主日の朗読聖書 - C年 四旬節

ルカ13・1-3、11-32
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い 果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を 畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に 返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに 行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして ください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首 を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませ ん。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、 肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始 めた。
25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋 ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言い つけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなた のあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前は いつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

テーマ : 救いの業

第一朗読:ヨシュア5,9a.10-12

彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。 (Jos 5:12 JAS)

第二朗読:二コリント5,17-21

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 (2Co 5:21 JAS)

福音朗読:ルカ15,1-3.11-32

『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」(Luk 15:31-32 JAS)

 
釈義 - C年 四旬節

第一朗読:ヨシュア5,9a.10-12

エジプトから逃げて四十年間も砂漠を旅するユダヤ人は、神に保護された民族であった。困難な時に、彼らが生活できるように神から水、マナ、肉を貰った。その業の意味は、自分では出来ないことを神から貰うということである。

しかし、約束された地方に入った後、ユダヤの国民は自分で働いて生活できるようになったので、必要でなくなった神からの保護は止まってしまった。人間は自分で出来ることは自分でするはずだということが神の御旨である。

第二朗読:二コリント5,17-21

第二朗読の言葉は理解しにくいであろう。まず神は人間を愛するがゆえにこの世に御子を送り、罪を許すために必要な捧げ物として与え、死者から復活させた(5、19.21)。復活したイエスはすべての人間の主として人間を神と和解させた。パウロによれば、イエスは人間を救うための神の業である。というのは、イエスによって神は自分の救いの計画を完全にしたのである。イエスを信じている人々は神と平和がある人間である。パウロにとって神と行動するというのは、イエスを信じることである。

福音朗読:ルカ15,1-3.11-32

神はご自分で造られた人間を愛する神である。再び人間が神と一緒にいることが出来るように、神が救いの計画を完全にした。悔い改める心を持っている人はいつも神に戻ることが出来、神から犯した罪を許される。人間に対して神の愛は人間の罪より力がある。それが今日の福音書の基本的な教えである。

 
メッセージ - C年 四旬節

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」ルカ 15:31

ファリサイ派の人たちは、一生懸命に神の掟を守るように努力しましたが、自分たちほど掟を守っていないと思った人を軽蔑したりして、罪人に対する優しい態度をとることによっていつくしみ深い神の愛を現していたイエスまでを批判しました。最終的に彼等はイエスを憎んで、イエスを排斥することによって、神の子が伝えた神の招きと共に神ご自身の愛を拒んでしまったのです。

考えてみれば、人間から愛しか求めておられない神が私たちに掟を守って欲しいと望んでおられるのは、私たちが罰に対する恐れや何らかの報いの意欲のために忠実な奴隷になるためではなく、愛に満たされた神の子になるためなのです。神が求めておられるように生き、神が示してくださった道を歩む人は、必ず父である神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い人になるのです。ですから、他の人に対する無慈悲な態度をとり、自分の行いに頼る律法主義者になっていたファリサイ派の人たちは、掟を守っているように見えても、実際に神がこの掟によって示してくださった道を歩まなかったということが分かります。

私たちは、ファリサイ派の人たちのように正しく生きようとしていても、神を愛するようにならずに、神と共にいることが私たちにとって何よりも大きな喜びにならないならば、例え神の国に入ったとしても幸せにはなりません。なぜなら、神の国というのは、食べたり飲んだりすることや他の手段によって体の感覚を喜ばせるところではなく、神と共にいて、神の愛と命にあずかる状態であるからです。

私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストがご自分の言葉と行いを以て示してくださった道を歩むことによって、神の愛といつくしみをますます深く知り、神に対する信頼と神との愛の交わりを深めることができますように祈りましょう。

 

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

ルカ13・1-9
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2イエスはお答えになった。「そのガリラ ヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも 悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だった と思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言っ た。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8園丁は 答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もし それでもだめなら、切り倒してください。』」