主日の朗読聖書 - C年 年間 |
テーマ :主は真実な方です
第一朗読:二マカバイ7,1-2,9
あなたはこの世から我々の命を消し去ろううとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。(7,9)
第二朗読:二テサロ二ケ2,16‐3,5
主は真実な方ですから、 あなたがたを強くし、 悪い者から守ってくださいます。 (2Th 3:3 JAS)
福音朗読:ルカ20,27-38
それに、 死人がよみがえることについては、 モーセも柴の個所で、 主を、 『 アブラハムの神、 イサクの神、 ヤコブの神』 と呼んで、 このことを示しました (Luk 20:37 JAS)
釈義 - C年 年間 |
第一朗読:二マカバイ7,1-2,9
紀元前二世紀にギリシア語で書かれたマカバイ記は、ヘレニズムの時代にセレウコス王朝の王アンティオス・エピファネスに反対するマカバイの家族から始まった戦争に関して書かれている。王エピファネスの命令により、セレウコス王国にいる人々は同じ文化、同じ宗教に従わなければならなくなった。つまり、ユダヤ人も自分の宗教と文化を捨てることを強いられた。王の命令に従わない者は死刑にされた。第一朗読の言葉は信仰を守るために自分の命を捨てる母と七人の息子の話を伝えている。信仰を守るために若い命を捨てた息子たちが神からどんな対価を貰うのかという質問に答えるように、二マカバイ7、14に体の復活の教えがある。二マカバイ記の著者は体の復活を信じた。
第二朗読:二テサロ二ケ2,16‐3,5
二テサロニケの信徒への手紙が書かれた理由はイエスの来られる日についての誤った教えを正すことであった。この終末論的な問題についてパウロは一テサロニケ信徒への手紙(一テサ4,13-5,11)に正しい説明をしたがある人は「イエスはもう来られた」という間違った教えを述べ伝えた(二テサ2,1-4)。この教えは誤ったものであるということが示され、テサロニケの信者たちが正しい信仰を守ることが出来るように、神がいつもテサロニケの信者たちを守るという慰め的な話をした(2、16-17;3、3)。
福音朗読:ルカ20,27-38
福音書の言葉は体の復活という主題に関する言葉である。イエスの時代にあるユダヤ人達は体の復活を信じた(ファリサイ派)が、ある人々は信じなかった(サドカイ派)。イエスとサドカイ派の人々の議論は珍しくないことであった。今日の福音書の最も大切な言葉は「生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです」である。この表現はこの世の命に対しての言葉というだけではなく、永遠の命と関わっている。
メッセージ - C年 年間 |
「イエスは言われた。『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きるからである。』」(ルカ 20,38)
復活を信じないサドカイ派の人々は、もし復活があるならば、七人の夫に死に別れた女が復活の時に誰の妻になるかとキリストに尋ね、復活の信仰には自己矛盾があると示そうとしていました。
この問いかけに対して、キリストは、復活ということはこの地上の人生にもう一度戻るということではなく、神の命に与って「神の子ども」として永遠に生きる者となることを教えてくださいました。したがって、神の国では、子孫を残すために、めとることも、嫁ぐこともないと応えました。神様が『柴』の箇所でモーセに、この世を去ったイスラエルの族長たちが生きていると仰ったことは、復活がある証拠となります。イスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブは、この地上で生きる神に出会い、聴き従って共に歩み、自分の人生を神に委ねたから神の命に与って永遠に生きる者となりました。もし、この3人が死んだ者であるならば、神よりも死の方が強いということになり、それは神様の存在を否定することになります。サドカイ派の人々は、自分の生活の中で神様が存在しなかったので、復活を信じませんでした。彼らにとって、神様は遠い存在で、過去の神であると思い込んでいたからです。
教会の信仰は、キリストの復活を中心とします。神様がキリストの内に『今』、『ここに』に生きておられるのは、キリストの復活によって証明されています。復活したキリストを体験しなかった人にとって、『キリストの復活』の福音は戯言に過ぎません。これに対してキリストは、すべての人を復活の信仰に招いてくださいます。すなわち、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタ4,4)と言われ、また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。」(ヨハネ6,54)と力強く教えてくださいます。
神様が生きている人の神であることを信じるために、人は自分の内にキリストが復活なさったことを体験しなければなりません。洗礼、堅信、至聖なる御聖体などの教会の秘跡は、私たちがキリストと共に死に、また、キリストと共に復活する体験です。肝心なのは、教会の秘跡が形式てなものにならず、私たちが秘跡の内に頂く神様の恵みを自分たちの人生の中で生かしていくと同時に、キリストが私たちの内に生き、働く体験です。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ19・1-10
1〔そのとき、〕イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3イエスがどん な人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登っ た。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6ザアカイは急いで降り て来て、喜んでイエスを迎えた。7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8しかし、ザアカイは立ち上がっ て、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9イエスは 言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。