釈義 - C年 年間

第一朗読:アモス6,1.4-7

預言者アモスの厳しい言葉は、ユダ王国とイスラエル王国の王たちと支配者たちに向けられている(アモス6,1)。彼らは国民のために働かず、その代わり自分たちが楽な生活をして、イスラエル王国の社会的な義を守ることなく、不正な支配をする。アモスによれば、このやり方がイスラエル王国を倒れさせる原因になる(アモス6,6)。そして、アモスの預言は紀元前721年に実現された。

第二朗読:一テモテ6,11-16

第一テモテの手紙の著者は手紙の最後で自分の弟子(テモテ)を指導する。キリスト者の道を歩む者として選ばれたテモテは、最後までこの道を正しく歩まなければならない(一テモテ6、11-12)。彼は人々の前でイエスのように証をしなければならない(一テモ6,13)。正しいキリスト者としてイエスが再び来られる日を待たなければならない(一テモテ6,14)。最後の部分は(一テモテ6,15-16)終末論的な意味がある。

福音朗読:ルカ16,19-31

このたとえの言葉は様々に解説することができると思われる。たとえの主題はお金を持つ人々とお金を持ってない人々の関係ということである。この世でお金を持つ人々が自分の事だけ考えるのは、間違った行いである。力やお金、支配などを持つ人々の義務は、弱い人や貧しい人、不幸な人々などに必要な助けをしなければならない。

 
メッセージ - C年 年間

 

「やがて、この貧しい人は死んで、

天使たちによって宴会にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」(ルカ16,22

 

本日の福音の中でキリストの物語には、二人の人物が途上します。それは金持ちとラザロです。彼らは距離的にとても近い存在で、同じ敷地に生活しながらも、仲良くすることも喧嘩することもなく、互いの交わりがありませんでした。二人は全く違う世界に属していました。このような現実は、キリストの物語の中だけで起こるものではありません。現代社会の中でも、同じ建物に住む人々も互いの名前も知らず、歩く道に横たわるホームレスの人達が無名で別世界の者として見做され、同じ所で食べたり飲んだりしたとしても、各々は互いの接点もなく、全く違う世界に属する状態がマレではありません。

福音の金持ちの生活は、世俗的な価値観において理想的なものです。すなわち、彼は人に迷惑しないで、貧しいラザロをいじめることなどの悪いことをしないし、楽な方法でお金を手に入れて高価な服を身に着け、友達と楽しく遊んだり、美味しいものを食べたりして、豊かな生活と富によって「有名」な人になりたいと思ったわけです。現代社会の中にもそういう生活を憧れている人がとても多いのです。ところで、家も、富も、着物も、食事も、健康も、友達もいないラザロみたいな人は、惨めな者であると思われて無視され、「無名」な人と見做されていることもたくさんあります。

しかし、キリストの場合、この現実は丁度その反対の意味を持っています。キリストは、福音の見捨てられた貧しい人に名を与えました。すなわち、彼は、名の有る「有名」な人になり、「ラザロ(神は助ける)」と呼ばれています。死んだ後、ラザロは天の国で偉大な父アブラハムのそばにある宴席に座るようになりました。彼は、地上で人間らしく立派に生きたいという望みがあっても、人からそれができないようにされました。しかし、神様はその望みを予想以上に適え、勲(いさお)によるのではなく、神の恵みによって天の国で救いの喜びを味わうようになったのです。

ところで、福音の金持ちは名前がありません。天の国において、彼こそは「無名」な人になりました。金持ちの人は、富と快楽の中で神の前に自分を失ったからです。彼は、地上で神の国と人々のためにたくさん出来たはずなのに、貪欲のために隣人に対して人道的な行いもなく、困っている人を助けるという最も基本的な人間の心を欠いていたから、キリストから名前を貰いませんでした。

社会において私たちは親の愛と望みを表現する名を頂き、それを戸籍謄本で記されています。そして、洗礼によって神の子供としての使命を現す教会が与える霊名があり、それは洗礼台帳に記されています。しかし、神様の御心の内に、私たちの一人ひとりの本性と使命を現し、自分自身だけを神様から呼ばれる唯一の「名」が記されていることでしょう。私たちは、この世の世俗的な価値観に流されて快楽などの罪と愛の無さのためにその「名」を失うことなく、むしろ、御心を行うことによって自己実現して、最期の時に、その「名」でキリストのそばに呼ばれることができるように祈りましょう。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ16・1-13

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕

1「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』

5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 神にも仕え、また富にも仕えるということはできません

第一朗読:アモス8,4-7

主はヤコブの誇りにかけて誓われる。 「わたしは、彼らのしていることをみな、 いつまでも、決して忘れない。 (Amo 8:7 JAS)

第二朗読:一テモテ2,1-8

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 (1Ti 2:8 JAS)

福音朗読:ルカ16,1-13

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。 (Luk 16:13 JAS)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:アモス8,4-7

アモスはテコアというユダ王国の町に住んでいる人であったが、そこは預言者の活動が行われた王国だった。北王国の王ヤロボアII世(紀元前760-755)の時代は、経済と国際政治は非常に良かったが、社会の中には様々な問題があった。豊かな人々は貧しい人々に対して不公正なことをした。その上、豊かな人々は宗教にたいして熱意を失い、エルサレム神殿で捧げものを捧げる代わりに、北王国の神殿でそれをした。アモスは預言者としてこの二つの問題を正すために活動をした。

第二朗読:一テモテ2,1-8

一テモテへの手紙の著者によれば、キリスト者として社会的平和と安心のためには、祈ることが必要である。それも、社会を支配する人々のために祈らなければならない。社会を支配する人々に対して、 怒ったり言い争ったりすることは役に立たない。キリスト者はイエスのような行いをしなければならない。イエスは戦うことではなく祈りながら自身を捧げた。私達も静かな生活をしながら神の御旨を行わなければならない。

福音朗読:ルカ16,1-13

不正な管理人は自分の主に対して大変悪い事をしたが、逆に主に誉められた。もちろん悪い事をしてもいいということがこのたとえの意味ではない。不正な管理人は自分の事ばかり考えたが、彼の不公正は他の人々の役に立つ事になった。この不正な管理人はこの世で自身が救われるためにお金を使った(16,1-8)。

キリスト者はこの世に生きている時には、神に関することのためにお金を使わなければならない。お金は力があるが、全く小さい物である。この小さい物をうまく使うことができない者は、最も大事なもの(永遠の命)を貰うことができない。