釈義 - C年 年間 |
年間第31主日 11月3日
第一朗読: 知恵11,22-12,2
紀元前二世紀から一世紀の間にギリシア語で書かれた知恵記には、ユダヤ教の伝承とギリシアの哲学を元に作られた、神についてのさまざまな新しい考え方が含まれている。第一朗読の言葉によると、神は命を愛する(11,26)。すべての命を愛するから罪を犯す人々や異邦人などにたいしても神は哀れんでいる(11,23-25)。そのような人々が正しい道を見つけるために、神は彼らに教育を施される(12,1-2)。
第二朗読:二テサロ二ケ1,11-2,2
迫害されたテサロニケのキリスト者たち(1,7)に対してパウロが祈りを捧げる。この祈りの目的は、テサロニケのキリスト者が忍耐の内に正しいキリスト教の道を歩き続けて行けるようにすることである(1,11-12)。この手紙を書いた理由は、テサロニケ教会でイエスの日(イエスが再び来られる日)について不正な教えが述べ伝えられていたためであった(2,1-2)。不正な教えによれば、イエスはすでに再来したが、テサロニケの信者は彼に会わなかったという。つまり、テサロニケの信者たちはイエスに救われなかった人物であるとしたのである。この教えが不正な教えであるという議論をするために、パウロはこの手紙を書いた。
福音朗読:ルカ19,1-10
ユダヤ人の社会の習慣とユダヤ教の法律では、取税人と関わることは禁止であった。取税人は罪人のような生活をするからである。指導者としてはイエスのやり方は大変困ったことであった。罪人は正しい人の話を聞いたり、正しい人の行いを見たりしなければ、正しい道を学ぶことが出来ないだろう。神はそれがわかっていたからこそ、イエスを人間に送られた。イエスはその事を理解して、罪人と関わった。
メッセージ - C年 年間 |
「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」ルカ 19:9-10
恐らく、非常に多くの人と同じように、ザアカイは、人生においてお金と権力が一番重要なものであると思っていたでしょう。そのために、一生懸命に努力して、徴税人の頭にも、金持ちにもなった、つまり求めていた権力とお金を手に入れることができました。けれども、期待したような満足や幸福を得ることができず、彼の心は、ますます飢え渇いていったのです。
ザアカイは、自分が心の中で何を求めているかということが分からなかったけれども、イエスについて話しを聞いたときに、心の中で何かが響いて、希望が生まれたため、「イエスがどんな人か」を見たいと望むようになりました。障害が現れてもザアカイは諦めず、この望みに従いました。そして結果的に、ザアカイが全く創造も期待もしなかったことが起こったのです。彼はイエスがどんな人かを見ることができただけでなく、イエスと出会い、イエスの無条件の愛を体験することによって、真に豊かな人生を始めることができたのです。
心の中で求めたのは、無条件の愛であったと分かったザアカイは、今までの彼の人生の中心にあった権力やお金が彼に幸福を与える代わりに、彼から幸福を奪い取るもの、心を満たす代わりに、心を空っぽにするものであるという事実に気が付きました。そして、イエスから頂いた無条件の愛という最高の富は、それに執着したり、誰かにそれを奪われないように気を付けたりすることによってではなく、それを出会う人と分かち合うことによって増し、彼の心を少しずつ満たしていくものであるということも分かったのです。
人間の心を満たすのは、手に入れた富や権力、成功や楽しみとかではなく、自分が持っているものを他の人と分かち合うこと、自分の力や才能を他の人のために使うことであるということをザアカイの経験から学び、それを実践することによって、本当に豊かな人生を送ることができますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ18・9-14
9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿 に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たち のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分 の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでくださ い。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められ る。」
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
テーマ : 慰めの泉
第一朗読:シラ35,15b-17.20-22a
主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる(シら35,17)
第二朗読:二テモテ4,6-8.16-18
しかし、 主は、 私とともに立ち、 私に力を与えてくださいました。 それは、 私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、 すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。(2Ti 4:17 JAS)
福音朗読:ルカ18,9-14
ところが、 取税人は遠く離れて立ち、 目を天に向けようともせず、 自分の胸をたたいて言った。 『 神さま。 こんな罪人の私をあわれんでください。』 (Luk 18:13 JAS)
釈義 - C年 年間 |
第一朗読:シラ35,15b-17.20-22a
シラ記の著者によって迫害を受けた人や傷を負った正しい人、つまり神を信頼する人、の祈りは神に届く(35,16-17)。困難に生きている人は一人で苦しんでいるわけではない。神は彼を見て慰める(35,18)。悪いことをする人をたおすのは人間ではなく神である(35,20-21)。すべての悪に終わりがある。神はすべての人間を裁く(35,22)。良いことをする人は良いことが与えられる。悪いことをする人は悪いことが与えられる。良い心を持っている人は救われる。悪い人は罰を受ける。
第二朗読:二テモテ4,6-8.16-18
パウロは解放される可能性が無いということが分かった時 (4,6)、自身の人生を熟考する(4,7)。イエスの福音のために自分の人生を捧げたパウロは神から行いどおりの栄冠を受けるという強い自信がある(4,8)。人間の力のおかげではなく(4,16)神の恵みによって強められたパウロは自分の弁明が出来た(4,17)。神は自分の僕を誘惑から守って天国へ受け入れる(4,18)。この考え方は困難の時におけるパウロの力の源であった。
福音朗読:ルカ18,9-14
この譬えは自分が他の人よりもっと良い人であると思っている人に対して言われた言葉である。良い行いをする目的は自分の誇りのためではなく神の御旨を行うためであるはずである(18,11-12)。パリサイ人の間違いは自分が他の人よりもっと良い人物だと思うことであった。この人は自分の真実のこと(罪を犯す場合もある人であるということ)が理解できず、取税人、つまりユダヤ人の社会の中において最も罪深い人、よりは良い人だということで彼にとって十分であった。