主日の朗読聖書 - B年 祭祝日

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 
この言は、初めに神と共にあった。 
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 
メッセージ - B年 祭祝日

テーマ:「生きることば」

「言は肉となってわたしたちの間に住まわれた。」。(ヨハネ1,14)

「ことば」は三つの方法でわたしたちに伝えられていると思います。それは、「話すことば」、「書くことば」と「生きることば」という三つです。「話すことば」は、人間の交わりの最初の段階です。その交わりの中で人は互いのことを理解したり、また、誤解されたりします。「書くことば」は、書かれたメッセージを何ども読みなおすことができ、理解と感性を深めることもできます。「ことば」は人間にとって不可欠なものです。しかし、人間のことばは、人を生かし、また殺すこともできます。福音は、人を生かす「ことば」は受肉なさった神の子イエス・キリストのことであると言います。

神のことばの場合は、同じようです。神は、多くの預言者達を通して語られたが、聴く耳のある人が少なく、誤解されたことも沢山ありました。キリストの誕生の御告げも、聴き入れたのは、聖母マリアと羊飼い達だけでした。

神様が残してくださった「書くことば」とは、聖書であり、神と人間の間に契約を結ばれる証拠です。わたしたちは、聖書で神のことばを学び、黙想し、それを守るなら、神と共に生きることになり、守らないならば、罪によって神との契約を破ることになります。

「生きることば」は、ベツレヘムの馬小屋で産まれ、飼い葉桶に寝かせた神の子、イエスキリストのことです。この「ことば」は受肉されるほど、わたしたちを愛し、共にお住みになることをお望みになりました。産まれる時からその死と復活まで、キリストの人生は、わたしたちのための「生きることば」であり、御聖体の内に肉と成った「言」はわたしたちを生かす糧となります。だから、「生きることば」は、代々にわたって、わたしたちの一人ひとりの内に受肉して誕生します。これは、愛の内に神と一つに結ばれたわたしたちの人ひとりの人生です。わたしたちが、「ことば」をもって人を創って生かすならば、神の子、キリストは、わたしたちの内に生きている証です。

私の神学生時代に、ことばの達者であったプロテスタントの神学者Karl Barth(カロロ・バルト)の神学を学んだことを思い出します。何百冊の本を出版したこの神学者は、ある講演会の後に次のような質問を受けました。「先生のすべての神学的洞察の中で、一番大きな発見は何ですか」と。博士は少し考えて、そして微笑んでいながら、教会学校で子供達が歌う聖歌の歌詞を用いて答えました。

「これだけを、私はよく知っているよ。

イエス様は私を愛していると。

なぜなら、福音は私にそう教えているよ。」と。

 
釈義 - B年 祭祝日


第一朗読:   イザヤ 52,7-10

ユダヤ人にとってはバビロニア追放の時代が大変苦し経験でした。約40年もの間エルサレムから離れていたユダヤの国民は、エルサレムに戻って再びエルサレムで神の神殿を建てなおし始めました。第二イザヤにとってそれは神の勝ちを意味します。神の恵み、力、業のおかげでイスラエルがエルサレムに戻ることが出来ました。
新約聖書の中でパウロがローマ人に「すべての人のための救い」という教えをする時にイザ52,7から引用文を取りました(ローマ10,15)。パウロにとってこの知らせは「イエスによってすべての人々が救われた」ということです。

第二朗読:   ヘブライ 1,1-6

ヘブライ人への手紙は三つの部分からなっています。それは「神の言葉としてのイエス」、「司祭としての」、「キリスト者の生活」です。この言葉は第一部分から取られたものです。イエスとイエスの業は彼らに対する神の言葉です。その言葉は救いのために知らなければならないことです。神はイエスの前に様々な教えを人間に伝えてくださいました(例えば預言者の言葉で)が、完全な教えはイエスの言葉と業によぅてなされました。

福音朗読:   ヨハネ 1,1-18

言葉の賛歌には二つの部分があります。それはイエスが神であるという言葉(ヨハ1,1-13)と、イエスが人間であるという言葉(ヨハ1、14-18)。イエスは神です。イエスは人間です。この二つの教えを人々が受けることがヨハネによる福音書の目的です。

 
主日の朗読聖書 - B年 祭祝日

テーマ:きょう世にお生まれになった救い主

第一朗読:     イザヤ 52,7-10

あなたの神は王となられた

第二朗読:     ヘブライ 1,1-6

この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め

福音朗読:     ヨハネ 1,1-18

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 
メッセージ - B年 待降節

「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。

お言葉どおり、この身に成りますように。」

ルカ 1:38

待降節の最後の主日の第二朗読として聖パウロのローマ人への手紙の最後の言葉が読まれます。パウロは、読者の心に信仰を起こすために、この手紙の中で福音、すなわち神の秘められた計画を伝えたと書きました。ローマ人への手紙の中にパウロは、幸せになろうとして、人間的な知恵に頼る異邦人たちの姿と、律法にかなう自分の行いに頼るユダヤ人たちの姿を描いてから、両者の努力が無駄であると述べます。幸いに、人間に出来ないことが沢山あっても、「神に出来ないことは何一つありません。」

パウロが伝えた福音とは、神がイエス・キリストにおいて、預言者たちをとおして与えてくださったすべての約束を成就し、すべての人々のための救いのわざを成し遂げてくださったということなのです。神は、人間の最高の幸福となるこの救いをすべての人に与えたいと望んでおられるので、今パウロの言葉によって、この賜物を受けるようにと呼びかけておられるのです。救いにあずかるために、この呼びかけに応えて、神の賜物を受け入れる必要があります。それは実際に、自分自身の力だけで自己を救おうという無駄な努力をあきらめて、神の導きに従って生きるということを意味します。それは、人間が神を信じているとき、つまり自分や他の人よりも、神を信頼しているときだけ可能なのです。

イエスのお母さんとなったマリアは、そのような信仰に基づいた生き方の最も完全な模範を示しています。マリアは、自分の理性や善行よりも、神の知恵と神のいつくしみ深い愛に頼って生きていました。マリアのように、私たちが心を開いて、聖霊を受けるとともに神の愛と神の命を受け入れるならば、私たちは、大きな喜びと平和に満たされるだけではなく、神は私たちの中で、または私たちをとおして、偉大なわざを成し遂げて、多くの人を生かしてくださるに違いないのです。