釈義 - B年 年間

第一朗読:    ヨブ7,1-4.6-7

ヨブ記は紀元前5世紀頃に書かれた書物だと思っている学者たちが多い。知識文芸の中で最も美しい書物である。ヨブ記の目的は「正しい人はなぜ苦しん でいるか」という質問の答えを探すことである。実は、最後までこの書物の中に望んだ答えは出てこないが人生と人間の尊厳を理解するために大変役に立つ教え がたくさんある。第1朗読の言葉によれば、人間の人生は仕事と義務をするための時間である。だから人間は僕(奴隷)である。

第二朗読:    一コリ9,16-19.22-23

パウロは若者の時にイエスと戦った。つまりイエスを信じているユダヤ人を迫害した(使徒9,1.4)。ダマスコへ行く間にパウロがこの戦いに負けて自分で イエスはキリストであるということを信じ始めた。敗者としてパウロはイエスの僕(奴隷)であるという意識があった。だからパウロにとって福音を述べ伝える という仕事をするのは最初から当前ことだった(使徒9、20;1コリ9、16.19)。第2朗読の言葉はこの気持を示す。

福音朗読:    マルコ1,29-39

イエスは特別な力を持っている方として、苦しんでいる人々を助けるためにこの力を使った。しかし、このやり方は社会的な活動の意味ではなく神の国が近づい ていたということを述べ伝える福音を証することであった。イエスは神の御旨を行うために人間の僕のような方になった。この業の目的は、イエスが行ったこと を見る人々が神に感謝して神の言葉を信頼するためである。

 
主日の朗読聖書 - B年 年間

テーマ: われらは僕である。

第一朗読:     ヨブ7,1-4.6-7

地上の人には苦役があるではないか。 その日々は日雇い人の日々のようではないか。 (Job 7:1)

第二朗読:     一コリ9,16-19.22-23

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 (1Co 9:23)

福音朗読:     マルコ1,29-39

イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」 (Mar 1:38)

 
主日の朗読聖書 - B年 年間

マルコ1・21-28
21イエスは、安息日に〔カファルナウムの〕会堂に入って教え始められた。22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者とし てお教えになったからである。23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに 来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、26汚れた霊はその人にけいれんを起こさ せ、大声をあげて出て行った。27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じる と、その言うことを聴く。」28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

 
メッセージ - B年 年間

「人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。」マコ1,27-28

イエスは、他の人よりも大きな力を示したので、彼の評判が早く広まって、大勢の人々がイエスのもとに集い、イエスに従うようになりました。けれどもイエスが逮捕された後、殆ど皆はイエスから離れてしまったのです。イエスを逮捕した人たちの方が、イエスより大きな力をもっていると思うようになった人たちは、イエスを迫害していた権力者の味方になって、彼らが望んだ通りにイエスの死刑を請求しました。

この人たちは、イエスから自分の利益になると思ったようなものしか求めませんでしたので、イエスと出会っても、イエスの行いや言葉の意味をまったく理解せず、イエスが彼らに一番与えたかった賜物、一番価値のあるもの、すなわち神の愛と神の命を受け入れることができませんでした。この意味で、イエスとの出会いを無駄にしてしまったわけです。

けれども、イエスは権力者たちに負けたように見えても、十字架に付けられたイエスから何も期待することが出来ないようになっても、イエスのもとにとどまった人もいました。彼らは、イエスを愛していましたので、イエスに従ったのは、何かしてもらうためではなく、イエスと共にいるため、またはイエスに奉仕するためでした。彼らは、愛の目で見たので、イエスの力強い行いにおいても、イエスの受難や十字架の死においても、無限の愛、あらゆる悪と死よりも強い愛を見出すことができましたし、この愛を受け入れることができたのです。

イエスに従っている私たちは、絶えず自分の動機を調べ、必要に応じてこの動機を正すようにしなければなりません。なぜなら、愛のためにイエスに従う人だけが、どんな力であっても破ることのできないほど強い絆でイエスと結ばれ、死を超える永遠の命にあずかり、本当に豊かに生きることができるからです。

 
釈義 - B年 年間

第一朗読(申命記18・15-20)では、モーセがイスラエルの民へ、主なる神からのことばを伝える。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。」その預言者は主なる神の命じることのみを語らねばならない。また、それに対して聞き従わない者にたいしては、その責任を追及すると。そのことと直接関連するわけではないが、パウロは第二朗読(1コリント7・32-35)で、差し迫った世の終わり(終末と主の再臨がすぐ来ると固く信じている)に対応するという意味で、次のように述べている。主のことと世のことに心を遣うならば、心が二つに分かれてしまうと。しかし、これはすべてのことよりも、あるいは、すべてのことを通して、わたし達がひたすら主に仕えるようになるためのパウロの配慮である。福音書(マルコ1・21-28)においては、モーセのような預言者の一人とも見なされたイエスの権威はモーセのそれをはるかに超えるものであることが描かれ、証しされている。会堂に入って教えられ始めたイエスのその教えに人々は非常に驚いた。なぜならば、他の律法学者のように仲介者モーセを通して与えられた律法の権威に依って教えられるのではなく、あたかも父なる神から直接与えられたかのような権威をもって教えられたからである。実際、そのことばは、命じた通リに実現する神のことばであった。