主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ14・25-33
25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子 供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だ れであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算し ない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはでき なかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つこ とができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使を送って、和を求めるだろう。33だか ら、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
釈義 - C年 年間 |
テーマ :弟子になるために
第一朗読:知恵9,13-18
第一朗読の主題は神の知恵である。人間の知恵には限りがあるので、神の御旨を悟ることは簡単にはできない(9,13-14。16)。人間にそれができるようにするためには、天から送られた聖霊の力が必要である(9,17-18)。
興味深いのは15行である。人間の体と人間の魂はお互いに合わないという考え方がある。それはユダヤ人の考え方ではなくプラトンの哲学派のような考え方である。
第二朗読:フィレモン9-10.12-17
フィレモンへの手紙は紀元後69-71年の間に書かれた個人的な書物である。その手紙の目的はコロサイ教会の一人のキリスト者(フイレモン)に、彼の家から逃げた奴隷(オネシモ)を再び受け入れるよう説得することである。逃げ出した時、オネシモは異邦人だったが、ローマに行き、パウロのおかげでキリスト者となり、自分の主のもとに戻ることを決めた。パウロの宣教によってキリスト者になった二人(フィレモンとオネシモ)が、社会的な関係より共同体的な関係のもとに新しい関係を作るようにというのがパウロの希望である。
福音朗読:ルカ14,25-33
「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」と言うイエスの厳しい言葉には深い意味がある。キリスト者にとって、「なんでもいい」というやり方は許されない。イエスよりこの世の事に集中する人はなかなかイエスの弟子になれないだろう(14,33)。イエスの弟子になりたい人は良く考える事が必要である(9、28-32)。イエスの弟子の道は簡単ではないし、責任も重い(14,24-35)。
メッセージ - C年 年間 |
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」ルカ14,27.33
イエスは神のいつくしみ深い愛について語り、ご自分の行いによってこの愛を実際に示してくださった時に、多くの人々が喜び、大きな希望を持ってイエスに着いて行ったり、イエスのもとに集まって、イエスの言葉に耳を傾けたりしました。けれども、イエスの言葉を行った人は少なかったし、イエスに最後まで従った人は、たった数人だけでした。
確かに、神の愛は何よりも素晴らしく、魅力的なもので、何よりも価値のあるものです。このような神の愛に生きる人だけが完全に満たされ、永遠に幸せに生きることができますが、この愛を受け入れるために、他のすべてのものを手放さなければならない、つまり、必要なものを持ち続けながらも、あらゆる愛着と執着から解放されて、すべてのものに対して自由にならなければなりません。それから、この世において神の愛に生きる人は、イエスと同じように他の人々によって不正な扱いをされたり、苦しい目に遭わせられたりすることがあります。そのために、神の愛を受け入れること、また、この愛に忠実に生きることは、なかなか難しいことなのです。
このような苦しみ、つまり愛に伴う苦しみを受け入れることこそ、イエスが言われる十字架を背負うことであって、このような苦しみを受け入れる覚悟も持つ人だけが、イエスの真の弟子になり、イエスに最後まで従い、愛の完成にあずかるようになるのです。
私たちは、神の愛の受肉であるイエスをますます深く知ることによって、イエスの素晴らしさにますます強くあこがれますように、そして、イエスに対する愛に強められて、神の愛を受け入れ、どんな状況においてもこの愛に忠実に生きることによって、この愛において成長しながら、それを出会う人々に伝えることができますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ14・1,7-14
1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分 の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着 くことになる。10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだ ろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12また、イエスは招いて くれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返し をするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれ ば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」