メッセージ - A年 四旬節 |
「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」ヨハ 11:25-26
イエスはラザロを愛していたので、マルタとマリア、また他の人々は、ラザロが病気になった時に、イエスが来て彼を癒してくださるだろうと思っていました。イエスはこの期待に応えませんでしたが、それ以上に素晴らしいことをしてくださいました。イエスは、すでに四日間死んでいたラザロをよみがえらせたのです。
ラザロが生き帰ったのは、彼らを愛していた人々にとって大きな喜びでしたが、それは、死の問題の解決にはなりませんでした。なぜなら、ラザロは、いつか必ず再び死ななければならなかったからです。イエスは、ラザロをよみがえらせることによって、死の問題を解決しようとしたのではなく、死に関する神の望みや神の力を現そうとしたのです。
ラザロの死のゆえに悲しんでいる人々の姿を見たイエスは、「心に憤りを覚え、そして興奮」されました。それによって、死に対する神ご自身の怒りを現してくださいました。人間の罪の結果である死は、神のご計画の一部でないだけではなく、ご自分との愛の交わりの内に永遠に生きるために人間を創造してくださった神の望みに逆らうものです。ですから、神が人間の死を悲しむことや、人間の死に対して怒りを抱くのは不思議ではないでしょう。ラザロをよみがえらせることによってイエスは、神が死を求めないだけではなく、死を滅ぼす力を持っておられることを現し、必ず滅ぼしてくださるという約束を与えてくださいました。
実は、自分の命を捧げるほどすべての人々を愛してくださったイエスは、ご自分の死によって私たちの死を滅ぼしてくださいましたので、それを求めるすべての人に永遠の命を与えることができるのです。
愛している人の死に対する悲しみや怒りが、私たちを絶望に落とすことなく、「わたしを信じる人は、たとえ死んでも生きる」というイエス・キリストの約束がもたらす希望に満たされ、そして、この希望に力付けられて、イエスと同じように抱いている悲しみと怒りを愛に生きる力、永遠の命の国を広める力に変えることができますよう祈りましょう。
メッセージ - A年 四旬節 |
第一朗読:サムエル上16,1.6-7.10
神の御旨を行うため預言者になったサムエルは、サウルの件で大失敗したと思い、苦しみを感じて預言者として自身を失ってしまった(サム16,1)。サウルがまだ生きている時に新しい王を選ぶことは非常に大変な責任があるというだけでなく、非常に危険なことであった(サム16,2)。「この人である」というサムエルの考えは神に認められなかった(サム16,7)。神の僕の考えは必ずしも神の考えということではないだろう。
第二朗読:エフェソ5,8-14
キリスト者になる前、異邦人たちは暗闇の内に生きており、永遠の死の道を歩いていた(エフ5,8)。回心したことにより、彼らはキリスト者として今、光の内に生きている。つまり、善意と正義と真実を持って信仰の道を歩き続けている(エフ5,9)。この世での彼らの人生の目的は、神の御旨を探して行うこと(エフ5,10)と、まだ暗闇の内に生きている人々が生活の仕方を変えるために必要な教えと証を与えることである。
福音朗読:ヨハネ9,1-41
イエスの時代、ユダヤ人にとって貧困や苦しみや災害などは、罪を犯した人々に対する神の罰であった。そして、不思議な業や奇跡などを行う人は自分の力ではなく神から貰った恵みによってそれが出来るのである。健康や繁栄などは「良い人である」ということを証する神の恵みであった。
この二つの考えは良い人と悪い人を簡単に区別するための基本的な考えであった。そこでイエスの弟子たちは聞いた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハ9,1-4)。そして、癒された人は言った「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」。
人を癒すことは良いことである。したがってこの癒しが行われた人が良い人である。この論理的な結論は真実であるが、心は悪い人々は真実を認められない(ヨハ9,24-29)。心が良い人は真実に従う(ヨハ9,35-38)。
主日の朗読聖書 - A年 四旬節 |
ヨハネ4・5-42 (四旬節第3主日)
5〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
メッセージ - A年 四旬節 |
テーマ: イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 (ヨハネ 1,10)
サマリアの女はユダヤ人の男性(イエス様)が井戸から水を汲んで飲ませて貰いたいことにびっくりします。ユダヤ人とサマリア人が敵対を持ち、互いに交わらないからです。その背景には、バビロン捕囚時代にユダヤ人を苦しめたメソポタミアの血が原住民人の血と混ざり、サマリア人の内に流れ、彼らはユダヤ人と、民族的、政治的、宗教的な対立を持ち続けました。
私たちの人生の中で、人と人、男と女、各グループや宗教の間、また民族の間には隔たり、反感、敵対がたくさんあります。私たちは、自分の違うことを強調し、他人を、また他の地方の人々を疎外し、傷を与えたり受けたり、愛に背く行動を度々起こしたりします。互いに摩擦を避けるために距離を置いて交際しないこともありますが、その状態は平和とは言えません。それは、多くの偏見や誤解を招き、次の時代にも伝わって憤りや憎しみを心に抱くようになります。この心は、相手の不幸を自分の勝利として喜ぼうとしますが、逆に荒れ地のような心の空洞になります。何故そうなるかは、キリストがサマリア人の女に話した言葉な中に答を見付けます。すなわち、私たちは度々、「神からの賜物」を知らないからです。
その賜物はキリスト自身です。キリストは、人間としても、神としても、罪深いサマリア人の女に近づき、宗教と男女差別、政治的な敵対、民族と文化の違い、彼女の罪などの「壁」を乗り越えて、「井戸の水を飲ませてください。」という言葉をもって彼女の心を開くように叩きます。キリストとの対話の中で、サマリア人の女は自分の心の「井戸」を開いて、もう渇くことがないように、永遠の命の泉であるキリストからの賜物を頂きたいと思うようになりました。キリストは生ける水として彼女の内にお入りになり、罪を清め、救いの喜びで満たしてくださいました。その喜びを町中に広め、多くのサマリア人は、神の賜物であるキリストを知り、信じるようになりました。
罪と欲望にさらされ、自己中心のために荒れ地のようになった私たちの心は、度々無意識にも「神の賜物」を渇き求めます。キリストは十字架の死に至るまで私たちを愛しぬかれ、罪を取り除き、御復活を持って私たちに永遠の命を与えてくださいました。この賜物は、洗礼の水の印の内に私たちに注ぎ、御聖体などの秘跡の内に神御自身を頂きます。自己中心、偏見や傲慢によってバラバラになったりする私たちは、キリストの内に一つに結ばれることができるように最善を尽くしましょう。
主日の朗読聖書 - A年 四旬節 |
マタイ17・1-9
1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。