メッセージ - C年 年間 |
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」ルカ 16:10
人間の財産や富というのは、必ずしもお金のことではありません。人によってそれは体力や体そのものであったり、いろいろな才能、能力、経験や学歴であったり、仕事や社会的な地位、または、いろいろな人間関係などのようなものであったりします。あなたの財産や富は、何でしょうか。また、あなたはそれをどのように用いているのでしょうか。
多くの人が考えているのは、自分の財産や富が自分のもの、例えば自分が働いて手に入れたものですので、それを好きなように使う権利があるということなのです。このような考えに従って自分の富を自分のためにだけ利用する人は、そんなつもりがなくても、いつの間にか自分の富に仕えるようになって、この富によって支配され、場合によって滅ぼされることさえあるのです。
イエス・キリストが私たちに教えているのは、私たちが持っているすべての富はこの世界を創造してくださった神からいただいたものです。従って、神こそ私たちが持っている財産や富の本当の所有者であって、私たちは、その富の管理者にすぎないものになるわけです。神は、賜物を何らかの目的のために与えてくださったですので、自分の財産や富の最も賢明な扱い方というのは、それを私たちに委ねた神の意向に従って管理することなのです。最終的に、神は私たちのために愛に生き、愛において成長することのみを求めておられますので、任されている財産を神の望みに従って使うとは、それを自分のためにだけではなく、他の人のために用いるということなのです。
イエスは、このように教えただけではなく、ご自身がその通りに生きておられたのです。実際に、イエスはこのように生きられたからこそ、完全な人になり、すべての人のために救いの源になられたのです。
イエスの模範と力に支えられて、私たちは世界の流行に逆らって、自分の財産を父である神の望みに従って管理することができますように、そしてそれによって私たちが生かされるだけではなく、私たちが出会う多くの人々も生かされますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ15・1-32
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎え て、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その 一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める 一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と 言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くし て、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住 むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物を くれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここ をたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありませ ん。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し た。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、 父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を 連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ね た。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとは せず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もあり ません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒 にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わ たしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当 たり前ではないか。』」
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
テーマ :キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた
第一朗読:出エジプト32,7-11.13-14
モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。 (Exo 17:11 JAS)
第二朗読:一テモテ1,12-17
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。 (1Ti 1:15 JAS)
福音朗読:ルカ15,1-32
だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」 (Luk 15:32 JAS)
釈義 - C年 年間 |
第一朗読:出エジプト32,7-11.13-14
四十年間シナイ半島を旅する、エジプトから逃れた十二のユダヤ人の部族は、新しい生活だけではなく新しい宗教組織を学ばなければならなかった。第一朗読の言葉によれば、ユダヤ人たちは簡単に唯一神を信じたわけではなかった。いつも、エジプト的な宗教組織に戻りたがった。それが、神が「そんな国民を諦めろ」と言った理由であった。しかし、モーセは神と論議してユダヤ人の部族をまもった。
この文章の目的は、モーセがエジプトからユダヤ人たちを解放した方だというだけではなく、神の怒りからユダヤ人たちを守った方だということを示すことである。出エジプトが書かれた時代には、モーセとは、すなわちモーセの律法であった。神の怒りから守ることがモーセの律法だというメッセージである。
第二朗読:一テモテ1,12-17
テモテへの手紙の著者によれば、パウロは神の恵みの証拠になった。かつてキリスト教を迫害したサウロ/パウロは、特別な啓示のおかげでキリスト者になって宣教活動をするようになった。パウロは罪人のような者から聖人のような人にまで変化した。それはパウロの力ではなく、神の御旨によって行われたことであった。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」という言葉が事実であることを、パウロの例が証する。
福音朗読:ルカ15,1-32
イエスが用いたすべてのたとえの目的は、神の御旨が、すべての人々が信仰の道を歩くことだということを示すことである(15、1-10)。すべての人々というのは罪人も含む。たとえ悪いことをする罪人でも、それをやめれば神に戻ることができる(15,11-32)。そのためには、まず「私は罪を犯した」ということを理解することが必要であるし、この罪を許されることができるということを信じることも必要である。しかし、人間の力だけでは足りない。罪から解放することは神の業である。罪人が悪い道をやめて正しい道を歩き始めたということを認める正しい人が彼を信頼のうちに助けてあげなければならない。
メッセージ - C年 年間 |
「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使の間に喜びがある。」(ルカ15:32)
本日の福音は、「見失った羊」、「無くした銀貨」と「放蕩息子」というイエス様の三つの例え話を連続紹介します。その話のきっかけは、イエス様が罪人たちを迎えて、食事まで一緒にされていたというファリサイ派の人々と律法学者の不平を押さえるためでした。
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、人々に神の言葉と戒めを教えていました。律法で決まったことを守った人を義人と見做し、守らなかった人を価値のない罪人として扱い、接することも避けていました。彼らは、自分のことを義人であると見せかけるために、罪人の上に神様の怒りがあると勝手に判断し、神様のイメージを歪曲していました。ところで、彼らは、神様が最も求めている愛の掟をないがしろにし、神様の内にある愛と赦しについて教えることも怠っていました。
イエス・キリストは、この度、例えを持って神様が私たち罪人について、どうお思いになっているかを教えてくださいます。神様は、私たちの一人ひとりを掛け替えのない宝として無差別に愛しておられます。罪によって自分を失う私たちの一人ひとりは、神様にとって、例え話の中で描かれた見失った羊、無くしたドラクメ銀貨、放蕩息子のようなものです。見つけられて愛されていなければ、失われたままです。神様は、その愛と慈しみの故に自ら進んでくださり、罪に堕いた人間を救うために、キリストの内にこの世に来られたのです。神様の無条件の愛、限りない憐れみと慈しみに応えて悔い改め、キリストの救いに与る罪人については、神様御自身とすべての天使の間に大いなる喜びが天国にあると言われます。
放蕩息子の兄は決まったことを守っても、兄弟を赦さないファリサイ派の人々を象徴します。このような人々は神様の慈しみ深さを悲しみ、罪人が赦されることを怒り、そのために神様の家に入ることを自ら拒んでいます。私たちも、放蕩息子の兄のような過ちを犯さないように注意しなければなりません。教会である私たちは、キリストによって見付けられた神様の宝、キリストの神秘体です。私たちは、神様に赦された喜びを持ちながら、神様に愛されてキリストの救いによって義とされ、その喜びを自分の喜びにする隣人愛を育むことができるように祈りましょう。