典礼暦の各季節における主日の聖書朗読 - 典礼暦の各季節における主日の聖書朗読 |
1.導入
「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」(39)に書いてある通りに「待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」ということです。それに従って、待降節は二つの別の期間から成り立っています。待降節第一主日から12月16日まで続く待降節の第一の部分は、世の終わりに起こるイエス・キリストの再臨のための準備期間です。「主・キリストをすべての預言者は前もって語り、おとめマリアは慈しみをこめて養い育て、洗礼者ヨハネは、その到来を告げ知らせました。」(待降節の第2の叙唱)そのために、待降節の聖書朗読は、イザヤと他の旧約時代の預言者、それから、洗礼者ヨハネと聖母マリアの姿を現しています。私たちは、この偉大な人たちを通して語られた神の言葉や彼らを通して神がなさったわざを宣べ伝える言葉を聞くことによって、イエス・キリストにおいて神の約束が成就され、この約束に基づくイスラエル人の希望がかなえられたことを思い起こしながら、「栄光を帯びて再び来られるとき、今私たちが信頼してひたすら待ち望んでいることは、すべてかなえられます。」(待降節の第1の叙唱)という私たちの希望を再確認し、それを強めるわけです。
12月17日から始まる待降節の第2の部分は、イエス・キリストの誕生の記念を祝うための直接の準備期間となっています。そのために、毎日のミサの中で、イエスの誕生の直前に起こった出来事を描く福音の言葉が朗読されています。
2.待降節第1主日
典礼暦の最後の主日となっている年間第32主日と年間第33主日の聖書朗読は、常に近づく世の終わりのことを思い起こしながら、絶えず目を覚ましていて、イエスを迎える準備をするように呼びかけています。待降節に入るとイエスの再臨のテーマがそのまま続けられますので、典礼暦は自然に新しい年に入るわけです。
第一朗読は、イスラエル人の歴史に見られる人間の罪と不誠実、またその結果について、と同時に、全人類のための創造のわざの完成である神の平和の計画と救いの約束について語っています。
第2の朗読として、イエス・キリストの来臨と共に神の救いの完成が近づいているので、キリスト者がイエスの再臨を大きな希望を持って心から待ち望んでいることについてパウロの言葉が読まれます。
福音の言葉は、いつでも起こり得るイエスの再臨の時に、イエスを迎えることができるように、イエスに見倣って生き、イエスから与えられた使命を果たすことによって、心を準備するように呼びかけています。
3.待降節第2主日
待降節第2主日の第一の朗読となっている、旧約聖書の預言者の言葉は、神に希望をかけなくなって、日常生活の小さな楽しみにおいて満足と人生の意義を追求するようになったイスラエル人に向かって、救い主の到来について語りながら、主のもとに戻るように、再び希望を持って救い主のために道を整えるように呼びかけています。
第二朗読において、聖パウロと聖ペトロの言葉を通して教会は、キリストがすべての人を救われることと、キリスト者が新しい天と新しい地を待ち望んでいることを思い起こし、キリストの愛に愛を持って応えることによって、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように」招きます。
福音書の朗読は、旧約時代の預言者たちと同じように、悔い改めて、自分の行いを正すことによって、来られる救い主のために道を準備するように呼びかける洗礼者ヨハネの姿を表します。
4.待降節第3主日
待降節第3主日から始まる週の一つの日に、または、この日曜日に12月17日が当たりますので、待降節第3主日は、主のご降誕のための直接の準備の期間の始まりとなっています。それを強調するために、典礼全体と同じように聖書朗読の中心的なテーマというのは、喜びです。
第一の朗読は、イザヤ(A年とB年)とゼファニヤ(C年)がメシアの時代を描いきながら、神の救いの働きがもたらす喜びについて語ります。
第2朗読として、キリストにかけた希望が揺れたキリスト者のために書かれたヤコブ(A年)とペトロ(B年)の励ましの言葉が読まれます。また、牢獄の中で自分の終わりを迎えようとしているにもかかわらず、大きな喜びに満たされたパウロの姿が現されます(C年)。
A年の福音は、イエスを疑っている洗礼者ヨハネとご自分の行いによってイザヤが語った予言を成就するイエスの姿を現しています。B年とC年の福音は、洗礼者ヨハネの役割、つまり、メシアを迎えるために国民に準備させる使命と、もうすでに生まれていたメシアを紹介する使命を説明します。
5.待降節第4主日
待降節第4主日の聖書の朗読は、イエスの誕生前に起こった出来事を伝えています。
第一の朗読において、メシアがおとめから生まれることを予言するイザヤの言葉(A年)とメシアがベツレヘムで生まれることを予言するミカの言葉、また、メシアの王国は、とこしえに続き、神はご自分の民と共に永遠におられることを予言したナタンの言葉が読まれます。
第二朗読の言葉は、イエス・キリストにおいてこの予言が成就されたこと、罪のあがないと救いのわざが成し遂げられ、人類に関する神の「秘められた計画」が実現されたことを宣言します。
A年とB年の福音は、ヨセフとマリアが受けた「お告げ」の場面を現し、天使がマリアから生まれる子供に、その身分と使命を表す名、つまりイエス(神は救われる)という名を付けるように命令します。そして、聖霊によって宿ったイエスは、神の子であり、インマヌエル(神は我々と共におられる)であるゆえに、イエスを通して神ご自身が私たちの間に入ってくださったことも知らされるのです。C年の福音は、「訪問」、つまり、聖霊の働きによってエリザベトは、マリアを主の母として認める場面を現します。
メッセージ - A年 待降節 |
テーマ:新エルサレムの住民
第一朗読: イザヤ 2,1-5
第二朗読: ローマ 13,11-14a
福音朗読: マタイ 24,37-44
ナザレのイエスの行い、すなわちイエスの受難と復活によって、すべての旧約聖書の約束が実現された(ルカ24,44)。したがって、イエス・キリストを信じる人々は、救いが近づいてきた時期に生きているのである(ロマ13,11)。まだ救い主を待っている期間に存在する人々ではなく、救い主が現れた時、すなわち神の国や新エルサレムの時期になった時にキリスト者として生活しているのである。だから、これまでの生活の仕方、すなわちさまざまな良くない部分が多い生活(ロマ13,13-14)を捨て、神の御旨に従う信者として良い行いをするはずである(ロマ13,12)。キリスト者になった人々はユダヤ人だけではない。全世界の様々な国と国民もキリスト教の道を選んだ。現代のキリスト教の状況を見れば、すべての大陸に、そして多く国にキリスト者がいることがわかる。たしかに預言者イザヤの言葉が真実となった(イザ2,2-3)。様々な国から多くの民が、信仰する神に礼拝するため、エルサレムに集まった。エルサレムというのはこの世のエルサレムではなく、新エルサレム、または天のエルサレムと福音者ヨハネの黙示録で呼ばれる天の国の都である。この新エルサレムは他の町より高く立ちすべての人間の旅の目的になる(イザ2,2)。それは終わりの日に行うことである。今、この日を待っているときに、良いイエスの信者になるべく、自分の弱さと戦うのが私達の義務である(ロマ13,12)。
主日の朗読聖書 - C年 祭祝日 |
ルカ23・35-43
35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
主日の朗読聖書 - C年 祭祝日 |
テーマ : これは王
第一朗読:サムエルケ下5,1-3
あなたがわたしの民イスラエルを牧し、 あなたがイスラエルの君主となる (2Sa 5:2 JAS)
第二朗読:コロサイ1,12-20
その十字架の血によって平和をつくり、 御子によって万物を、 御子のために和解させてくださったからです。 地にあるものも天にあるものも、 ただ御子によって和解させてくださったのです。 (Col 1:20 JAS)
福音朗読:ルカ23,35-43
イエスは、 彼に言われた。 「 まことに、 あなたに告げます。 あなたはきょう、 わたしとともにパラダイスにいます (Luk 23:43 JAS)
釈義 - C年 祭祝日 |
第一朗読:サムエル記下5,1-3
唯一イスラエル王国の時代(約紀元前1020年から926年まで)に三人の王がいた。それは、サウロ王(べニヤミン部族)と、ダビデ王、ソロモン王であった(ユダ部族)。十ある部族のうち、すべての部族がダビデを王として選んだ理由は三つあった。まず、彼はユダヤ人であるということ。そして、ユダヤ人の部族のために戦ったということ。なにより、神によって選ばれた人だということである(2サム3,2)。
ダビデが王になった方法は民主主義的な契約であった。紀元前1002年から970年まで、ダビデが唯一イスラエル王国の王であった。
人間を救う計画は父である神の業である(1,12-13)。この計画はイエスによって完成されたので、イエスは天の国の王である。そして、私達はイエスの王国の者である(3,2)。コロサイ1,15-20、キリストの賛歌と呼ばれるこの部分がキリスト教のキリスト論の教えの元である。この賛歌は次のキリスト論的な教えを含んでいる;全世界を創造する前に存在する(1,12-17);復活されたイエスは教会の頭である(1,18);イエスは神の最後と完全な啓示である(1,19);イエスは人間の救い主である(1,20)。
福音朗読:ルカ23,35-43
イエスの受難の時には、イエスが王であると思う人は、イエスと一緒に十字架に付けられた罪人だけであっただろう(23,24)。ユダヤ人の指導者はイエスを批判し、イエスがメシヤであるということを信じていなかった(23,35)。ローマ帝国の兵士たちはイエスの犯罪を表すために「ユダヤ人の王」と言う表現を使った(23,37)。おそらく、その時イエスの弟子達もイエスが王であるということを信じていなかっただろう。しかし、イエスが王であるということを証する業は、神によってイエスの復活がなされたことである。