メッセージ - C年 年間

 

福音の重い皮膚病を患っている10人が感染し易いハンセン病であると思われたので、その時代の人々は彼らのことを「神に打たれた者」と見なされていました。律法に従って、彼らを信じる集いと社会から除外されなければなりませんでした。したがって、福音が紹介しているように、彼らは人に近づくことなく、遠くから叫んでイエス様に憐れみを願っていました。イエス様は、彼らに触ることも癒しの言葉も言われることなく、ただ、社会に復帰するために定められた規定通り、祭司長たちに体を見せるように命じられました。その中のユダヤ人が9人、行く途中癒されたことを知って祭司たちの所に行きましたが、サマリア人だけは、キリストのもとに戻ってきました。イエス様は、サマリア人の心を喜び、他の9人に失望しました。

その9人はイエス様のことを心にとめませんでした。彼らは先に自分のことを考えて、自分には罪がないこと、ハンセン病の診断が間違えだったことなどと祭司たちに証明して、神の民の一員の権利を示そうとしていたことでしょう。しかし、彼らは神様の救いの業に気付くことなく、その恵みに応えて回心することもなく、距離的の意味でも、精神的な意味でもキリストから離れてしまいした。彼らは、ハンセン病から救われたが、自分自身を救うことを拒んでしまいした。

サマリア人は、癒されたことに気付いた時に、神様の業だと信じてキリストのもとに立ち返るのです。すなわち、神様に「立ち帰る」とは、聖書の言葉を用いますと「メタノイア」と言い、回心を意味します。彼はキリストとの交わりに入って、神の国の本もの一員となり、キリストとの一致の喜び、救いの恵みを感謝して神を賛美して「エウカリスチア」(感謝の祭儀)に与る喜びに入りました。

私たちは、どのような信仰の持ち主でしょうか。苦しい時に神頼みをして、恵みを頂いて傲慢になって、神様をないがしろにして生活を送っていないでしょうか。本ものの信者は、罪と死から救うために十字架の死に至るまで愛してくださったキリストのもとに来て、回心し、キリストとの一致の喜びを生き、祈りと秘跡に与ることによって神様に賛美と感謝を献げて信仰生活を送ることでしょう。

 

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ17・5-10


5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ :神に従う人

第一朗読: ハバクク1,2-3;2,2-4

しかし、神に従う人は信仰によって生きる(ハバ2,4)

第二朗読:二テモテ1,6-8.13-14

そのとき主は、 神を知らない人々や、 私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。 (2Th 1:8 JAS)

福音朗読:ルカ17,5-10

あなたがたもそのとおりです。 自分に言いつけられたことをみな、 してしまったら、 『 私たちは役に立たないしもべです。 なすべきことをしただけです』 と言いなさい。  (Luk 17:10 JAS)

 
釈義 - C年 年間

テーマ :神に従う人

第一朗読: ハバクク1,2-3;2,2-4

第一朗読の歴史的な背景には、バビロニア捕囚がある。神の国民が異邦人の奴隷になったということが、ユダヤ人には理解できなかった。だから、ハバククはユダヤ国民の代表として、祈りの形で文句をつけている(1,2-4)。このハバククの訴えに対する答えは、バビロニア捕囚がいつかは終わるということである。それはユダヤ人の力で行うことではなく神によって決められることである(2,2-4)。

第二朗読:二テモテ1,6-8.13-14

第二朗読の言葉は、テモテの希望を強めるためのパウロの言葉である。パウロと一緒に宣教活動をしたテモテは、エペソ教会の司教になって、平和的で安心な生活をする代わりに、さまざまな問題を正し、反発するキリスト者と議論しなければならなかった。まだ若いテモテの心には、恐れと絶望が生まれた(1,6-8)。パウロによれば、そんな時にこそ、テモテはパウロから学んだ「健全な言葉」 をもとに、自分の教えと行いをしなければならない(1,13-14)。

福音朗読:ルカ17,5-10

福音書の言葉は二つの部分からなる。第一部分はイエスの弟子に関する言葉である。弟子は自らの信仰心に自信を持てずに、信仰が足りないと思っている(17,5)。イエスもそう思っている(17,6)。第二部分は仕事を終わってうちに戻ってまだ仕事をしなければならないという僕の生活の話である(17,7-9)。この二つの部分(信仰と役に立たない僕の気持)はどんな関係があるのだろうか。「私は神の僕、役に立たない僕である」という自信が無ければ、キリスト者の信仰は強くなる可能性が無いとルカは思っている。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」ルカ 17:5-6

自分たちの信仰が小さすぎると思った使徒たちは、イエスにそれを増すように頼みました。その依頼に応えてイエスが言われたのは、彼らの信仰の本当の問題というのは、その大きさではなく、その質、つまりそのあり方であるということでした。

その12人は、自分たちの家とか、仕事とか、つまり今までの生き方を置いてイエスの呼びかけに応えて従ったほど強い信仰を持っていました。けれども、彼らが信じたのは、いつか必ず王になるイエスに従えば、その権力や富や名誉にあずかるということでした。彼らにとってイエスを信じて、イエスに従うというのは、自分たちの野心や欲望を満たすための手段であったわけです。

正しい信仰のあり方を説明するために、イエスは謙遜な僕についてたとえを語りました。真の信仰を持っている弟子は、このたとえの僕が主に仕えたように、キリストに仕えます。それは、キリストが私たちの奉仕を必要としているからとか、私たちを奴隷にしたいからとかではありません。キリストに仕えることによって人は、自分の能力や時間だけではなく、自分自身をキリストに奉献するのです。

実は、キリストにとって私たちは僕ではなく、友なのです(ヨハ15,15)。そして、イエスは私たちの奉仕を受けるだけではなく、自ら私たちに仕えてくださる(ルカ12:37)。それは、御自分の命を与えてくださったほど献身的な奉仕なのです。

そのような相互の奉仕の目的というのは、より楽な生活のような利益ではなく、永遠につづく一致なのです。私たちはキリストの奉献を受け入れ、自分自身をキリストに完全に捧げたら、イエスと一つになるのです。そしてイエスと一致することによって、父である神の命にあずかり、神の愛に生きるようになるのです。それこそ、真の信仰の最終的な目的であるわけです。