メッセージ - C年 年間 |
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」ルカ14,27.33
イエスは神のいつくしみ深い愛について語り、ご自分の行いによってこの愛を実際に示してくださった時に、多くの人々が喜び、大きな希望を持ってイエスに着いて行ったり、イエスのもとに集まって、イエスの言葉に耳を傾けたりしました。けれども、イエスの言葉を行った人は少なかったし、イエスに最後まで従った人は、たった数人だけでした。
確かに、神の愛は何よりも素晴らしく、魅力的なもので、何よりも価値のあるものです。このような神の愛に生きる人だけが完全に満たされ、永遠に幸せに生きることができますが、この愛を受け入れるために、他のすべてのものを手放さなければならない、つまり、必要なものを持ち続けながらも、あらゆる愛着と執着から解放されて、すべてのものに対して自由にならなければなりません。それから、この世において神の愛に生きる人は、イエスと同じように他の人々によって不正な扱いをされたり、苦しい目に遭わせられたりすることがあります。そのために、神の愛を受け入れること、また、この愛に忠実に生きることは、なかなか難しいことなのです。
このような苦しみ、つまり愛に伴う苦しみを受け入れることこそ、イエスが言われる十字架を背負うことであって、このような苦しみを受け入れる覚悟も持つ人だけが、イエスの真の弟子になり、イエスに最後まで従い、愛の完成にあずかるようになるのです。
私たちは、神の愛の受肉であるイエスをますます深く知ることによって、イエスの素晴らしさにますます強くあこがれますように、そして、イエスに対する愛に強められて、神の愛を受け入れ、どんな状況においてもこの愛に忠実に生きることによって、この愛において成長しながら、それを出会う人々に伝えることができますように祈りましょう。
主日の朗読聖書 - C年 年間 |
ルカ14・1,7-14
1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分 の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着 くことになる。10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだ ろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12また、イエスは招いて くれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返し をするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれ ば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
釈義 - C年 年間 |
第一朗読: シラ3,17-18.28-29
シラ書は紀元前2世紀の間(約180年)にヘブライ語で書かれた書物であるが、ユダヤ教聖書正典に入らなかった。この書物の著者はシラの子イエスである(シラ50,27)。そのすぐ後(約130)、ギリシア語へ翻訳され、七十人訳(LXX)に入り、キリスト教の聖書のうちの、第二聖典の書物と呼ばれるようになった。シラ書の著者はユダヤ教の知恵やユダヤ人の民衆的な知恵をヘレニズムの知恵と混ぜ合わせ、完全な人生についてさまざまな事を教えている。第一朗読の主題は柔和である:「子よ、何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にもまして愛される」。
第二朗読:ヘブライ12,18-19.22-24
第二朗読の言葉は、ヘブライ人への手紙の著者がユダヤ教の元(モーセ)の律法を原初キリスト教の元(新しい契約の仲介者イエス)と比べている。「怖い神」と言う神のイメージ(12,18-19)の代わりに、キリスト者が「われらと共にいる神」と言う神のイメージを信じている(12,22-24)。
福音朗読:ルカ14,1.7-14
イエスのたとえは現代社会と強い関係があると言えるだろう。人間の知恵では「一番になる」ということが人々にとって最も望まれることである。偉い人は偉いが、「俺は偉い人」と思っている人は11行の教えを学ばければならないだろう。:「だれでも自分を高くする者は低くされ、 自分を低くする者は高くされるからです」。
メッセージ - C年 年間 |
テーマ: 「さあ、もっと上席に進んでください」
ファリサイ派の議員の家に食事のために招かれたキリストは、ある招待客が自ら上席を選ぶ様子に気付いて注意しました。もし、もっと偉い人が来たら、その席を譲らなければならないから恥ずかしい目に合うからイエス様は末席を薦められました。家の主人が入ったら、謙遜な人に上席に進むように言われると、人の前に高められることになるからです。
民主主義時代の今日、イエス様のお薦めは社会常識になっています。自ら上席に進む人は、皆に軽蔑されることでしょう。しかし、末席を選ぶ人は必ず謙遜な人であると思ってはならないと思います。建て前として他の人に上席へ進むよう言いますが、心の中で自分が偉いと思って上席を譲ってもらえられることを図っている人もいれば、自分が謙遜で礼儀正しい人だと皆に自己アピールをしたい人もいます。ところで、封建主義のキリストの時代に上下関係はハッキリしていましたからその変化が争いを起こします。しかし、この上下関係を作ったのは、神様ではなく人間なのです。神様の前に誰が一番であるかを捜して見出すように求められると、キリストは福音の中で促しています。
ファリサイ派の家に招かれた人の間に一番偉かった人はキリストです。キリストは謙遜な方ですから、自ら上席を取ることはありませんでした。しかし、キリストが神の子なのに、ファリサイ派の家で誰も彼を上席に案内しなかったことは、不信仰の印であり、神の御心が無視された証拠となります。
人間は誰でも神様を求め、キリスト者は自分のうちにキリストを招くのです。特に洗礼と御聖体のうちにキリストが私たちの心にも訪れます。キリストは柔和で謙遜だから「上席」には自ら進んでおられません。訪れたキリストは、ファリサイ派の家で迎えられたような様子にならないように注意しなければなりません。仕事、遊び、テレビ、財産、富、車、商売、名誉、社会地位、友達、祈りなどは、私たちの心の中でそれぞれの場を納めていると思います。私たちは自分の心の中で一番尊い所にキリストを受け入れ、すべてを彼に委ねて治めるようにしているでしょうか。私たちの全生活の中ですべての次元でキリスト中心にして生きるでしょうか。いわゆる、私たちはキリストに、「さあ、もっと上席に進んでください」といつも言っているでしょうか。