| メッセージ - A年 年間 |
「イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」マタ 22:21
「皇帝のものは皇帝に...返しなさい」という言葉の意味は割合と理解しやすいものです。支配者に「返す」べきものは、支配者が作成した法律によってはっきりと決められています。国民には、嫌がっても決まっている義務を果たすか、同じ法律で定められている刑罰を受けるかという選択しかありません。
聖書には神が与えた掟が書き記されているし、その掟とイエスの教えに基づいて、教会は信者が守るべきことを具体的に決めています。けれども、私たちは 義務的に、場合によって刑罰を恐れて国の法律を守っているように、神の掟や教会の決まりを守るだけで十分なのでしょうか。それだけで、「神のものを神に返す」ことになるのでしょうか。決してそうではありません。
律法を忠実に守るように努力していたファリサイ派の人たちについてイエスはこう言われました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マコ 7:6)心はこの世の支配者や権力者たちから離れても、彼らが定めた義務さえ果たせば、十分でしょうが、神が何よりも求めておられるのは、私たちの心、つまり私たちの愛なのです。神の掟を守ることは、神に対する愛と信頼の表現であるときだけ、神が喜ぶものになるのです。
イエスは「神のものは神に返しなさい」という言葉を国民に向けて語っただけではなく、支配者や権力者に向けても語っています。要するに、国民だけではなく、国を治める政治家たちも、神のものを神に返さなければならないということなのです。そのために、支配者たちに神の掟に逆らう権利がありません。もし、彼らは神の掟に逆らうような法律を作成するならば、国民にはそれに従う義務がありません。正しい手段を用いて反対を示してもいいですが、神の望みに逆らう反乱のような手段を用いる権利はありません。ですから、支配者に従うのではなく、自分の良心に従うことを選ぶ人は、イエスや、大勢の殉教者と同じように、神がこの世の支配者の悪よりも力強い方であると信じて、不正な法律が定めている不正な罰を受ける覚悟をする必要があるのです。
| メッセージ - A年 年間 |
第一朗読:イザヤ5,1-7
「予言者イザヤは紀元前740年に活動を初めて以来紀元前701年まで、ユダ王国とエルサレムの救い主はエジプトではなく神だけであると説き、宗教的な活動をした。その時、ユダ王国にとって最も脅威となっていた王国はアッシリアであった。なぜなら、ユダ王国は安全のためにエジプトと契約してアッシリアに反発する政治をしていたからである。
第一朗読はユダ王国の弱さを示している。たとえ話のブドウ畑はユダ王国であり、櫓はエルサレムである(イザヤ5,1-4)。神に選ばれた国民、神に選ばれた地方は神に実を結ぶ筈だが、神は持ち望んでいる公正の代わりに流血を貰い、正義の代わりに民衆の嘆きや叫びを見る(イザヤ5,7)。だから、ブドウ畑(ユダ王国)は神のみ旨の通りに滅ぼされることになる(イザヤ5,4-6)。イザヤの予言は紀元前586年に実現された。
神に作られたすべて者は神が決めた目的のために生きている。
第二朗読:フィリピ4,6-9
第二朗読の言葉はキリスト者たちに大切なメセジーが含む。まず、心配する代わりに神を信頼して祈りなさい(フィリピ4、6)。そうする者は主イエスによって守られる(フィリピ4,7)。自分のことへの恐れを感じる代わりにフィリピのキリスト者たちはキリスト者らしい生活ができるように一所懸命努力しなければならない(フィリピ4、8)。そのために、パウロから学んだことの通りに自分の生活を作る必要がある(フィリピ4,9)。
キリスト者の命や生活などを守るのは、神のみ旨を行うことであろう。
福音書:マタイ21,33-43
今日の福音書のたとえ(マタイ21,33-43)と今日の第一朗読のたとえは似ている。どちらのたとえも、ユダヤ人を支配する人々に強く悲嘆している。しかし、イエスのたとえの中で強調されているのは、政治的な意味よりむしろ宗教的な意味である。イエスはこのたとえを司祭たちとファリサイ派の人々に対して言った(マタイ21,45)。その理由は、司祭たちが彼らの先祖たちのように神に送られた予言者を殺して(マタイ21,34-36)、今また彼らは神に送られたメシヤを殺したからである(マタイ21,37-39)。司祭たちの責任は間違いない(マタイ21,38)。なぜなら、彼らの代わりに他の司祭が出て行ったからである(マタイ21,40-41)。この予言は紀元後70年に実現された。
| メッセージ - A年 年間 |
キリストは、天の国は王が王子のために婚宴を催したことに似ていることに例えています。すなわち、婚礼の御馳走の用意ができた次第、食事に招かれた人たちが皆、それぞれの事情を作ってお断りしました。王は怒って彼らを罰し、彼らの代りに誰でも招いて良いから、客をこの婚礼にいっぱい連れて来るようにお命じになりました。王は客を見て、礼服を着ないで入った男に着替えるようにお薦めしたが、本人が無視したから、彼を懲らしめて外に出すように命じられました。
例えの王は神様であり、キリストは王子です。婚礼とは、キリストと神の民の「結婚」、すなわち、救いを待ち望む人の皆がキリストと一つに結ばれて天国に入る救いの実現を表現します。神様が御用意なさった食事は、御聖体と言いましょう。それは、十字架上で死に至るまで私たちを愛してくださり、罪と死に打ち勝った救いを表現するキリスト自身の御体です。救いを成就するために整えた永遠の命の糧です。キリストの命に与り、永遠にキリストと一緒に君臨することは、神様がお考えになった人生の最終的な目的です。
しかし、私たちの人生の中で地上の生活が身近に感じる現実となっている現在、神様の計画よりも人は個人的な計画を重んじたりします。自分の用事を優先して忙しいから、御ミサ、お祈り、教会の奉仕などを「失礼させて頂きます」と、キリストに御断りの言葉を返したりします。
ある人たちは毎日、お祈りをし、主日に主の食卓を囲んでキリストの御体を拝領するにも関わらず、彼らの心とその生き方がキリストと異なり、滅びに導く道を歩み出します。彼らのことは、礼服なしに婚礼に入った人のことで例えられています。
神様から無償で無条件に頂く愛の賜物と永遠の命の故に、地上での自分の果たすべきことに励む私たちは、傲慢、嫉妬、偽り、怒りの「衣を脱ぎ捨て」、キリストの愛と赦しを頂いて聖性の恵みを「着用」すべきではないでしょうか。「今、あなたの一番大きな人生の目標は何ですか?」と問われたら、何と答えますか。天国の「婚礼」と答えるでしょうか。
| 主日の朗読聖書 - A年 年間 |
マタイ18・15-20
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
| メッセージ - A年 年間 |
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」ロマ 13:9
すべての人々が本能的に平和を求めているはずですし、昔から、大勢の人が個人的、また、いろいろな組織をとおして平和のための活動を行ってきました。それにもかかわらず、この世から戦争や争いがなかなか消えないのです。人々が求めている平和が不可能でしょうか。それとも平和の実現の方法が間違っているのではない でしょうか。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハ 14:27)と言われたイエスは、普段人々が実現しようとしている平和とご自分自身が与えようとされる平和が異なるということを教えてくださるのです。
「平和の君」であるイエス・キリストが自分の行いによって私たちに与えたい平和への道を示してくださいました。イエス・キリストは、何の悪も行わなかっただけではなく、誰も無視せず、誰に対しても関心をもち、困った人に必要な助けを与えておられました。それから、自分に対して罪を犯した人や自分を傷つけた人を必ずゆるし、彼らにも必要な善を与えてくださったのです。要するに、キリストはただ自分の仲間や自分に役立つ人だけではなく、知らない人や恩返しのできない人や自分に害を与えようとした人さえ愛しておられたわけです。
イエス・キリストがすべての人々に与えたい平和というのは、ただ戦争や争いのない状態、つまり、多くの人が実現をしようとしているような表面的な安定だけはありません。それは、すべての人々が相互の愛によって結ばれて、自分のためだけではなく、他人のためにも善を求め、互いに支え合い、助け合う状態なのです。
キリストの愛と平和をいただいている私たちは、愛を実行して、助け合い、ゆるし合うことによって、キリストの平和を全世界に伝えることができるように祈りましょう。
