メッセージ - A年 年間 |
テーマ:「何よりも神の国と神の義を求めなさい。」
私たちの一人ひとりは、自分の人生の中で何を求めているでしょうか。自己実現を求めているが、自分自身に命も与えることなく、心も理性も与えることはできません。神様の御旨がなければ、私たちの存在はまったくありません。それでも、私たちの人生の中で神様とその義は何番目になっているでしょうか。教会の現実を眺めていると、神の国と神の義を最優先にすることは、何と珍しいことでしょう。先には、仕事、次に勉強、その後にクラブ、趣味、楽しみがあり、主日に教会に来ても、遅れる人も多く、ある信者は、御ミサ最中に携帯電話やE-mailを応対したり、ビジネスをやったりすることもあります。御ミサの後に教会でイベント、行事や会議などが行われる場合、至聖なる秘跡の内におられるキリストが無視され、人間の考えた催しの方が大切になります。
主の祈りの中で、「御国が来ますように」と毎日に口にして祈る信者の多くは、心の中で神様が来ることを怖がっています。なぜなら、神無しに地上で幸せを掴もうとして自分の富と名誉を求めるからです。しかし、満たされることなく欲をやしなうのに、思い悩んで忙しくしています。このようして人間は、食べ物、衣服や住まいを得るために自分の体と命を犠牲にする自己矛盾に堕います。ここで、イエス様は、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と私たちに問い正しています。自分の寿命を僅かでも延ばすことができない私たちは、空の鳥にも野の百合にも無償に小さな命をおしみなく与えてくださる全能の神様を、どうして求めていないのでしょうか。私たちは、「自分の国」を作りたいという誘惑を持っているからです。
キリストは、掛け替えの者として私たちを十字架の死に至るまで愛してくださいます。私たちもキリストの愛に応えて自分の命よりもキリストを愛するならば、神様が私たちの無限の富として御自身を与えてくださり、私たちは神の愛と永遠の命に満たされることでしょう。
主日の朗読聖書 - A年 年間 |
マタイ5・38-48
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕38「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 39しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 40あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。41だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 42求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
43「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 44しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
メッセージ - A年 年間 |
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」マタ5:45
誰かが言ったことですが、人間は自分が信じている神のような人になっています。 言い換えれば、人は、どんな神を信じているかということが分かるために、この人が神について何を語っているかということではなく、どんな人になっているか、特に他人に対してどんな態度をとっているかということを見なければなりません。
イエス・キリストの生き方を見れば、イエスは、本当にご自分が語ったように、すべての人々を無条件に愛しておられる神、例外なくすべての人を支え、すべての人のために善だけを行われる神を信じていたということが分かります。
自分自身の生き方によって、どんな信仰を表していますか。自分が他の人に対してとる態度と同じ態度を、あなたに対して神がとってくださればいいと思いますか。
主日の朗読聖書 - A年 年間 |
マタイ5・17-37
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
《17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」》
20 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
21 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
《「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」》
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
《29 「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」
《「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」》
37 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
メッセージ - A年 年間 |
第一朗読:シラ15,15-20
第二朗読:一コリント2,6-10
福音朗読:マタイ5,17-37
シラ書は二世紀の初めにヘブライ語で書かれた書物であり、それから約三十年後にギリシア語に翻訳された。この書物の歴史的な背景には、セレウコス王朝がユダ地方を支配し始め、ユダヤ人がヘレニズム文化を受け入れるように強く活動した時期であったということが挙げられる。その時、ユダヤ教を止めてギリシアの文化と哲学(philosophy-知恵を愛する)を受け入れるユダヤ人が多くいた。シラは、「神を恐れる」という人間の態度が正しい知恵を学ぶための始めの段階だという教えを述べ伝える(ユダヤ教とユダヤ人の文化の基本である)ために、この書物を書いた。
第一朗読の言葉は、会を信じることについての基本的な教えを含む。神を信じるか神を信じないかは人間の選択である(15、16‐17)。人間に選択をさせるというやり方は神の知恵の印である(15,18)。神を信じるということを選んだ人々は神に守られた人である(15,19)。その人々は神の掟を守らなければならないし(15,15)、不信仰や罪深い生き方などは許されることではなかった(15、20)。
コリント市のキリスト者たちの一つの問題は、様々な家庭教会がなかなか統一されたコリント市の教会を造れなかったということである。様々な理由があるが、その中の一つに「知恵がある」と「知恵がない」という相反する考え方があった。第二朗読の言葉によれば、すべてのキリスト者は知恵があるが、その知恵はこの世の知恵ではなく(この世の知恵は人によって異なる)その知恵は神の知恵である(2,6-8)。ナザレのイエスは神の救いの業であるということを理解するためには、その知恵が必要である(2,8)。キリスト者が神の知恵を知っているというのは、正しい知恵が「神を恐れる」ことから始まるのではなく、[神を愛する]ことから始まるということである(2,9)。イエスキリストは神の知恵であるということが理解できるような聖霊の啓示が必要であった(2,10)。
福音の言葉はモーセの十戒に関係している。モーセの十戒はユダヤ教の律法の基本であり、信者にとって信仰を守るために最も安全な道である。ユダヤ人の苦しい歴史の中にあって、モーセの十戒は信仰と希望を守るため、一番役に立つことである。ナザレのイエスはユダヤ人として、モーセの十戒を廃止する意図は無かった(5,17)。イエスの教えや活動などの目的はユダヤ人がモーセの十戒を正しく理解できるようにすることであった。モーセの十戒の字義的な解釈が足りないと感じたイエスは、新しい解釈をした。この解釈のもとになっているものは、愛(アガペ)である。愛(アガペ)というのは神のために生き、隣人のために生きることである。愛(アガペ)の内にモーセの十戒を解釈することは、モーセの十戒を完成することである。