主日の朗読聖書 - C年 年間

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」ルカ 17:5-6

自分たちの信仰が小さすぎると思った使徒たちは、イエスにそれを増すように頼みました。その依頼に応えてイエスが言われたのは、彼らの信仰の本当の問題というのは、その大きさではなく、その質、つまりそのあり方であるということでした。

その12人は、自分たちの家とか、仕事とか、つまり今までの生き方を置いてイエスの呼びかけに応えて従ったほど強い信仰を持っていました。けれども、彼らが信じたのは、いつか必ず王になるイエスに従えば、その権力や富や名誉にあずかるということでした。彼らにとってイエスを信じて、イエスに従うというのは、自分たちの野心や欲望を満たすための手段であったわけです。

正しい信仰のあり方を説明するために、イエスは謙遜な僕についてたとえを語りました。真の信仰を持っている弟子は、このたとえの僕が主に仕えたように、キリストに仕えます。それは、キリストが私たちの奉仕を必要としているからとか、私たちを奴隷にしたいからとかではありません。キリストに仕えることによって人は、自分の能力や時間だけではなく、自分自身をキリストに奉献するのです。

実は、キリストにとって私たちは僕ではなく、友なのです(ヨハ15,15)。そして、イエスは私たちの奉仕を受けるだけではなく、自ら私たちに仕えてくださる(ルカ12:37)。それは、御自分の命を与えてくださったほど献身的な奉仕なのです。

そのような相互の奉仕の目的というのは、より楽な生活のような利益ではなく、永遠につづく一致なのです。私たちはキリストの奉献を受け入れ、自分自身をキリストに完全に捧げたら、イエスと一つになるのです。そしてイエスと一致することによって、父である神の命にあずかり、神の愛に生きるようになるのです。それこそ、真の信仰の最終的な目的であるわけです。

 

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ16・19-31

〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによっ て宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハ ムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしは この炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来るこ ともできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦 しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を 傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろ う。』」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 正を行う

第一朗読:アモス6,1.4-7

あなたがたは、 わざわいの日を押しのけている、と思っているが、 暴虐の時代を近づけている。 (Amo 6:3 JAS)

第二朗読:一テモテ6,11-16

しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。 (1Ti 6:11 JAS)

福音朗読:ルカ16,19-31

『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 (Luk 16:25 JAS)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:アモス6,1.4-7

預言者アモスの厳しい言葉は、ユダ王国とイスラエル王国の王たちと支配者たちに向けられている(アモス6,1)。彼らは国民のために働かず、その代わり自分たちが楽な生活をして、イスラエル王国の社会的な義を守ることなく、不正な支配をする。アモスによれば、このやり方がイスラエル王国を倒れさせる原因になる(アモス6,6)。そして、アモスの預言は紀元前721年に実現された。

第二朗読:一テモテ6,11-16

第一テモテの手紙の著者は手紙の最後で自分の弟子(テモテ)を指導する。キリスト者の道を歩む者として選ばれたテモテは、最後までこの道を正しく歩まなければならない(一テモテ6、11-12)。彼は人々の前でイエスのように証をしなければならない(一テモ6,13)。正しいキリスト者としてイエスが再び来られる日を待たなければならない(一テモテ6,14)。最後の部分は(一テモテ6,15-16)終末論的な意味がある。

福音朗読:ルカ16,19-31

このたとえの言葉は様々に解説することができると思われる。たとえの主題はお金を持つ人々とお金を持ってない人々の関係ということである。この世でお金を持つ人々が自分の事だけ考えるのは、間違った行いである。力やお金、支配などを持つ人々の義務は、弱い人や貧しい人、不幸な人々などに必要な助けをしなければならない。

 
メッセージ - C年 年間

 

「やがて、この貧しい人は死んで、

天使たちによって宴会にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」(ルカ16,22

 

本日の福音の中でキリストの物語には、二人の人物が途上します。それは金持ちとラザロです。彼らは距離的にとても近い存在で、同じ敷地に生活しながらも、仲良くすることも喧嘩することもなく、互いの交わりがありませんでした。二人は全く違う世界に属していました。このような現実は、キリストの物語の中だけで起こるものではありません。現代社会の中でも、同じ建物に住む人々も互いの名前も知らず、歩く道に横たわるホームレスの人達が無名で別世界の者として見做され、同じ所で食べたり飲んだりしたとしても、各々は互いの接点もなく、全く違う世界に属する状態がマレではありません。

福音の金持ちの生活は、世俗的な価値観において理想的なものです。すなわち、彼は人に迷惑しないで、貧しいラザロをいじめることなどの悪いことをしないし、楽な方法でお金を手に入れて高価な服を身に着け、友達と楽しく遊んだり、美味しいものを食べたりして、豊かな生活と富によって「有名」な人になりたいと思ったわけです。現代社会の中にもそういう生活を憧れている人がとても多いのです。ところで、家も、富も、着物も、食事も、健康も、友達もいないラザロみたいな人は、惨めな者であると思われて無視され、「無名」な人と見做されていることもたくさんあります。

しかし、キリストの場合、この現実は丁度その反対の意味を持っています。キリストは、福音の見捨てられた貧しい人に名を与えました。すなわち、彼は、名の有る「有名」な人になり、「ラザロ(神は助ける)」と呼ばれています。死んだ後、ラザロは天の国で偉大な父アブラハムのそばにある宴席に座るようになりました。彼は、地上で人間らしく立派に生きたいという望みがあっても、人からそれができないようにされました。しかし、神様はその望みを予想以上に適え、勲(いさお)によるのではなく、神の恵みによって天の国で救いの喜びを味わうようになったのです。

ところで、福音の金持ちは名前がありません。天の国において、彼こそは「無名」な人になりました。金持ちの人は、富と快楽の中で神の前に自分を失ったからです。彼は、地上で神の国と人々のためにたくさん出来たはずなのに、貪欲のために隣人に対して人道的な行いもなく、困っている人を助けるという最も基本的な人間の心を欠いていたから、キリストから名前を貰いませんでした。

社会において私たちは親の愛と望みを表現する名を頂き、それを戸籍謄本で記されています。そして、洗礼によって神の子供としての使命を現す教会が与える霊名があり、それは洗礼台帳に記されています。しかし、神様の御心の内に、私たちの一人ひとりの本性と使命を現し、自分自身だけを神様から呼ばれる唯一の「名」が記されていることでしょう。私たちは、この世の世俗的な価値観に流されて快楽などの罪と愛の無さのためにその「名」を失うことなく、むしろ、御心を行うことによって自己実現して、最期の時に、その「名」でキリストのそばに呼ばれることができるように祈りましょう。