釈義 - C年 年間

テーマ : 神の哀れみ

第一朗読:創世記18,20-32

第一朗読の言葉はJ資料の伝承を含んでいる。J資料は庶民的な伝承として擬人的な神の肖像を現している。ここでは神は人間の姿を持ち、アブラハムとソドムの人々とゴモラの人々について論議をする。神の行いは正しい訴えのもとに下された裁きの結果である(18,21)。神の裁きによって、正しいけれども罰を受けた人だということは絶対に有り得ない(18,32)。神の業はいつも正しい。

第二朗読:コロサイ2,12-14

コロサイ(現在西トルコ)原初キリスト教の創立者エパフラスはコロサイ教会の様々な問題を解決するようにパウロに手紙を書いて頼んだ。多く問題の中の一つに「世を支配する霊」と言う不正教があった(2、8)。「世を支配する霊」と言うのは、神と人間の間にある様々な霊のことである。この霊は神と人間の連結を作るものである。コロサイの信徒への手紙の著者によれば、神と人間の間を結びつけるのはイエスだけである(1,15-20)。人間になったイエス(2,9)の目的は神と人間の間の平和を打ち立てる事であった(1,20)。それを出来るようにするため、イエスは罪と死の力を敗らなければならなかった(2、12.14-15;1,18)。罪と死の力を敗るためには、一つの道しかなかった。その道とは、十字架でのイエスの死(2,14)と、死からのイエスの復活のことである(2,12)。この業によって罪を許された人間(2,13-14)は救い主イエスに従わなければならない(2,6)。

福音朗読:ルカ11,1-13

福音朗読は二つの部分を含む。第一の部分をもとに「主の祈り」が作られた(11,2‐4)。ここで望む事は五つある。最後の頼みごとを除き、すべての動詞の形(ギリシア語の動詞の形)は命令法、アオリスト形、受動態である(日本語で:崇められますように;来ますように;与えてください;許してください;遭わせないでください)。というのは、望む事を頼む方法は命令だからである。頼むという事は将来の事であるが、動詞の未完結相の形を使う目的はその事を必ず行うという情報を伝えるというだけのためである。受動態の動詞を使う目的は望んでいる事が神からいただいたもの(恵み)であるということを表すためである。

第二の部分はたとえが含まれている。パンを頼む人は動詞の命令法を使う(ギリシア語の動詞)。頼んだパンをすぐ貰えなかったが、しかし必ず最後に貰う(アオリスト形の意味)。貰ったパンは彼に与えられた恵みの事である(受動態)。

頼まなければ貰えない。一度だけ頼んでも、必ずしもすぐに貰えないかもしれない。貰った事はいつも恵みである。

 
メッセージ - C年 年間

 

「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」ルカ 11:1

 

宇宙万物の創り主である神は、全能者であるだけではなく、私たち一人ひとりを愛してくださる父であるのです。この愛のゆえに神は、私たちに必要な恵み、必要な善を常に、しかも、無条件に与えてくださるのです。

残念ながら、多くの人々は、神を信頼する代わりに、自分の思考や欲望、または、他の人の間違った助言を信頼していますので、神に向かって心を閉じて、神の賜物を受けないだけではなく、自分の心の真の望みを満たすことのできないもの、結果的に自分に害を与えるものを手に入れるように一生懸命に努めています。

幸いに、その内に自分の力の限界を認めて、神に向かって祈る人もいます。確かにこの人たちは、自分の欲望が満たされることしか求めていない、つまり間違った動機に基ついて祈っていますが、神が彼らの期待通りに応えなくても、イエスが教えてくださったように信頼と忍耐を持って祈り続けるならば、少しずつ間違った欲望から、また、何の根拠のない期待、場合によって非現実的な期待から清められて、自分たちや他の人にとって真の善であるものを求めるようになるのです。

そして、自分が持っているすべての良いものが神から与えられたものであり、この賜物によって神がご自分の愛を表してくださる事実に気付いて、それを自覚するようになる人は、神を信頼するようになって、神が与えてくださるすべての賜物を受けるだけではなく、神の導きに従って生きるようになるのです。

このような祈りと生き方によって人間は、最高の賜物、つまりすべての良いものの与え主である神ご自身を受けるために必要な心の準備ができるのです。神に象って、神に似せて創造された人間は、神ご自身を受け入れ、自分自身を神にささげることによって神と一つになって初めて、完全な安らぎ、完全な幸福、しかも永遠に続く安らぎと幸福を味わうようになるのです。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ10・38-42


38〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリア は主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わた しの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上 げてはならない。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :良いほうを選ぶ

第一朗読:創世記18,1-10

「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。 (Gen 18:3 JAS)

第二朗読:コロサイ1,24-28

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。 (Col 1:25 JAS)

福音朗読:ルカ10,38-42

は、いろいろなことを心配して、気を使っています。 42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 (Luk 10:41-42 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ :良いほうを選ぶ

第一朗読:創世記18,1-10

第一朗読の言葉はJ資料の伝承を含む。J資料は庶民的な伝承として擬人的な神の画像を現す。ここでは神は人間の姿を持ち、アブラハムの所に来て、アブラハムの息子について預言する。神学的な意味としては、神が人間を迎え入れ、助けるということである。人間は自分でできないことを神から恵みとして貰う。人間のほうから必要なことはただ一つ、神の預言を信じることである。

さらないでください。 (Gen 18:3 JAS)

第二朗読:コロサイ1,24-28

コロサイの信徒への手紙の著者によれば、彼自身がイエスの僕として神の奥義を世界に述べ伝えるために選ばれた人である(1,25)。「神の奥義」というのはイエスが異邦人にとっても栄光(永遠の命)の道だということである(1,27)。著者の義務はイエスが異邦人の救い主であるという教えを述べ伝えることである。この宣教をする時に彼は迫害される。この迫害は、著者が教会のために捧げるということを意味する(1,24)。

福音朗読:ルカ10,38-42

ベタ二アに住んでいるマルタとマリヤ(そしてラザルス)は、イエスの友達であった。マルタはイエスのために様々なことをしたので、キリスト教の伝承による彼女はキリスト教の社会的な活動の肖像になった。マリヤはイエスの言葉を聞いたので、キリスト教の伝承による彼女は黙想をするキリスト者の肖像になった。どちらの行いも必要だが、最も大切なことは、まずイエスの言葉を聞くことである。