メッセージ - C年 四旬節

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』」ルカ 15:31

ファリサイ派の人たちは、一生懸命に神の掟を守るように努力しましたが、自分たちほど掟を守っていないと思った人を軽蔑したりして、罪人に対する優しい態度をとることによっていつくしみ深い神の愛を現していたイエスまでを批判しました。最終的に彼等はイエスを憎んで、イエスを排斥することによって、神の子が伝えた神の招きと共に神ご自身の愛を拒んでしまったのです。

考えてみれば、人間から愛しか求めておられない神が私たちに掟を守って欲しいと望んでおられるのは、私たちが罰に対する恐れや何らかの報いの意欲のために忠実な奴隷になるためではなく、愛に満たされた神の子になるためなのです。神が求めておられるように生き、神が示してくださった道を歩む人は、必ず父である神がいつくしみ深い方であるように、いつくしみ深い人になるのです。ですから、他の人に対する無慈悲な態度をとり、自分の行いに頼る律法主義者になっていたファリサイ派の人たちは、掟を守っているように見えても、実際に神がこの掟によって示してくださった道を歩まなかったということが分かります。

私たちは、ファリサイ派の人たちのように正しく生きようとしていても、神を愛するようにならずに、神と共にいることが私たちにとって何よりも大きな喜びにならないならば、例え神の国に入ったとしても幸せにはなりません。なぜなら、神の国というのは、食べたり飲んだりすることや他の手段によって体の感覚を喜ばせるところではなく、神と共にいて、神の愛と命にあずかる状態であるからです。

私たちは、イエス・キリストと共に生き、イエス・キリストがご自分の言葉と行いを以て示してくださった道を歩むことによって、神の愛といつくしみをますます深く知り、神に対する信頼と神との愛の交わりを深めることができますように祈りましょう。

 

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

ルカ13・1-9
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2イエスはお答えになった。「そのガリラ ヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも 悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だった と思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言っ た。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8園丁は 答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もし それでもだめなら、切り倒してください。』」

 
主日の朗読聖書 - C年 四旬節

テーマ :救いの計画

第一朗読 出エジプト3,1-8a. 13-15

神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」 (Ex 3:14 JAS)

第二朗読:一コリント10,1-6.10-12

みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。 (1Co 10:3-4 JAS)

福音朗読:ルカ13,1-9

番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし (Luk 13:8-9 JAS)

 
釈義 - C年 四旬節

第一朗読 出エジプト3,1-8a. 13-15

神がご自身をモーセに現わすまで、ユダヤ人たちは彼らの先祖たち(アブラム、イサク、ヤコブ)が神を信じていたということだけを知っていった。モーセが尋ねた質問には非常に深い意味がある。神の名は何かという質問の事実上の問いは、先祖たちの神がどんな神だったのかということと、本当にその神が存在するのかということである。ヤコブの死後四百年後や、奴隷の生活を強いられた時など、この質問がユダヤ人にとって大問題となった。モーセに与えられた答えは、「わたしはある」という表現である。その意味は、神が昔の方ではなく現在も存在する方であり、かつてユダヤ人の先祖を救われた方だからこそ今もユダヤ人を救われる方だということである。神を信じている人は神の業を見て神を知ることになる。

第二朗読:一コリント10,1-6.10-12

第二朗読の言葉はキリスト者に対する一つの厳しい教えである。それは、キリスト者になることだけでは足りないということである。キリスト者になった人にはキリスト者らしい信仰の道を歩む義務がある。この教えを証するのは、モーセの時期に神に反対するユダヤ人に対してされたことである。

福音朗読:ルカ13,1-9

福音書の言葉によれば、すべての人々は回心する必要がある。回心というのは神の御旨に反対する自分の考え方や生き方を変えることである。それをしていない人は突然に亡くなる。「突然」とは、準備が出来なかった人のことである。ピラトに塔で殺された人々は突然に亡くなったので罪のうちに亡くなった。だから彼らの将来は不安である。

イエスの言葉によれば、神はすべての人に回心するための十分な時間と恵みを与えられる。

 
メッセージ - C年 四旬節

「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

来年は実るかもしれません。」(ルカ13,8-9)

 

神の似姿として造られた人間は、罪によってその本性に傷がつけられているから悪へと傾いています。教会はこれを「原罪」と言います。人類には原罪について責任がありますが、弱さのために誘惑に負けたりする一人ひとりの私たちは、場合によって罪の犠牲者にすぎません。世間生活の中で愛がとても不足しているので、多くの人は善人として生活したいと思っていても、それを失敗することが多いのです。人を癒してくださったイエス様は度々、「あなたの信仰があなたを救った」と言っています。信仰によって、神御自身が私たちの内に働き、私たちはキリストとの一致の内に慈しみと愛をもって悪に打ち勝つことができるのです。

きょうの福音の中で、いちじくの木の例えを用いて教えるイエス様は、神様の働きを保証すると同時に、私たちの信仰を問いかけています。中東地域で年に4回も実を結ぶいちじくの木は、神の恵みと肥沃のしるしです。春には甘くとても良い実を結び、秋の収穫は割れて腐った質の悪いものが殆どです。したがって、聖書の中でいちじく木は人生の両面、神の似姿としての本性と同時に人間の堕落を表現します。いちじくの木の例えの中で、ぶどう園の御主人様は(父なる)神様で、園丁はキリストで、いちじくの木は私たち一人ひとりのことです。

ぶどう園では、実を結ばない木や枝を切り倒されます。同じように私たちは、もし実を結ばないなら滅びます。人間の本性にある傷を癒すために救い主イエス・キリストが来られました。善い実を結ぶように、園丁がいちじくの木の周りに土をおこしたり、肥やしをやったりすると同じように、キリストは、私たちが永遠の命の実を結ぶように愛の肥料となって、御言葉をもって頑な心を柔らげ、御受難と復活をもって秘跡の内に御自身を私たちのために永遠の命の糧となりました。

神様が人となって私たちを死に至るまで愛し抜かれたから、キリストの復活に与る弱い私たちは悪に打ち勝ち、キリストの愛を「樹液」にして良い実を結ぶことができます。これこそは生きた信仰生活です。それでも実を結ばない人は、罪の犠牲者であると言うことよりも、自らキリストの愛と救いを拒んで悪を選んだ者として自分の罪について責任を負うものなります。

四旬節は神様が私たちの心を掘って愛の肥料をたくさん与えられる恵みの時です。今、神に立ちかえれば、愛と永遠の命の豊かな実を必ず結ぶことでしょう。