって獲得されるものではなく、一人の人格です。「獲得される」ものではなく、「出会う」ものです。そして、知恵は「神」ご自身です。「知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人達にやさしく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う」。知恵は出会うものです。神ご自身です。

そうであれば、賢い5人の乙女、知恵ある乙女たちは、「知恵」を探し、「知恵」に出会った人たちです。賢い乙女たちにように、花婿と花嫁と共に婚礼に参加するために、先ず用意しなければならない、やっておかなければならないのは、日々「知恵」そのものを探し、神ご自身と出会うことです。

 
メッセージ - A年 年間

イエスは律法学者やファリサイ派の人々について「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」と語っています。そこには「言うだけで実行しない」という、彼らの言葉と行いに乖離があることへの批判がありますが、それは第二朗読でパウロがテサロニケの教会に向けて語ったことに通じます。テサロニケの人々は、パウロたちが語る言葉を聞いて「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と言われています。神の言葉を神の言葉として語るとき、それを語る者も聞く者も、神の前に謙虚になります。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、神の言葉を語りながら、それを自分の権威の裏付けのように用いました。まさに神の言葉を人の言葉のように、あるいは自分の言葉のように語り、先生と呼ばれ、仕えるよりも偉くなることを望み、へりくだらずに高ぶりました。第一朗読のマラキの預言でも、神とイスラエルの共同体の仲介者である祭司たちに、主の名に栄光を帰することが祝福につながる道であると言われています。

私たちが神の言葉を語るとき、そこにいるのは神でしょうか、それとも私たち自身でしょうか。私たちは神の言葉に仕えているでしょうか。人に仕えさせてはいないでしょうか。