釈義 - C年 年間

テーマ :平安があるように

第一朗読: イザヤ66,10-14

第一朗読の言葉は、第三イザヤ(イザ56-66)の終末論的な予言である。バビロニア捕囚後、ユダ地方に戻ったユダヤ人はエルザレム神殿を建て直し始めた(紀元前520)が、社会的な問題や不正な行為はなかなか直らなかった(イザ66,1-4)。そのことに対して第三イザヤの著者は批判した。彼にとって、エルサレムにもたらされる平和や安心などは、人間が作れるものではない。エルサレムの平和や安心は神からいただいた恵みだと思っていた。

第二朗読:ガラテヤ6,14-18

第三宣教旅行の最後(約紀元後57年)に書かれたガラテヤの信徒への手紙の一つの主題は、ガラテヤの原初キリスト教における異邦人とユダヤ人の関係についての問題である(ガラ3-4)。この問題の基本的な原因は、キリスト者になるために異邦人も割礼を、神とアブラハムの契約のしるしとして受けなければならないとされていたことである。契約のしるしより信仰こそが最も大切だということが理解できなければ、キリスト者は神の平和と哀れみが受け取らない。

福音朗読:ルカ10,1-12.17-20

福音書の言葉には宣教活動に関する多くの大事なイエスの教えがある。まず、宣教活動をする人々は12人の弟子だけではなく72人のイエスの弟子たちである。宣教活動をするために送られた弟子は一人で活動するのではなく、2人組として送られた(ルカ10,1)。2人組は宣教活動をするのに必要な物だけを持つことが許された(ルカ10、2-4)。2人組で述べ伝える言葉はまず、「この家に平安があるように」である。この言葉を受け入れた人々と関係を作ることが許される(ルカ10,5-10)。この人々に福音を述べ伝えるのは弟子の義務である。「この家に平安があるように」という言葉を受け取らない人々とは関係を作らないほうがいい(ルカ10,10-16)。

 
メッセージ - C年 年間

「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい。」(ルカ10:2)

農業の機械化のために、神の国についてキリストが語ってくださった「収穫が多いが働き手が少ない」の例えを、現代社会は充分に理解できない可能性があります。私の両親の実家は農家でした。親の話しによりますと、昔の農家は機械がないために、収穫の期間に手作業を行う働き手が大勢必要とされていました。お金がなくても、多くの子どもに恵まれた家族は幸せでした。家族の皆は自分の汗をかきながら鎌で切った麦の穂を胸に抱いて束を結い、乾かした藁に刺されて血を流しながらもそれを蔵に納めていました。力を合わせて労苦して得たパンは特別の味をもっていました。そこに注がれた一人ひとりの心からの犠牲と愛によってそれぞれの家族が命と平和をもたらし、家庭は感謝と喜びの内に生きることができたのです。

私たちのために注がれる神様の恵みは収穫に例えられています。その恵みは、キリストが受肉して、汗と血をながして死に至るまで私たちを愛し抜かれたこと、御復活によって私たちに永遠の命をもたらしてくださったことです。神の民である教会は、すべての人々のためにその恵みを「収穫」する使命があります。収穫のできた印は、キリストの平和の実現です。イエス様は神の国を宣べ伝えるために七二人を派遣するに当たって、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』」と言わせました。現在もキリストは御自分の祭司職に、秘跡的に与るように呼ばれた司教、司祭たちが神の恵みの分配者です。誓願をもって自己を奉献する修道者たちは先頭に立って神の民全体と神を求める全ての人と共に、神の栄光と人々の救いのためにその恵みを刈り取る任務があります。

私たちの信仰生活が機械的になったり、また、農夫が麦の穂を刈り取るように、神の恵みを自分の胸に抱き、汗と血を流して心に納めるのでなければ、私たちにはキリストの願う平和が訪れることなく、神の国の一員となることもできないことでしょう。現代教会も神を愛して慕い求め、主の御言葉を胸に納め、キリストに憧れて、自分を尽くしていくものとなるように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ9・51-62


51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。 イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅 ぼしましょうか」と言った。55イエスは振り向いて二人を戒められた。56そして、一行は別の村に行った。
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58イエスは言われた。「狐 には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、ま ず、父を葬りに行かせてください」と言った。60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い 広めなさい。」61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62イエスはその人に、「鋤に 手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 誰の僕であるか

第一朗読:列王記上19,16b.19-21

それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。 (1Ki 19:21 JAS)

第二朗読:ガラテヤ5,1.13-18

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 (Gal 5:13 JAS)

福音朗読:ルカ9,51-62

するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」 (Luk 9:62 JAS)

 
メッセージ - C年 年間

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」ルカ 9:51

人類の歴史を見ると、殆どの権力者は手に入れた権力を弱い人や完全に無力な人々の益のために用いるのではなく、自分自身や自分の仲間の利益のために用いているということが分かります。また、何らかの悪事を行ったためではなく、権力者に逆らったために罰せられることは、珍しくないでしょう。

以上の経験に基づいて、多くの人は、最高の支配者、最高の権力者である神がこの地上の多くの支配者や権力者と同じように振る舞っておられると思い込んでいるようです。イエスを歓迎しなかったサマリア人を滅ぼし、復讐しようとしていたイエスの弟子たちは、きっと、このように考えていたでしょう。

天から来られた方として、神のことを完全に知っておられたイエスは、多くの人々が想像している神とまったく異なる神を、ご自分の言葉と行いによって現してくださいました。弟子たちに復讐することを禁じることによってイエスが教えてくださったのは、神がご自分に逆らう人々に絶対に罰を与えないし、復讐もしないということなのです。「エルサレムに向かう決意を固められた」ことによって、神についてのさらに素晴らしいことを現してくださいます。

イエス・キリストがご自分に対して敵意を持って、ご自分を殺そうとした権力者が大勢いるエルサレムに行かれたのは、この人たちを滅ぼすためではなく、この人たちにも神の愛を現し、回心へと呼びかけ、神との愛の交わりに招くためなのです。確かに、イエスは、権力者たちがご自分の証しを受け入れないこと、ご自分の呼びかけと招きに応える代わりに、ご自分を殺してしまうことを知っておられました。それにもかかわらず、エルサレムに行くことにされたのは、苦しみを避けたい、ご自分の命を守りたいというような望みよりも、彼らにも神の愛を現したい、彼らを神のもとに導きたいという望みの方が強かったからです。その意味で、エルサレムに行くことは、ご自分に対して敵意を持っていた人に対する真の愛の表現であったとともに、すべての人々に対する神の愛を現す行動でもあったのです。

神の意志に逆らって、罪を犯した人間を愛し続け、大きな悪事を行い、他の人と神ご自身を傷付けた人の救いを求めて、いつも和解と愛の交わりへと招いておられる神に信頼する人、この招きに応える人がますます増え、神の国が発展していきますように祈りましょう。