メッセージ - C年 年間

 

テーマ: 「さあ、もっと上席に進んでください」

 

ファリサイ派の議員の家に食事のために招かれたキリストは、ある招待客が自ら上席を選ぶ様子に気付いて注意しました。もし、もっと偉い人が来たら、その席を譲らなければならないから恥ずかしい目に合うからイエス様は末席を薦められました。家の主人が入ったら、謙遜な人に上席に進むように言われると、人の前に高められることになるからです。

民主主義時代の今日、イエス様のお薦めは社会常識になっています。自ら上席に進む人は、皆に軽蔑されることでしょう。しかし、末席を選ぶ人は必ず謙遜な人であると思ってはならないと思います。建て前として他の人に上席へ進むよう言いますが、心の中で自分が偉いと思って上席を譲ってもらえられることを図っている人もいれば、自分が謙遜で礼儀正しい人だと皆に自己アピールをしたい人もいます。ところで、封建主義のキリストの時代に上下関係はハッキリしていましたからその変化が争いを起こします。しかし、この上下関係を作ったのは、神様ではなく人間なのです。神様の前に誰が一番であるかを捜して見出すように求められると、キリストは福音の中で促しています。

ファリサイ派の家に招かれた人の間に一番偉かった人はキリストです。キリストは謙遜な方ですから、自ら上席を取ることはありませんでした。しかし、キリストが神の子なのに、ファリサイ派の家で誰も彼を上席に案内しなかったことは、不信仰の印であり、神の御心が無視された証拠となります。

人間は誰でも神様を求め、キリスト者は自分のうちにキリストを招くのです。特に洗礼と御聖体のうちにキリストが私たちの心にも訪れます。キリストは柔和で謙遜だから「上席」には自ら進んでおられません。訪れたキリストは、ファリサイ派の家で迎えられたような様子にならないように注意しなければなりません。仕事、遊び、テレビ、財産、富、車、商売、名誉、社会地位、友達、祈りなどは、私たちの心の中でそれぞれの場を納めていると思います。私たちは自分の心の中で一番尊い所にキリストを受け入れ、すべてを彼に委ねて治めるようにしているでしょうか。私たちの全生活の中ですべての次元でキリスト中心にして生きるでしょうか。いわゆる、私たちはキリストに、「さあ、もっと上席に進んでください」といつも言っているでしょうか。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ13・22-30


22〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : すべての事の目的

第一朗読:イザヤ66,18-21

わたしは、 すべての国々と種族とを集めに来る。 彼らは来て、 わたしの栄光を見る。 (Isa 66:18 JAS)

第二朗読:ヘブライ12,5-7,11-13

訓練と思って耐え忍びなさい。 神はあなたがたを子として扱っておられるのです。 父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか (Heb 12:7 JAS)

福音朗読:ルカ13,22-30

人々は、 東からも西からも、 また南からも北からも来て、 神の国で食卓に着きます。 (Luk 13:29 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ : すべての事の目的

第一朗読:イザヤ66,18-21

第一朗読の言葉の著者は「第三イザヤ」と呼ばれる方である。第三イザヤの部分(イザ56-66)は一人の著者ではなく、第二イザヤの複数の弟子によって書かれた。第三イザヤの文は終末論的な雰囲気が強い。第一朗読の言葉によると、最後の時期には、建て直したエルサレムの神殿に外国に住んでいるユダヤ人だけではなく、すべての国から人々が来るという(66,918.20)。エルサレム神殿はユダヤ人のみならず、異邦人にとっても大切な場所となる。そして、神はユダヤ人だけではなく異邦人をも救われる(66,18)。この朗読には救済の普遍性(異邦人も)と個別主義の安全(ユダヤ人だけ)という二つの互いに相反する考え方が交ざっている。

第二朗読:ヘブライ12,5-7,11-13

この世に生きている人間の人生には、苦しみや困難もある。ある人々にとっては、この嬉しくないことが懲らしめになることもある。へブライ人への手紙の著者によれば、懲らしめは楽しいことではないが、悪くないことである。「悪くないこと」というのは、それが人間の心を育てるために必要な方法の一つであるということである。神は人間を造られて救われた方だというだけではなく、父である神は自分の子供を育てている。その過程においては、時々懲らしめることもある。懲らしめることの目的は、人々に平安な義の実を結ばせることである。

福音朗読:ルカ13,22-30

福音書の言葉と第一朗読の言葉には強い関係がある。ユダヤ人だから救われた人であるということではなく、ユダヤ人として正しいことを行った人だから救われた者となるのである。同様に、異邦人だからといって救われることが出来ないということではなく、異邦人として正しいことを行った人は救われるのである。ルカによれば、イエスは個別主義の安全を止めて救済の普遍性に集中した。

 
メッセージ - C年 年間

 

「『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」ルカ 13:23

父である神は、ご自分が創造されたすべての人々の救いを求めておられます。救いとは、三位一体の神の愛の交わりにあずかることですので、救われるためには、神の愛と共に神ご自身を受け入れること、と同時に自分の愛と共に自分自身を神にささげること以外に方法がないのです。それは、非常に難しいこと、もしかして全く不可能であると思われるかもしれませんが、人間の力だけでは無理なことであっても、神の働きによって可能なものになっているのです。

人間が救われるために、神はまず、人間に自由意志と共に愛する能力を与えてくださいました。それから、人間のために命に満ちた素晴らしい生活の場を造って、人間に対する愛を表し、人間をご自分との愛の交わりへと招いてくださったのです。人間はこの招きを拒否して、神が示してくださった道と別の道を歩むことによって幸福を得ようとするようになっても、神は人間に対するご自分の愛とこの愛に基づく望みを諦めずに、人間の救いのために働き続けられたのです。

神の愛の最も完全な表現と最も力強い招きとは、イエス・キリストの生涯、特にイエスの受難と十字架上の死ですが、神は今日に至るまで無限の方法を以て一人ひとりにご自分の愛を表し、愛の交わりへと招いておられるのです。人間は知的に神を知らずに、それを意識しなくても、真の愛に生きることによって、実際に神の招きに応えているし、永遠の救いに向かって歩んでいるのです。

殆どの人々が自分と自分が属しているグループのことだけを考え、自分の楽しみ、自分の快楽や満足のみを求めている現代、つまり利己心が一番高く評価されている現代に生きる私たちにとって愛に生きることは非常に難しいです。なぜなら、愛に生きること、つまり自分のためではなく、他人のために生きることは、自分の楽しみ、自分の快楽や満足、一言で言えば自分の幸福を犠牲にすることであって、現代人の価値観では、一番愚かな生き方として考えられているからです。

愛に生きるために、傷つけられているゆえに自己防衛的になっている自分の本性だけではなく、現代の価値観や一番強い流行に逆らう必要があっても、ますます多くの人々が、ご自分の復活によってイエス・キリストが表してくださった愛の力を信じて、神の望みと同時に、自分自身の心の最も深い望みに沿って愛に生き、神の招きに応えることができますように祈りましょう。