釈義 - C年 年間 |
テーマ : すべての事の目的
第一朗読:イザヤ66,18-21
第一朗読の言葉の著者は「第三イザヤ」と呼ばれる方である。第三イザヤの部分(イザ56-66)は一人の著者ではなく、第二イザヤの複数の弟子によって書かれた。第三イザヤの文は終末論的な雰囲気が強い。第一朗読の言葉によると、最後の時期には、建て直したエルサレムの神殿に外国に住んでいるユダヤ人だけではなく、すべての国から人々が来るという(66,918.20)。エルサレム神殿はユダヤ人のみならず、異邦人にとっても大切な場所となる。そして、神はユダヤ人だけではなく異邦人をも救われる(66,18)。この朗読には救済の普遍性(異邦人も)と個別主義の安全(ユダヤ人だけ)という二つの互いに相反する考え方が交ざっている。
第二朗読:ヘブライ12,5-7,11-13
この世に生きている人間の人生には、苦しみや困難もある。ある人々にとっては、この嬉しくないことが懲らしめになることもある。へブライ人への手紙の著者によれば、懲らしめは楽しいことではないが、悪くないことである。「悪くないこと」というのは、それが人間の心を育てるために必要な方法の一つであるということである。神は人間を造られて救われた方だというだけではなく、父である神は自分の子供を育てている。その過程においては、時々懲らしめることもある。懲らしめることの目的は、人々に平安な義の実を結ばせることである。
福音朗読:ルカ13,22-30
福音書の言葉と第一朗読の言葉には強い関係がある。ユダヤ人だから救われた人であるということではなく、ユダヤ人として正しいことを行った人だから救われた者となるのである。同様に、異邦人だからといって救われることが出来ないということではなく、異邦人として正しいことを行った人は救われるのである。ルカによれば、イエスは個別主義の安全を止めて救済の普遍性に集中した。
メッセージ - C年 年間 |
「『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」ルカ 13:23
父である神は、ご自分が創造されたすべての人々の救いを求めておられます。救いとは、三位一体の神の愛の交わりにあずかることですので、救われるためには、神の愛と共に神ご自身を受け入れること、と同時に自分の愛と共に自分自身を神にささげること以外に方法がないのです。それは、非常に難しいこと、もしかして全く不可能であると思われるかもしれませんが、人間の力だけでは無理なことであっても、神の働きによって可能なものになっているのです。
人間が救われるために、神はまず、人間に自由意志と共に愛する能力を与えてくださいました。それから、人間のために命に満ちた素晴らしい生活の場を造って、人間に対する愛を表し、人間をご自分との愛の交わりへと招いてくださったのです。人間はこの招きを拒否して、神が示してくださった道と別の道を歩むことによって幸福を得ようとするようになっても、神は人間に対するご自分の愛とこの愛に基づく望みを諦めずに、人間の救いのために働き続けられたのです。
神の愛の最も完全な表現と最も力強い招きとは、イエス・キリストの生涯、特にイエスの受難と十字架上の死ですが、神は今日に至るまで無限の方法を以て一人ひとりにご自分の愛を表し、愛の交わりへと招いておられるのです。人間は知的に神を知らずに、それを意識しなくても、真の愛に生きることによって、実際に神の招きに応えているし、永遠の救いに向かって歩んでいるのです。
殆どの人々が自分と自分が属しているグループのことだけを考え、自分の楽しみ、自分の快楽や満足のみを求めている現代、つまり利己心が一番高く評価されている現代に生きる私たちにとって愛に生きることは非常に難しいです。なぜなら、愛に生きること、つまり自分のためではなく、他人のために生きることは、自分の楽しみ、自分の快楽や満足、一言で言えば自分の幸福を犠牲にすることであって、現代人の価値観では、一番愚かな生き方として考えられているからです。
愛に生きるために、傷つけられているゆえに自己防衛的になっている自分の本性だけではなく、現代の価値観や一番強い流行に逆らう必要があっても、ますます多くの人々が、ご自分の復活によってイエス・キリストが表してくださった愛の力を信じて、神の望みと同時に、自分自身の心の最も深い望みに沿って愛に生き、神の招きに応えることができますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ12・49-53
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」
釈義 - C年 年間 |
テーマ :主の僕の道
第一朗読:エレミヤ38,4-6,8-10
この朗読の歴史的な背景には、南王国の終わりの時期ということがある。南王国はバビロニア王国に敵対するエジプトと契約した。ゼデキヤ王とユダ国民の長老たちはエジプトが南王国を守る力があると思っていたが、神の言葉を伝える預言者エレミヤにとって南王国がエジプトと契約するのは間違いであった。そのことを伝えたエレミヤは、ユダ国民の長老たちに裏切り者とみなされた。何年間か過ぎて、預言者エレミヤの言葉の通りになった。南王国は国として滅亡した(紀元前586年)。この世の者には、神の言葉を伝えている者の声が聞こえない。
第二朗読:ヘブライ12,1-4
この朗読の時代の社会的な背景として、イエスを信じている人々がイエスを信じていない人々から迫害されていたということがある。著者によれば、完全な信仰を持っているイエスが迫害されたのだから、イエスを信じている人々(まだ信仰が弱い人)もまた迫害される。迫害されたときには、イエスのようなやり方が必要である。それは、最後まで信仰を守ることである。
福音朗読:ルカ12,49-53
ルカによれば、イエスが神の子としてこの地上に現れた目的は、人間の心に信仰の火を投じることである(12,49)。そのために十字架上で死ぬまであらゆることを受けた(12,50)。イエスの死と復活の後、この世に生きている人々はイエスを信じるか、イエスを信じないかという選択をしなければならなくなった。一人一人の人間によってこの選択は異なるだろう。そのため、分裂が起こる場合も出てくる(12,51-53)。