メッセージ - C年 四旬節

テーマ:「人はパンだけで生きるものではない」

私たちは、自分で作ったご飯を食べ、自分の働きによって生きると思っている人が多いです。他の人々は、親、家族、地域社会、先輩、先生、又、大地の実り、技術的発見、富や国の権力などによって幸せに生きることができると信じています。こう言ったものは、人によって、また使い方によって善、また悪をもたらします。福音の中で、イエス様は聖霊によって導き出されて、これらのものから離れるようにされ、荒れ野に退かれました。キリストは、人も食べ物も自然の恵みも、社会が与える恵みも、何もなかった所で40日間過ごされ、空腹を感じられたと記されています。そこで、イエス様は悪魔から誘惑を受けましたが、それを退けられました。悪魔の言葉を借りると、「神の子なら」という表現は誘惑のポイントになりました。

イエス様は真の神と同時に真の人です。神が誘惑を受けることはあり得ないから、イエス様は人間として私たちと同じように悪魔から誘惑を受けたと言います。人間としてのイエス様は心の中で、自分が神の子だから出来ないことは何一つないのに、なぜ、砂漠で一人飢え渇く必要があるのでしょうか。なぜ、天使たちによって賛美されて人から誉れを受け、世界を支配してあらゆる富に満たされて神様らしく生きることはいけないのだろうか、という気持ちがあったに違いありません。しかし、このような誘惑は神について人間的な考え方によるものです。神の御心は自己中心ではなく、無償に与える愛です。

気持ちと心は違います。誘惑に負けることは、気持ちに従うことであり、誘惑を退けることは、神との出会う場である心に従うことです。神だからキリストは悪魔の誘惑を退いたわけではありません。もし、キリストが、神として誘惑に打ち勝ったならば、神と人、創造主と被造物の次元の大きな差のために、私たちの模範にもならず、私たちもキリストに従うことはできません。キリストは、イスラエルの民が40年間砂漠の中で受けた試練と誘惑を、御自分で40日の間に受けたという解釈もあります。イスラエルの殆ど皆は、環境、事情、指導者たちのせいにして罪を犯しました。しかし、イエス様は御心に従って罪を犯しませんでした。

四旬節を始めるに当たり、私たちはこの世にある様々な誘惑の中で自分の気持ちに流されて心を乱していないかを調べる必要があります。この季節は、節制、回心と善行で特徴づけられています。私たちは今、内面的な意味で聖霊によって何もない砂漠に導かれています。その中で、私たちも何によって生かされているかを再発見する必要があります。イスラエルは砂漠の中で「神の十戒(直訳:十の言葉)」を見出しました。神は、「見よ、わたしは、きょう、命と幸い、および死と災いをあなたの前に置いた。」(申命記30,15)と言って、神と共に生きるために命(神の言葉)を選ぶようにとモーセを通して呼びかけていました。砂漠は誘惑に負ける死を表現します。今日の福音のイエス様は、次の申命記の箇所を引用して誘惑を退けるための模範を残してくださいました。

「人はパンだけで生きるものではない。

人は主の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(申8,3)と。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

ルカ5・1-11 (年間第5主日)
1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧に なった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みに なった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シ モンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁 師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるよう に頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主 よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダ イの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、 彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 
主日の朗読聖書 - C年 年間

テーマ : 神に呼ばれた人

第一朗読:イザヤ6,1-2a.3-8

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」 (Is 6:8)

第二朗読:一コリント15,1-11

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。 (1Co 15:10)

福音朗読:ルカ5,1-11

「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 (Lk 5:10)

 
釈義 - C年 年間

第一朗読:イザヤ6,1-2a.3-8

第一朗読の言葉は「エマニュエル書」と呼ばれている文書の始めである(イザ6-12)。この言葉の歴史的な背景にはシリヤ-エフライム戦争がある(紀元前735‐734)。その時、イザヤが預言者になるべく神に選ばれた(イザ6,6)。彼の仕事はこの困難な時期に国民の希望を守るため、やがて現れる救い主について預言を述べ伝えることであった(イザ9,1-6)。ユダヤ人にとって神を見た人は必ず亡くなるが、イザヤの場合は異なる。イザヤにされた啓示(イザ6,1-5)の目的は命を取ることではなく彼を預言者にすることであった(イザ6,5)。

第二朗読:一コリント15,1-11

一致が無いコリント原初キリスト教の中にはイエスが復活されたということを信じていない人々もいた(1コリ15,12)。だから、イエスが復活されたと言う教えは最初からキリスト者にとって基本的な部分であった(1コリ15,3-6)。パウロにとっても復活されたイエスに会ったということが彼の信仰の源泉であった(1コリ15,8-10)。それだけではなく、イエスを信じるようになったサウロ/パウロは身体復活の教えを述べ伝えるため、イエスに選ばれた人になった(1コリ15,11)。

福音朗読:ルカ5,1-11

シモン・ペトロは漁師として自分の仕事に関することをよく理解していた(ガリラヤ湖では朝早くと夜遅くにしか魚がとれない)。だから、ペトロにとってイエスの行いは偶然ではなく、その人に特別な力があるということの証であった。この行いはペトロの信仰の源になった。信仰を持っているペトロはイエスの弟子になるために選ばれた。

 
メッセージ - C年 年間

「シモンは、「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。」ルカ 5:5

シモンがイエスに言われて、漁に出かけたのは、魚がとれると思ったというよりも、イエスに対する尊敬を示すためだったでしょう。しかし、魚がとれるはずのないその時に意外に沢山の魚がかかり、どんな時よリも沢山とれました。

それは、シモンにとって大きなショックだったでしょう。突然、大きな贈物、しかも自分が望んでいても、全然期待していなかった賜物を与えられました。シモンはイエスにこの望みを表したわけでもないし、頼んだわけでもありません。イエスは自ら、彼の望みを見分けて、それをかなえてくださったのです。

シモンの目は、この賜物に留まったのではなく、この賜物の大きさによって、それを与えてくださった方の愛の偉大さを見出しました。その時恐ろしくなりました。自分が罪深くて、弱い者で、この愛に全く相応しくないということが分かっていたし、どうしたらこの愛に応えることができるかということも知りませんでした。

イエスは、彼に安心するように言って、ご自分がおん父から与えられた使命に参加するように招きました。シモンは喜んでこの招きを受け入れました。なぜかというと、この招きを受け入れるのは、自分が体験したこの偉大な愛を受け入れること、この愛に応えることになると分かったからです。

私たち一人ひとりを愛してくださり、私たちの幸福を求めておられる神は私たちにも多くの恵み、多くの賜物を与えてくださいます。それは、私たちがこれらの恵みや賜物によって幸せになるからではなく、私たちがいつかシモンと同じように、それを通して神の愛を見出し、シモンと同じようにこの愛を受けることを求めておられるからです。最終的に、神の愛だけが私たちの心を完全に満たし、愛である神ご自身だけが私たちを完全に幸福にすることができるのです。