主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ18・9-14

9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿 に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たち のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分 の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでくださ い。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められ る。」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 慰めの泉

第一朗読:シラ35,15b-17.20-22a

主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる(シら35,17)

第二朗読:二テモテ4,6-8.16-18

しかし、 主は、 私とともに立ち、 私に力を与えてくださいました。 それは、 私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、 すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。(2Ti 4:17 JAS)

福音朗読:ルカ18,9-14

ところが、 取税人は遠く離れて立ち、 目を天に向けようともせず、 自分の胸をたたいて言った。 『 神さま。 こんな罪人の私をあわれんでください。』  (Luk 18:13 JAS)

 

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:シラ35,15b-17.20-22a

シラ記の著者によって迫害を受けた人や傷を負った正しい人、つまり神を信頼する人、の祈りは神に届く(35,16-17)。困難に生きている人は一人で苦しんでいるわけではない。神は彼を見て慰める(35,18)。悪いことをする人をたおすのは人間ではなく神である(35,20-21)。すべての悪に終わりがある。神はすべての人間を裁く(35,22)。良いことをする人は良いことが与えられる。悪いことをする人は悪いことが与えられる。良い心を持っている人は救われる。悪い人は罰を受ける。

第二朗読:二テモテ4,6-8.16-18

パウロは解放される可能性が無いということが分かった時 (4,6)、自身の人生を熟考する(4,7)。イエスの福音のために自分の人生を捧げたパウロは神から行いどおりの栄冠を受けるという強い自信がある(4,8)。人間の力のおかげではなく(4,16)神の恵みによって強められたパウロは自分の弁明が出来た(4,17)。神は自分の僕を誘惑から守って天国へ受け入れる(4,18)。この考え方は困難の時におけるパウロの力の源であった。

福音朗読:ルカ18,9-14

この譬えは自分が他の人よりもっと良い人であると思っている人に対して言われた言葉である。良い行いをする目的は自分の誇りのためではなく神の御旨を行うためであるはずである(18,11-12)。パリサイ人の間違いは自分が他の人よりもっと良い人物だと思うことであった。この人は自分の真実のこと(罪を犯す場合もある人であるということ)が理解できず、取税人、つまりユダヤ人の社会の中において最も罪深い人、よりは良い人だということで彼にとって十分であった。

 
メッセージ - C年 年間

 

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18,14

 

神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人は神様に祈りました。ファリサイ派の人は、祈りのプロフェショナルであり、神の恵みをたくさん頂いたことに気付き、自分が他の人よりも偉くて義人であり、定めた献金をささげ、断食を行い、美しい表現をもって神様に感謝の祈りをささげました。ところで、徴税人は自分の罪深さの故に神様に何も言えない状態の中で、神殿の後ろに立って、ただ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈っていたのです。イエス様は、神様が罪深い徴税人の祈りを聴き入れて憐れみ、義人にされましたが、正しい人と見做されたファリサイ派の人の祈りを聞き入れられなかったと言われました。

神様は私たちの祈りを聴き入れられているでしょうか?

おそらく、人によって程度が違いますが、私たちの祈りは、ファリサイ派の人と徴税人の両面があると思います。善行を行った場合、ファリサイ派のように自分の正しさをうぬぼれて他人を見下している時もあれば、徴税人のように謙遜さを保つ時もあります。また、罪を犯した場合、私たちにはファリサイ派のように自分の罪深さを認めない時もあれば、徴税人のように罪を告白して憐れみを乞い求める時もあります。

ファリサイ派の人は、神様に対して見せかけの感謝をささげます。彼は、掟と義務を良く知って規則通りに行い、祈る習慣があって美辞麗句をならべて神様に話しかけるのが上手でした。しかし。その心は違っていました。彼は、神様を誉めることではなく、うぬぼれて先に自分を誉め、隣人のために祈るのではなく、徴税人を見下して神様に悪口を言いました。しかし、徴税人は、祈りの中で、自慢することも、隣人の悪口も言うこともなく、ただ、神様の憐れみに自分を委ねたのです。換言すれば、ファリサイ派の祈りの中で神様と隣人に対する愛がなく、また、神様にその愛を願うこともありませんでした。徴税人は、愛が足りなくて罪を犯しましたが、神様の愛に自分を委ねて、神様が自分の内に愛の業を完成させることを望んでいました。

私たちのすべての祈りは、キリストが教えてくださった「主の祈り」の精神を持たなければなりません。神様を父と呼び、愛と親密の関係を作り上げ、謙遜に神の名を誉め、いつも御旨を求める必要があります。その後、自分のことよりも、皆が兄弟姉妹として、生かされるように恵みを願い、悪を退け、互いに赦しあって、神様の愛の内に生きることを願うべきと思われます。

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:出エジプト17,8-13

紀元前6世紀に最後に編集された出エジプト記には、モーセの生涯やモーセの活動などに関する物語が含まれている。一般的にいえば、出エジプト記の神学的な目的は、ユダヤ人の神、唯一の神に自分の国民を守ることである。第一朗読の言葉はイスラエルとアマレクの戦争に関係している。アマレクはエザウの子孫であり、イスラエルの永遠の敵である。この戦いにおけるイスラエルの勝利は兵士の力でではなく(17,11)神の業である(17,12)。神の業が現れるように祈る必要がある。

第二朗読:二テモテ3,14-4,2

テモテはエフエス教会の司教として信者たちに教えと教育を与えるのが義務であった(4,1-2)。それをするためにパウロから教えて貰った福音とキリスト教の伝承に従うことが必要であった(3,14-15)。

二テモテ3,16‐17をもとに聖書の霊感に関するついてキリスト教の教えが作られた。福音朗読:ルカ18,1-8

いつでも祈るべきであり、 失望してはならないということを教えるために、 イエスは群衆にたとえを話された。一回だけ言われた事はほとんど言われなかった事と同じであり、一回だけ頼まれた事はほとんど頼まれなかった事と同じである。両親と子供の関係を見たら理解ができるだろう。