メッセージ - C年 年間

「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」ルカ 21:12-13

世の終わりがいつ来るのかということは誰にも分かりませんが、私たちが体験している争い、暴動、戦争、天災などのような苦しみが世の終わりまで続くということは確かです。ですから、世界の終りがいつ来るのかということよりも、いろいろな苦しみと悪に満たされたこの世界においてどのように生きればいいか、それに関してどんな態度をとればいいかという問題が現実的で、重要です。

ある人は、全力を尽くして、世界にある悪と戦います。残念ながら、多くの場合この戦いは間違った考え方(イデオロギー)に基づいて、それにおいて不正な方法が用いられている結果、多くの犠牲者が生み出されます。それと対照的に、他の人が絶望に落ちて、何もしないか、この世に生きること自体を諦めます。問題が見えないように幻想に逃避する人とか、安心感を得るように迷信を選ぶ人がいたら、苦しみを避け、なるべく快楽を増やすように努める人もいます。けれども、それと全く違う態度、全く違う生き方もあります。それは、イエス・キリストが私たちに教え、ご自分の人生によって示してくださった生き方なのです。

この世にある悪を滅ぼす力、私たちをあらゆる苦しみから解放する力を持つのは、この世界の創造主である神しかないという確信を持ったイエスは、この神の望みに従って生きること、神の救いの計画に協力することが一番賢明で、悪の問題に関して一番効果的な生き方であると私たちに教えてくださいました。

愛である神の望みに従って、悪との戦いにおいてイエスが用いた唯一の方法というのは、あらゆる人、それは正しい人であっても、悪を行って他人やイエスご自身に苦しみをもたらす人であっても、すべての人を愛することでした。

私たちは、イエスに見倣って、どんな状況においても、どんな人のためにも善を尽くすことによって、悪から善を引き出すことのできる神の愛を証しすることができますように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ20・27-38

27〔そのとき、〕復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。

 

《28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》

 

34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :主は真実な方です

第一朗読:二マカバイ7,1-2,9

あなたはこの世から我々の命を消し去ろううとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。(7,9)

第二朗読:二テサロ二ケ2,16‐3,5

主は真実な方ですから、 あなたがたを強くし、 悪い者から守ってくださいます。 (2Th 3:3 JAS)

福音朗読:ルカ20,27-38

それに、 死人がよみがえることについては、 モーセも柴の個所で、 主を、 『 アブラハムの神、 イサクの神、 ヤコブの神』 と呼んで、 このことを示しました (Luk 20:37 JAS)

 

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:二マカバイ7,1-2,9

紀元前二世紀にギリシア語で書かれたマカバイ記は、ヘレニズムの時代にセレウコス王朝の王アンティオス・エピファネスに反対するマカバイの家族から始まった戦争に関して書かれている。王エピファネスの命令により、セレウコス王国にいる人々は同じ文化、同じ宗教に従わなければならなくなった。つまり、ユダヤ人も自分の宗教と文化を捨てることを強いられた。王の命令に従わない者は死刑にされた。第一朗読の言葉は信仰を守るために自分の命を捨てる母と七人の息子の話を伝えている。信仰を守るために若い命を捨てた息子たちが神からどんな対価を貰うのかという質問に答えるように、二マカバイ7、14に体の復活の教えがある。二マカバイ記の著者は体の復活を信じた。

第二朗読:二テサロ二ケ2,16‐3,5

二テサロニケの信徒への手紙が書かれた理由はイエスの来られる日についての誤った教えを正すことであった。この終末論的な問題についてパウロは一テサロニケ信徒への手紙(一テサ4,13-5,11)に正しい説明をしたがある人は「イエスはもう来られた」という間違った教えを述べ伝えた(二テサ2,1-4)。この教えは誤ったものであるということが示され、テサロニケの信者たちが正しい信仰を守ることが出来るように、神がいつもテサロニケの信者たちを守るという慰め的な話をした(2、16-17;3、3)。

福音朗読:ルカ20,27-38

福音書の言葉は体の復活という主題に関する言葉である。イエスの時代にあるユダヤ人達は体の復活を信じた(ファリサイ派)が、ある人々は信じなかった(サドカイ派)。イエスとサドカイ派の人々の議論は珍しくないことであった。今日の福音書の最も大切な言葉は「生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです」である。この表現はこの世の命に対しての言葉というだけではなく、永遠の命と関わっている。

 
メッセージ - C年 年間

「イエスは言われた。『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きるからである。』」(ルカ 20,38)

復活を信じないサドカイ派の人々は、もし復活があるならば、七人の夫に死に別れた女が復活の時に誰の妻になるかとキリストに尋ね、復活の信仰には自己矛盾があると示そうとしていました。

この問いかけに対して、キリストは、復活ということはこの地上の人生にもう一度戻るということではなく、神の命に与って「神の子ども」として永遠に生きる者となることを教えてくださいました。したがって、神の国では、子孫を残すために、めとることも、嫁ぐこともないと応えました。神様が『柴』の箇所でモーセに、この世を去ったイスラエルの族長たちが生きていると仰ったことは、復活がある証拠となります。イスラエルの族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブは、この地上で生きる神に出会い、聴き従って共に歩み、自分の人生を神に委ねたから神の命に与って永遠に生きる者となりました。もし、この3人が死んだ者であるならば、神よりも死の方が強いということになり、それは神様の存在を否定することになります。サドカイ派の人々は、自分の生活の中で神様が存在しなかったので、復活を信じませんでした。彼らにとって、神様は遠い存在で、過去の神であると思い込んでいたからです。

教会の信仰は、キリストの復活を中心とします。神様がキリストの内に『今』、『ここに』に生きておられるのは、キリストの復活によって証明されています。復活したキリストを体験しなかった人にとって、『キリストの復活』の福音は戯言に過ぎません。これに対してキリストは、すべての人を復活の信仰に招いてくださいます。すなわち、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタ4,4)と言われ、また、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。」(ヨハネ6,54)と力強く教えてくださいます。

神様が生きている人の神であることを信じるために、人は自分の内にキリストが復活なさったことを体験しなければなりません。洗礼、堅信、至聖なる御聖体などの教会の秘跡は、私たちがキリストと共に死に、また、キリストと共に復活する体験です。肝心なのは、教会の秘跡が形式てなものにならず、私たちが秘跡の内に頂く神様の恵みを自分たちの人生の中で生かしていくと同時に、キリストが私たちの内に生き、働く体験です。