メッセージ - C年 祭祝日

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」ルカ 2:10

神の子であるイエス・キリストは、すべての人々のための父である神の贈り物、しかも、私たちの暗闇を照らすことも、心の飢え渇きを満たすこともできる最高の賜物なのです。

ますます多くの人々は、心を開いて、いろいろな人々や出来事を通して語ってくださる神の言葉を聞き取ることができますように、そして、クリスマスイルミネーシンが与えるような表面的で、一時的な喜びにとどまるのではなく、神の光であるイエス・キリストが示す道を歩み、イエス・キリストを受け入れると共に、神ご自身の愛と命を受け入れ、永遠に続く喜びとを平和を味わうことが出来ますように祈りましょう。

 
メッセージ - A年 待降節

 

 

「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である。」(マタイ2,11)

 

本日の福音は、私たちに次のことを問い掛けていると思います。

1.信仰に関しては、救い主を待ち望む旧約時代(待降節)とキリストの時代(教会時代)の間に、基本的な違いがどこにあるのか。

2.教会の中で信仰を受け継いだ私たちの一人ひとりは、キリスト者の信仰を育んでいるか、それともまだ旧約時代の信仰に留まっているか。

 

洗礼者ヨハネは、イエス様が神の子キリストであることをよく知っていたはずです。彼こそは、キリストの到来を告げた最後で最大な預言者です。彼は、キリストを迎える準備として人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝え、小さな者から王ヘロデまで、各自の人生の道を正すように呼びかけました。彼こそは、洗礼を授ける時にイエス様の上に聖霊が留まったのを見、「これは私の愛する子」という声を天から聞こえて、キリストについて証しして紹介しました。しかし、王ヘロデに逮捕されて牢獄に入っていた時のヨハネは、イエス様のなさった業について聞いて、「来るべき方はあなたでしょうか。」と自分の弟子たちを送って尋ねさせます。何故、その時にヨハネの心の中で疑いが生じたのでしょうか。

教会も、度々、牢の生活を送った洗礼者ヨハネ見たいな試練に遭遇し、また罪深いこの世の価値観によって信仰が試されます。すなわち、教会は回心の業を行ったり、洗礼を授けて多くの人は神の子どもとなり、キリストの言葉と行いを教えたりして、その上、秘跡のうちにキリストに出会わせ、御ミサの恵みによって主の晩餐に与り、死に至るまでキリストに愛されたことと永遠の命の糧であるキリストの体を私たちに与えます。それにもかかわらず、私たちの間から信仰を離れる人が大勢います。ある信者は、キリストの教えに従って生きることなく、世俗的な価値感、罪のためのつまずきや、この地上の楽しみを優先にして祈りや信者としての務めを守らずにいます。他の信者は神の罰を受けないために、祈り、御ミサや他の秘跡に与ったりするという教会の決まりを守りますが、日常生活において彼らの心は神から遠く離れているケースが多いのです。このような教会の現実は、使徒ヨハネが生きた旧約時代の信仰には限界があることを示します。だから、教会の典礼は私たちに旧約時代を思い起こさせる待降節を毎年与えます。それは、私たちが主の御降誕の神秘に与ることによって教会が持っている信仰に入るようになるためです。

ヨハネが牢で監禁され、現実上、福音宣教していたキリストと共に居ることができなかったために、この時点で彼の信仰は未完成でした。(ヨハネの信仰は後の殉教によって完成されたことでしょう。)イエス・キリストは、洗礼者ヨハネについて、「預言者以上の者」、「女から生まれた偉大な者」であると証言しますが、神から生まれていないから、天の国では最も小さな者でも、彼よりは偉大であると仰せられます。ヨハネは、人間の力によって信仰を育む者の手本です。しかし、信仰は神の恵みです。教会の信仰は、御降誕の神秘によって、人間が罪から解放され、神の子として霊によって新たに生まれるために、神の子が人間としてお生まれになったというものです。福音にあるように、人となられた神の子は御自分について預言されたことを成し遂げていると、言葉に置いても、行いに置いて示しました。また、キリストの御受難と復活によって成し遂げられた救いは、洗礼を初め、秘跡、特別の意味で御ミサや他の典礼を通して、恵みとして教会の中で私たちに与えられました。

大事なことは、この恵みに応えて信仰生活を送ることです。キリストを生きる本物のキリスト者になるためには、私たちに次のような信仰の変化(成長)が必要とされます。

1.   自分の罪を悔いて神様にお詫びする人から、罪を認めて神様に立ち帰り、キリストが十字架上で成し遂げられた罪の赦しに与る人への変化。

2.   神の掟、教会の決まりや典礼的な務めなど、神の罰を恐れて果たす人から、キリストの愛に愛をもって応え、祈りと秘跡の内に神との一致を心から望む人への変化。

3.   祈りや宗教的な儀式によって神様が人間の望みを果たしてくださると思う人から、自分の人生をすべて神様に委ね、生涯キリストを自分の心に留め、神の御旨を果たしてくださるキリストの業に参与する人への変化。

このように自分の信仰を成長させた者は、キリストが本物の救い主であるかどうかを確認する必要はありません。キリストが言われた通りに、その中の最も小さな者でも、天の国では偉大な者になることでしょう

 
典礼暦の各季節における主日の聖書朗読 - 典礼暦の各季節における主日の聖書朗読

1.導入

「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」(39)に書いてある通りに「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」ということです。それに従って、待降節は二つの別の期間から成り立っています。待降節第一主日から12月16日まで続く待降節の第一の部分は、世の終わりに起こるイエス・キリストの再臨のための準備期間です。「主・キリストをすべての預言者は前もって語り、おとめマリアは慈しみをこめて養い育て、洗礼者ヨハネは、その到来を告げ知らせました。」(待降節の第2の叙唱)そのために、待降節の聖書朗読は、イザヤと他の旧約時代の預言者、それから、洗礼者ヨハネと聖母マリアの姿を現しています。私たちは、この偉大な人たちを通して語られた神の言葉や彼らを通して神がなさったわざを宣べ伝える言葉を聞くことによって、イエス・キリストにおいて神の約束が成就され、この約束に基づくイスラエル人の希望がかなえられたことを思い起こしながら、「栄光を帯びて再び来られるとき、今私たちが信頼してひたすら待ち望んでいることは、すべてかなえられます。」(待降節の第1の叙唱)という私たちの希望を再確認し、それを強めるわけです。

12月17日から始まる待降節の第2の部分は、イエス・キリストの誕生の記念を祝うための直接の準備期間となっています。そのために、毎日のミサの中で、イエスの誕生の直前に起こった出来事を描く福音の言葉が朗読されています。

 

2.待降節第1主日

典礼暦の最後の主日となっている年間第32主日と年間第33主日の聖書朗読は、常に近づく世の終わりのことを思い起こしながら、絶えず目を覚ましていて、イエスを迎える準備をするように呼びかけています。待降節に入るとイエスの再臨のテーマがそのまま続けられますので、典礼暦は自然に新しい年に入るわけです。

第一朗読は、イスラエル人の歴史に見られる人間の罪と不誠実、またその結果について、と同時に、全人類のための創造のわざの完成である神の平和の計画と救いの約束について語っています。

第2の朗読として、イエス・キリストの来臨と共に神の救いの完成が近づいているので、キリスト者がイエスの再臨を大きな希望を持って心から待ち望んでいることについてパウロの言葉が読まれます。

福音の言葉は、いつでも起こり得るイエスの再臨の時に、イエスを迎えることができるように、イエスに見倣って生き、イエスから与えられた使命を果たすことによって、心を準備するように呼びかけています。

 

 

3.待降節第2主日

待降節第2主日の第一の朗読となっている、旧約聖書の預言者の言葉は、神に希望をかけなくなって、日常生活の小さな楽しみにおいて満足と人生の意義を追求するようになったイスラエル人に向かって、救い主の到来について語りながら、主のもとに戻るように、再び希望を持って救い主のために道を整えるように呼びかけています。

第二朗読において、聖パウロと聖ペトロの言葉を通して教会は、キリストがすべての人を救われることと、キリスト者が新しい天と新しい地を待ち望んでいることを思い起こし、キリストの愛に愛を持って応えることによって、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように」招きます。

福音書の朗読は、旧約時代の預言者たちと同じように、悔い改めて、自分の行いを正すことによって、来られる救い主のために道を準備するように呼びかける洗礼者ヨハネの姿を表します。

 

4.待降節第3主日

待降節第3主日から始まる週の一つの日に、または、この日曜日に12月17日が当たりますので、待降節第3主日は、主のご降誕のための直接の準備の期間の始まりとなっています。それを強調するために、典礼全体と同じように聖書朗読の中心的なテーマというのは、喜びです。

第一の朗読は、イザヤ(A年とB年)とゼファニヤ(C年)がメシアの時代を描いきながら、神の救いの働きがもたらす喜びについて語ります。

第2朗読として、キリストにかけた希望が揺れたキリスト者のために書かれたヤコブ(A年)とペトロ(B年)の励ましの言葉が読まれます。また、牢獄の中で自分の終わりを迎えようとしているにもかかわらず、大きな喜びに満たされたパウロの姿が現されます(C年)。

A年の福音は、イエスを疑っている洗礼者ヨハネとご自分の行いによってイザヤが語った予言を成就するイエスの姿を現しています。B年とC年の福音は、洗礼者ヨハネの役割、つまり、メシアを迎えるために国民に準備させる使命と、もうすでに生まれていたメシアを紹介する使命を説明します。

 

5.待降節第4主日

待降節第4主日の聖書の朗読は、イエスの誕生前に起こった出来事を伝えています。

第一の朗読において、メシアがおとめから生まれることを予言するイザヤの言葉(A年)とメシアがベツレヘムで生まれることを予言するミカの言葉、また、メシアの王国は、とこしえに続き、神はご自分の民と共に永遠におられることを予言したナタンの言葉が読まれます。

第二朗読の言葉は、イエス・キリストにおいてこの予言が成就されたこと、罪のあがないと救いのわざが成し遂げられ、人類に関する神の「秘められた計画」が実現されたことを宣言します。

A年とB年の福音は、ヨセフとマリアが受けた「お告げ」の場面を現し、天使がマリアから生まれる子供に、その身分と使命を表す名、つまりイエス(神は救われる)という名を付けるように命令します。そして、聖霊によって宿ったイエスは、神の子であり、インマヌエル(神は我々と共におられる)であるゆえに、イエスを通して神ご自身が私たちの間に入ってくださったことも知らされるのです。C年の福音は、「訪問」、つまり、聖霊の働きによってエリザベトは、マリアを主の母として認める場面を現します。

 
メッセージ - A年 待降節

テーマ:新エルサレムの住民

第一朗読:           イザヤ 2,1-5

第二朗読:           ローマ 13,11-14a

福音朗読:           マタイ 24,37-44

ナザレのイエスの行い、すなわちイエスの受難と復活によって、すべての旧約聖書の約束が実現された(ルカ24,44)。したがって、イエス・キリストを信じる人々は、救いが近づいてきた時期に生きているのである(ロマ13,11)。まだ救い主を待っている期間に存在する人々ではなく、救い主が現れた時、すなわち神の国や新エルサレムの時期になった時にキリスト者として生活しているのである。だから、これまでの生活の仕方、すなわちさまざまな良くない部分が多い生活(ロマ13,13-14)を捨て、神の御旨に従う信者として良い行いをするはずである(ロマ13,12)。キリスト者になった人々はユダヤ人だけではない。全世界の様々な国と国民もキリスト教の道を選んだ。現代のキリスト教の状況を見れば、すべての大陸に、そして多く国にキリスト者がいることがわかる。たしかに預言者イザヤの言葉が真実となった(イザ2,2-3)。様々な国から多くの民が、信仰する神に礼拝するため、エルサレムに集まった。エルサレムというのはこの世のエルサレムではなく、新エルサレム、または天のエルサレムと福音者ヨハネの黙示録で呼ばれる天の国の都である。この新エルサレムは他の町より高く立ちすべての人間の旅の目的になる(イザ2,2)。それは終わりの日に行うことである。今、この日を待っているときに、良いイエスの信者になるべく、自分の弱さと戦うのが私達の義務である(ロマ13,12)。

 
主日の朗読聖書 - C年 祭祝日

ルカ23・35-43

35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。