主日の朗読聖書 - B年 祭祝日

テーマ:きょう世にお生まれになった救い主

第一朗読:     イザヤ 52,7-10

あなたの神は王となられた

第二朗読:     ヘブライ 1,1-6

この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め

福音朗読:     ヨハネ 1,1-18

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 
メッセージ - B年 待降節

「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。

お言葉どおり、この身に成りますように。」

ルカ 1:38

待降節の最後の主日の第二朗読として聖パウロのローマ人への手紙の最後の言葉が読まれます。パウロは、読者の心に信仰を起こすために、この手紙の中で福音、すなわち神の秘められた計画を伝えたと書きました。ローマ人への手紙の中にパウロは、幸せになろうとして、人間的な知恵に頼る異邦人たちの姿と、律法にかなう自分の行いに頼るユダヤ人たちの姿を描いてから、両者の努力が無駄であると述べます。幸いに、人間に出来ないことが沢山あっても、「神に出来ないことは何一つありません。」

パウロが伝えた福音とは、神がイエス・キリストにおいて、預言者たちをとおして与えてくださったすべての約束を成就し、すべての人々のための救いのわざを成し遂げてくださったということなのです。神は、人間の最高の幸福となるこの救いをすべての人に与えたいと望んでおられるので、今パウロの言葉によって、この賜物を受けるようにと呼びかけておられるのです。救いにあずかるために、この呼びかけに応えて、神の賜物を受け入れる必要があります。それは実際に、自分自身の力だけで自己を救おうという無駄な努力をあきらめて、神の導きに従って生きるということを意味します。それは、人間が神を信じているとき、つまり自分や他の人よりも、神を信頼しているときだけ可能なのです。

イエスのお母さんとなったマリアは、そのような信仰に基づいた生き方の最も完全な模範を示しています。マリアは、自分の理性や善行よりも、神の知恵と神のいつくしみ深い愛に頼って生きていました。マリアのように、私たちが心を開いて、聖霊を受けるとともに神の愛と神の命を受け入れるならば、私たちは、大きな喜びと平和に満たされるだけではなく、神は私たちの中で、または私たちをとおして、偉大なわざを成し遂げて、多くの人を生かしてくださるに違いないのです。

 
釈義 - B年 待降節

第一朗読(サムエル下7・1-5,8b-12,14a,16)では、主なる神は、預言者ナタンを通して、ダビデ王に約束のことばを与えられる。「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」この福音について、パウロは第二朗読(ローマ16・25-27)で、秘められた神の計画を啓示するものであり、今やそれは現されて、すべての異邦人に知られるようになったと述べている。そしてそれは、イエス・キリストを通して栄光が神に世々限りなくあるようにするためである。福音書(ルカ1・26-38)においては、その約束通リに、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリア男の子が産まれ、その名はイエス(主は救われる)と名付けられる。わたしたちの父なる神の救いの意思が、人間の只中に、しかも人間の思惑や力を超えた神の霊の働きによって実現される。わたしたちは、この神の大いなる慈愛と救いの恵みを良き知らせ(エウアンゲリオン)として、信頼をもってマリアと共に受け入れるよう招かれている。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

 
主日の朗読聖書 - B年 待降節

 

テーマ: 神の選択

第一朗読:     2サム7,1-5.8b-14a

彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

第二朗読:     ローマ16,25-27

知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。

福音朗読:     ルカ1,26-38

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

 
主日の朗読聖書 - B年 待降節

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。