メッセージ - B年 待降節

きょうの福音は洗礼者ヨハネの信仰や宣教について記されています。この福音に基づいて、ヨハネの優れたことを分かち合いたいと思います。

まず、自分よりも相手のオーラを広げるために働く

洗礼者ヨハネとイエスは、年齢的に半年ほどしか離れていません。たった六ヶ月だけの違いです。そう言った意味で、年齢的にほとんど一緒だと思います。しかし、ただ六ヶ月間の違いだけですが、宣教の立場から見ると、洗礼者ヨハネの方が先輩であり、先駆者であるということです。「たて社会」で言うならば、後輩であるイエスが、先輩である洗礼者ヨハネの元に働き、従わなければならないだろうという事です。

しかし、実は、そうではありませんでした。しかも、洗礼者ヨハネは、そう言うような気持ちは、一切持っていませんでした。逆に、自分よりも、自分の後輩であるイエスの事を自分の宣教の鏡としてくださいました。さらに、自分の元に付いている弟子たちを、ずっと、自分のところに引っ張って来るということではなく、逆に、自分の弟子たちを手放して、イエスのところに送られたのです。ここが、洗礼者聖ヨハネの最も美しいところだと思います。

当時、洗礼者ヨハネの宣教はとても幅広いで、大活躍でした。人々は洗礼者ヨハネのことについて、もしかして、メシアではないか、または、大預言者のエリヤがよみがえられたのではないかと思ったほど、洗礼者ヨハネは熱烈に受け入れられ、その存在を重く見られました。しかし、ヨハネは、決して自分が「その人だ」とは一切言われませんでした。むしろ、きょうの福音で描かれたように、ヨハネは「その方は私の後から来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません。」と謙遜に答えています。

私たちの多くが、自分のことばかり考え、自分の都合、自分の面子、面目、自分の地位や名誉などを気にしているのに対しているが、洗礼者ヨハネは、相手が広く知られるならば、自分が忘れ去られることになっても、それを喜ぶ、そうした友情を洗礼者ヨハネはイエスに対して表わしています。本当に、自分よりも相手のオーラをもっと広げるために必死で働く洗礼者ヨハネでした。

どうか、私たち自身も、洗礼者聖ヨハネの模範にならい、まず、他の存在を認め、ライバルとしてではなく、友として、また協力者やパートナーとして、受け入れることが大事です。そして、もう一つの大事なポイントは、洗礼者聖ヨハネが宣教の後継ぎであるイエスのために一所懸命働いたように、私たちも次の世代のために、良い足跡が残せるように。アーメン。

 
メッセージ - B年 待降節

今日から待降節に入り、教会の暦の上では新しい年に入りました。そんな今日の福音箇所は、この待降節という時期に私たちが思い起こすべきこと、再確認すべきこと、そうしたことを伝えている箇所であります。待降節の第一主日、というのは毎年同じテーマの福音が読まれます。それは今日の福音でも大事な言葉である「目を覚ましていなさい」というメッセージであります。これは毎年年間の終わりの最後の一週間に読まれる、世の終わりであるとか、解放の時が来るとか、そうしたいわゆる「終末」というものをテーマにした朗読箇所の言葉を、新しい年に引き継がせる形で、今日のこの待降節第一主日に繋げているわけです。

今日の福音の中で、私たちが心に留めるべきは、やはり「目を覚ましていなさい」というイエスの教えであります。目を覚まして何をするべきか、というと、いつ来るかわからない主人の帰りを、自分たちに割り当てられた仕事をしっかりと果すことですが、このことイエスは弟子たちに教えています。第二朗読のパウロの手紙にもあるように、全てのキリスト者は「主イエス・キリストの現れを待ち望んでいる」わけですから、その時がいつ来てもいいように、イエスに教えられたことをしっかりと守って備えていること、この大切さを今日の福音は伝えているわけです。このことは、「いつ来るかわからない」日に備える注意喚起であると共に、それはいつでも来る可能性がある、という希望を示しているものでもあります。

ただ、こうしたメッセージを私たちが待降節の始めに読むことには、もう一つ確認すべきだという意味があると思います。私たちが待つ「イエスが来られる日」というものは、これから準備していくクリスマスによって、一つの形として表現します。待降節は、その日に向けて心を整えていく時間でありますが、同時に私たちはイエスが来られる、ということを、一日だけのイベントのように捉えてはいけないのだ、ということを理解しなくてはならないと思います。毎週日曜日が主日、つまり主の日とされているように、主イエスは常に、今この瞬間にも共にいるんだ、ということ、このことにもっと私たちは日常から目を向けるべきであると、待降節そしてクリスマスという時間に思い起こす、そうした意味も今日の福音の「目を覚ましていなさい」というメッセージに込められているのではないかと思います。

イエスの誕生の話では「インマヌエル」、主は我らと共におられる、という言葉がありますが、その言葉通りの日々を私たちが生きることが出来るように、そしてまたいつでも「目を覚まして」イエスの教えに従った生活、行動を心掛けて行くことが出来るように、神の助けを願いながら、今日から始まる待降節をよりよく過ごすことが出来るよう祈りたいと思います。

 
メッセージ - A年 年間

教会の典礼暦によると、今日は「王であるキリスト」の祭日です。「王であるキリスト」とは地上の王のようではなく、天と地、すべての万物を愛の内に支配する王です。キリストは人を支配するために世に下ってきたのではなく、人を救うために世に来られた王なのです。さらに、一般の王様とは大きく違い、「仕えられるための王ではなく、仕えるための王である」というのがキリストによる王の立場です。それだけではなく、私たちにとって、主イエスは王であり、大預言者であり、大祭司であり、真の救い主であることを信じています。今日は年間の典礼の最後に当たって、教会が王であるキリストを祝うということは、とても特別な意味があると思います。

今日のマタイ福音書では、イエス様が羊と山羊の例えを用いて、終末の裁きについて語られています。王であるキリストは栄光の座に着き、正しい人と不正な人を分けられて、裁きを行います。正しい人は羊のように右へ、不正な人は山羊のように左へ置かれます。右の人に対し、王様が救いを与え、左の人には、罰を与えます。では、その裁きの基準とは何でしょうか?

今日の福音書にイエス様が仰る、裁きの標準は「神と隣人への愛」という一点に尽きます。その愛は口先だけではなく、行動による愛です。なぜなら、愛は生きるものだからです。主イエスは、「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。この言葉では何よりも愛の行為が重んじられているのです。王であるキリストを信じる私たちはその愛の掟を守り、実行することが大切な使命なのです。

皆さん、私たちの生活する周りを見渡したら、どうでしょうか?貧しい人、病気の人、身体の不自由な人、ホームレスの方がおられます。彼らは私たちの兄弟姉妹なのです。しかも、この小さき人々の中にはイエス様がおられます。その方々に対して、「かわいそうに」とか「助けたいな」という気持ちだけで終わりのではなく、このような兄弟姉妹に、何かできることをしなければならないと思います。また、単に自分と比べてだけではなく、すべての人々に対しても同様です。好き嫌い、得か損かではありません。助け、そして愛を必要としている方々へ行動することこそが、真の愛です。

どうか、今日の主イエスが語った言葉を心に留め、お互いに助け合い、励まし合いながら前に進んで行きましょう。そして、世の終わりに関して、「今の世界がどう終わるか」ということを心配するよりも、まず、今生きることは偉大な恵みであることを実感し、一日一日を、感謝の内に生きましょう。そして、キリストが約束してくださった永遠の国に相応しく入ることができますように。

 
テーマ - テーマ

日本のカトリック教会は、毎年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」としています。今年は11月19日~26日で、テーマは、教皇フランシスコのお告げの祈り(2023年2月12日)で引用された「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)となっています。カトリック中央協議会からお知らせが出されており(リンクはここ)、毎年発行されている小冊子『聖書に親しむ』のPDF版も同ページからダウンロードできます。

この聖書週間に合わせて、私たちも小冊子を作成しましたので、どうぞご覧下さい(ここをクリックすると開きます)

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音でイエスはタラントンのたとえを話されています。たとえの中のタラントンは、神から人に与えられた賜物を指し、たとえ話では5タラントン、2タラントン、1タラントンを預かった者が登場します。そして1タラントンを土に隠した僕に対し、主人は「怠け者の悪い僕だ」としかります。一見、不公平で理不尽に見えますが、ここで注意しなければならないのは、タラントン自体大きな額であること、そしてタラントンが神から与えられたものであることです。私たちが与えられた才能、能力は与えられたもので、分かち合うべきものであることを忘れてはなりません。一方で私たち自身、分かち合うような才能を持ち合わせていないと感じることがあります。また劣等感から、自分の持っているものを分かち合うことができないことがあります。

福音の中でイエスは、2タラントンをもうけたものに対しても「忠実でよい僕だ」というように褒められています。神にとって、私たちが感じている才能や能力の差は、些末なものであること、そして神にとって私たちがどれほどのものを持っているかは問題ではなく、自分のもっている財産、能力、才能、時間を神のため、そして周りの人々のために分かち合おうとする信仰を、神はいつも受け入れてくださるのだということを忘れてはならないのだと思います。

私たちが持っているものを、神に、そして周りの人々に分かち合うことができるよう祈り求めていきましょう。