釈義 - C年 年間

第一朗読:イザヤ62,1-5

第一朗読の言葉は第三イザヤ(イザヤ56-66)の一つの要素であると考えられている。この言葉は紀元前六世紀(520年ごろ)に書かれたと思われる。つまり、バビロニア時代に壊されたエルサレム神殿が建て直されている時期である。神に選ばれた預言者の活動は、国民を慰め、国民が熱心に国を立て直し、栄光的な将来のために希望を持って良く働けるようにすることである。

ナザレの会堂でイエスが朗読をする時、この言葉を読んだ。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4,18-19)。

第二朗読:一コリント12,4-11

第一コリント使徒への手紙は、さまざまなキリスト者のグループが一致をもって一つのコリント教会作ることが出来るように書かれた書物である。このさまざまなキリスト者のグループはイエスの教えに従って、互いに良い関係を作ることが出来なかった。その理由はコリントのキリスト者の間に妬みや争いがあったからである(1コリ 3、3)。一つの大きな問題は聖霊の賜物であった。この賜物がキリスト者の間で争いのもととなった。パウロによれば、すべての賜物の泉は聖霊である。すべての聖霊から貰った賜物の目的は唯一教会を作ることである。

福音朗読:ヨハネ2,1-11

ヨハネによる福音書の中で、カナ行った奇跡がイエスの最初の徴である(2,11)。この奇跡の目的は、困っている人を助けることだけではなく、自分の栄光を現すという意味もあった。これにより、弟子たちがイエスを信じ始めるのである(2,11)。神に選ばれた方は自分自身を証しできることを証明することが必要だった。この証明は驚くようなことや不思議な業や奇跡などであった。

 
メッセージ - C年 年間

 

「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」 (ヨハネ2,5)

 

ガリラヤのカナでの婚礼でキリストが最初の奇跡を行ったという福音の中でいくつかの出来事は私たちに大きなメッセージを送っていると思います。

すなわち、①結婚する花婿と花嫁がだれだったかは教えられていません。そこに弟子と共にキリストと聖母マリアがいたことが分かります。②ぶどう酒が足りなかった時に、キリストが自ら奇跡を行おうとせず、聖母マリアは無理にお願いした様子が分かります。③イエス様が助けを約束していないのに、聖母は召使たちに、イエス様の言うとおりにするように言いました。④清めに用いる水がめをいっぱいにした召使にイエスは、そこから酌んで宴会の世話役に注ぐように命じました。水だと思った召使は失礼になって自分の仕事を失う不安があってもキリストに従いました。⑤キリストが水をぶどう酒に変えた奇跡を婚礼の客と世話役に知らされず、ご自分の弟子と召使だけに分かるようにされました。⑥キリストは最後に一番いいものを残して置かれました。

 

イエス様は救い主の使命を婚礼から始めたのは、最後の晩餐の時に神様とその民を結ばれる新しい契約の前印です。いわゆる、キリストは花嫁である教会の花婿となり、神と人が愛の内に一つに結ばれる喜びを予告します。奇跡を御自分の名誉のためにならないようにとキリストは配慮なさいます。しかし、御自分を産んだ母マリアの取り次ぎを退くことは有りません。

イエス様は、聖母を未来の教会の母と取り次ぎ者に致します。聖母マリアが召使たちに、イエス様の言いつけのとおりにするようにと勧めたのは、すべての人はイエスの御心に従って行うようにお薦めとなります。召使と弟子だけがこの奇跡に関わったのは、私たちもいつも主に仕え、キリストの弟子として救いの喜びを多くの人々に告げ知らせる使命を受けていると促しています。最後の「善いぶどう酒」は、人が試練の中で精錬された後に、「教会の花婿」であるキリストの愛を味わうことができる象徴となります。御告げの時に「お言葉のとおり、この身になりますように」と仰った聖母マリアは神様の偉大な恵みに与った経験があります。

だから、聖母マリアは今も、私たちにキリストを指し示して言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」 と。

 
主日の朗読聖書 - C年 祭祝日

ルカ3・15-16,21-22

15〔そのとき、〕 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 
主日の朗読聖書 - C年 祭祝日

テーマ :わたしの愛する子

第一朗読:イザヤ40,1-5.9-11

荒野に呼ばわる者の声がする。 「主の道を整えよ。 荒地で、私たちの神のために、 大路を平らにせよ。 (イザ 40:3)

第二朗読:テトス2,11-14;3,4-7

というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、 (テト2:11)

福音朗読:ルカ3,15-16.21-22

「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」 (ルカ3:22)

 
釈義 - C年 祭祝日

第一朗読:イザヤ40,1-5.9-11

第一朗読の言葉は第二イザヤの「イスラエルへの慰めの言葉」と呼ばれる章(イザヤ40-55)から取った部分である。この言葉の歴史的な背景にはバビロニア捕囚の終末の時期ということがある。イザヤにとってバビロニア捕囚は神から受けた正しい罰であった(40,1-2)。この罰の目的は、ユダヤ人たちが罪の道を歩むことをやめ、心を改めて神のみ旨を行う道に戻るということであった。この時期は「神の道を整える」と呼ばれた時期である(40,3-4)。神の道を整える時期の目的は神の栄光が現れるということである(40,5)。この現れた神の栄光とはイスラエルを救うことである(40,10)。キリスト教の解釈では、10行の言葉はイエスに関連する。

第二朗読:テトス2,11-14;3,4-7

第二朗読の言葉は、キリスト者がこの世を旅する時にどのような生活をするべきかということについて説明するものである(2,11-12)。この論理的な教えの元は二つの重要な神学的な教えである。まず、終末論的な(2,13)教えとして、キリスト者の希望を示す。次に、救済論的な(2、13-14;3、3-6)教えとして、人間に救い主がイエスであるということを表している。神のいつくしみと人への愛の徴はイエスの行いである。

福音朗読:ルカ3,15-16.21-22

洗礼者ヨハネは神の道を整えるために活動をした。彼はメシアではなく、荒野で叫ぶ者であった。彼の水による洗礼は罪を許すだけのためであり、人間を救うことは出来ない。許された人はこの世で犯した自分の罪に対して罰を受けないという安心を感じた。しかし、その人は再び罪を犯すので救われることは出来ない。モーセの律法を守らないからである。メシアとしてイエスは聖霊と火の洗礼を授ける。聖霊とは神のみ旨を行うために必要な力である。火とは人間の熱心な心である。罪から開放されるためには、神の力(業)だけで足りる。つまり、人は自分の力で罪から開放させることはできない。しかし、神からただで貰った聖霊の力の内に生きている人は罪を犯さないことが出来る。それには人のほうから熱心に聖霊の力と協力することが必要である。いずれも、人間が神の子イエスからただで貰ったものである。