メッセージ - A年 年間

 

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」ロマ 13:9

すべての人々が本能的に平和を求めているはずですし、昔から、大勢の人が個人的、また、いろいろな組織をとおして平和のための活動を行ってきました。それにもかかわらず、この世から戦争や争いがなかなか消えないのです。人々が求めている平和が不可能でしょうか。それとも平和の実現の方法が間違っているのではない でしょうか。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ 14:27)と言われたイエスは、普段人々が実現しようとしている平和とご自分自身が与えようとされる平和が異なるということを教えてくださるのです。

「平和の君」であるイエス・キリストが自分の行いによって私たちに与えたい平和への道を示してくださいました。イエス・キリストは、何の悪も行わなかっただけではなく、誰も無視せず、誰に対しても関心をもち、困った人に必要な助けを与えておられました。それから、自分に対して罪を犯した人や自分を傷つけた人を必ずゆるし、彼らにも必要な善を与えてくださったのです。要するに、キリストはただ自分の仲間や自分に役立つ人だけではなく、知らない人や恩返しのできない人や自分に害を与えようとした人さえ愛しておられたわけです。

イエス・キリストがすべての人々に与えたい平和というのは、ただ戦争や争いのない状態、つまり、多くの人が実現をしようとしているような表面的な安定だけはありません。それは、すべての人々が相互の愛によって結ばれて、自分のためだけではなく、他人のためにも善を求め、互いに支え合い、助け合う状態なのです。

キリストの愛と平和をいただいている私たちは、愛を実行して、助け合い、ゆるし合うことによって、キリストの平和を全世界に伝えることができるように祈りましょう。

 
メッセージ - A年 年間

 

イザヤ22、19-23

第一朗読の言葉は、異邦人に対して語られた預言者イザヤの予言の一部である(イザヤ13-23)。この予言はユダ王国の王ヒゼキヤの宮殿のマスターであるシェブナ(Shebna)に対して言われたものである。シェブナ(おそらくユダヤ人ではない)はユダ王国で王様に次ぐ第二の人物であり、持っている力を自分の目的のために使うばかりの人物である。彼を批判する人はイザヤをおいて誰もいなかった。イザヤの言葉によれば、神はシェブナの代わりにエリヤキムを宮殿のマスターとして選んだ。

イザヤ22、22にある表現の意味は「あの人は完全な力を持っている」ということである。この力の源は神である。同じ表現はマタイ16、19と黙示録 3、7に存在する。

ローマ11、33-36

第二朗読は「キリスト者の時代におけるユダヤ人の立場」と言うローマ使徒への手紙の中(ローマ9-11)の栄光の賛歌である。この賛歌によれば、神の知恵は完全 (ローマ11、33)であり、神の御旨は神秘(ローマ11、33)である。人間は神の行いを完全に理解することはできない(ローマ11、34-35)ので、神は全ての生き物の源泉であり、救いであるということを信じることが必要である。というのは、神に選ばれた民であるユダヤ人たちでさえ、イエスをメシヤとして全く信じていなかったからである。この理由は、神秘であるが異邦人が唯一神と契約できるような現代(イエスの時代)に、あるユダヤ人たちはイエスの福音を認められなかった。そのかわり、ある異邦人たちがこの福音を信じて、イエスによって神と契約することができた。異邦人の完全な人々が神と契約できた後に全てのユダヤ人もイエスの福音に信じるようになる。確かに神の御旨は神秘である。

 

マタイ16,13-20

イエスはどんな者であるか。あなたにとってイエスはどんな者であるか。もしあなたが、イエスが預言者であるから彼を信じているということであれば、あなたの信仰は無駄である(マタイ16、13-14)。もしあなたが、イエスがメシヤであるから彼を信じているというのであれば、あなたは命や信仰や恵みなどの泉を見つけたということである。あなたは幸せな方であり、ペトロのような意思である(マタイ16、15-17)。あなたは神の恵みのおかげで信じているのだから。

しかし、マタイ16、18-20の言葉はペトロだけに向けられている。この世を旅する教会の完全な力を持っている支配者は教皇と司教団である。

 
メッセージ - A年 年間

 

第一朗読:列王記(上)19,9a 11-13

第二朗読:ローマ9、1-5

福音朗読:マタイ14,22-33

 

第一朗読では、主が通り過ぎて行かれるとき、激しい風や地震や火の中にではなく、ささやく声の中に神の語りかけを聴くことができる、と記されている。旧約聖書における神顕現のフレーズである「通り過ぎる」ことは、新約の福音書にも顔を出している(本日のマタイの平行箇所であるマルコ6,48)が、これも旧約と新約の一貫性(啓示憲章16、朗読聖書の緒言5,106他)を示す箇所ということができる。

 

第二朗読では、パウロの同胞の救いを思う熱心が「神から見捨てられたものとなってもよい」という言葉で表現されている。パウロ神学では、神はイスラエルから始めて全世界へ救いもたらす存在ととらえられている。

 

福音書では、パンの奇跡の後、弟子たちだけで湖を渡る弟子たちの恐怖と救いが、奇跡物語の枠内で語られている。舟は教会共同体のシンボルであり、海(湖)は、神に逆らうこの世の力のシンボルである。この種の奇跡物語は、神顕現のものであり、癒しの奇跡とは異なって、直接には弟子たちのための語りとなっているといわれる。つまり、弟子たちを中心とする教会は、キリストが共にいるときに本当の平和があり、救いがあることの表現となっている、おじ恐れる弟子たちに「安心せよ、わたしである(エゴ・エイミ)、恐れるな」

とこ声をかけるイエス。ここにも旧約の神顕現のテクニカルタームが含まれている。まさに、出エジプト、紅海渡航などで救いに介入された同じ神が、キリスト・イエスの中で働いておられる、という信仰がこの記事の基本にある。その神は、今、教会の典礼祭儀の中で、キリストによって、聖霊のうちに、現存される同じ神である。

マタイ福音書の基本メッセージとされる「神、われらと共に!」(1,23:18,20:28、20)のテーマがここ、イエスの海上歩行、嵐の鎮めの出来事の中にも見ることができる。

 

現代の教会、キリスト者、そして神の民を導く奉仕者たちも、いろいろな怖れや批判や自らの弱さのために、福音本来の力と喜びを生きることができなくなっているときに、主キリストご自身を見つめることによって生きていることができること。このことを今日の福音のメッセージは含んでいると思われる[市瀬英昭]

 
メッセージ - A年 年間

 

「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタ 13:46

 

最高の幸福のためにどうしても必要だと思われるものは、そう思う人にとって最も価値の高い宝物になります。人によって、それは、物質的な富や健康であったり、仕事や娯楽であったり、学歴、社会的な位置や権力であったり、または、他人に認められることや多くの友人がいることであったりします。

人間の最高の幸福のために何よりも必要なのは、神の国、つまり神との愛の交わりであるということを宝と真珠についてのたとえによって、イエスが教えています。

たとえに出る人と商人が見つけた宝や真珠を手に入れるために、自分の持ち物を売ったように、神の国に入るために、言い換えれば、神との愛の交わりに生きるために、今まで自分の宝として思われたものを手放し、そのものの束縛から自由になる必要があるのです。

今までの生き方への執着が強ければ強いほど、その生活の中心になっていたもの、頼りにして来た物を手放すのは、難しいです。それができるために、聖パウロと同じように、キリストの愛の素晴らしさと「万事が益となるように共に働く」(ロマ 8:28)神の力の偉大さを知るようになることによって、今まで自分の宝になっていたものを現実的に見る必要があります。つまり、このものは、今まで非常に役に立っても、思ったほど価値がないこと、思ったほど力がないこと、それなりに良い物であっても、ないよりもあった方がいいようなものであっても、自分の幸福のためにどうしても必要ではないこと、場合によって真の幸福を妨げるものであることを認める必要があるのです。

 
メッセージ - A年 年間

 

テーマ:「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」

本日の福音の中で、イエス様は弟子たちに、御自身が人々から排斥され、苦しみを受けて殺され、3日目に復活することを予告します。いつも、キリストと共に歩んでいた十二使徒は、それを聞いて、危険を感じました。キリストがこれから進もうとされる死の門を通じる道を自分たちはついていけないと思っていたので、使徒ペトロはイエス様に「そんなことがあってはなりません」と注意します。そのために、イエス様はペトロをサタンと名付け、神様の思いを邪魔するものであると言い、その心を持つなら、御自分からさがるように命じました。

ところで、私たちは何故、教会に来るかを意識の確認をする必要があります。教会に来る理由は様々でしょう。それは、キリスト者だから御ミサに行かないと罪悪感があり、天国に行けない恐れの理由、信者の仲間に会える理由、荘厳な儀式に与って綺麗な聖歌を歌いたい理由、説教が聴きたい理由などです。私たちの信じる心の奥には、秘跡の内にキリストと一つになる喜びを望み、キリストの弟子になりたいのです。福音の十二使徒は、私たちの考え方とそんな変わっていなくて、キリストに従う意味を理解しなかったです。

イエス様は、この時点で御自分の弟子となる条件を皆に言い渡しました。その条件は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってキリストに従うということです。なぜなら、自分の命を救いたい者はそれを失い、キリストのために命を失う者はそれを救うからです。ここで、私たちは、自分の十字架とは、何であるかと断定し、十字架を担うキリストに従うということかを見出す必要があります。これをここで以下の三つのポイントでまとめましょう。

1.寛大な心を持つこと。

キリストは財産を持ちませんでした。命を捨てる程の最大な愛をもって十字架上で自分自身を神様にいけにえとして献げ、私たちに御体を御聖体の秘跡の中で与えます。私たちも、物よりも、自分の人生と愛の心を無償に奉げ尽くすことは、自分の十字架を担ってキリストに従うことに繋がります。

2.有意義に時間を過ごすこと。

キリストは、知識人、社会の有力者や金持と過ごすことなく、社会の中で見捨てられた人、貧しい人、病人や罪人と一緒に過ごしました。いわゆる、社会において御自分の得にならない人と過ごしました。イエス様は、彼らのために時間を惜しまずと共にいて、正義のために戦うことなく愛をもって悪に打ち勝っていたのです。私たちも、働いても、休んでも、勉強しても、食べても、自分の時間を必要な人のために無償に捧げるなら、自分の十字架を担ってキリストに従うことに繋がります。

3.誠実さと熱意を持つこと

キリストは、祈ることに熱心でした。40日間荒れ野で断食して祈り、大切な決断の前に夜を明かして祈り、オリーブの園で血の汗を流すほど熱心に祈られました。神の掟から一点一画亡くならないように、御父の御旨を誠実な心を持って従順に従い、罪と悪を捨てて徹底的な回心を、赦しと聖性によって完全な道を教えました。愛するという最大な掟を十字架の死に至るまで実践してこられました。私たちも、キリストのような熱心に祈って、誠実に御心を行うことによって自分の十字架を背負うってキリストに従う弟子となることでしょう。