釈義 - C年 復活節

第一朗読:使徒言行録5、27b-32. 40b-41

使徒言行録1章12行から5章42行まではユダヤ教と原初キリスト教に関する部分である。第一朗読の言葉はこの最初の部分の結論である。最も大切な教えは、使徒たちの「ユダヤ教の議会に従うより神に従うべきです」という言葉である。「神に従うべき」という表現の意味は、原初キリスト教が神の御旨の通りに作られた運動である(29行)ことを表している。次の文(30行-32行)は三位一体の教えと関係がある。神はイエスを復活させた。復活したイエスは神の右に上がり、イスラエルの救い主になった。それが事実であるということを証するのは聖霊である。大祭司にとってこのペトロの言葉は冒涜であった(40行)。その時から原初キリスト教の迫害が始まった。

第二朗読:黙示録5、11-14

黙示録4章から11章までの章は福音者ヨハネの啓示と呼ばれる部分である。その中の4章から5章までは小羊の栄光と呼ばれている。殺された小羊はイエスである。イエスは神の右に上げられて天使や聖人や生き物から栄光を受ける。イエス以外神から巻き物を受けることは誰にもできない(12行)。この言葉の意味は、イエスが主であるということである。

福音朗読:ヨハネ21,1-19

21章はヨハネによる福音書に後に付け加えられた部分である。最初は、ヨハネによる福音書は20章30行で終わっていた。21章を加えた理由はペトロの将来や福音者ヨハネの将来について説明するためである。ヨハネ21,1-19ではイエスがペトロを使徒の頭として選ぶために(15-19行)ガリラヤで弟子たちに現れる(1-14行)。福音者ヨハネによれば、教会の頭になる方は誰よりイエスを愛するべき筈なのである。

 
メッセージ - C年 復活節

「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」 (ヨハネ21,15)

復活したキリストは、今日の福音が知らせているように、使徒ペトロを泣かせるほどに御自分に対する愛を問い質します。その数年前に、夜通し漁しても魚が獲れなかったペトロは、初めてキリストに出会います。そして、共に漁に出ると大量の魚がかかったので、ペトロはキリストを信じるようになりました。その純粋な信仰の故にペトロは、自分の罪深さを実感し、愛の足りなさに気付き、自分が相応しくない人間としてキリストとお別れしよう思っていました。しかし、キリストがペトロをありのまま受け入れたので、彼は弟子となりました。

イエス様が御自分のことをどう思っているか、と弟子たちにお尋ねした時に、ペトロだけは、神の子、メシアだと言って信仰告白することができました。キリストが御自分の体を、命の糧としてお与えになると教えた時、殆どの弟子がこれにつまずいたが、ペトロだけは、「あなたをおいて誰の所に行きましょうか」と言って、信仰を証ししました。キリストは、ペトロの信仰を誉め、未来の教会の土台にすると言いました。そして、キリストが御自分の死と復活を予告していた時に、ペトロはキリストを止めようとして、代わりに受難を受けたいほどの忠実さを見せました。しかし、それは同時に神の思いを無視することになっていたので、ペトロは邪魔な者としてキリストに厳しく叱られました。その根拠は、ペトロが三度も、逮捕されたキリストを知らないと言って裏切ったということで裏付けられています。

ペトロがキリストから離れたが、キリストは、友のために命を献げる最大な愛を十字架上で実現し、ご復活なさって最初にペトロに所に来て、御自分に対する「アガペ」(原文用語) の愛、いわゆる、無条件、無償に与える自己奉献の愛を尋ねます。ペトロは正直に、その愛ではなく、「フィリア」(原文用語) の愛、いわゆる人間的な友情しか持っていないと答えます。それにもかかわらず、キリストはペトロに御自分の羊の群れである人類を、「アガペ」の愛で養うようにとお頼みになります。3回もキリストに愛を問われたペトロは、自分の無力のために涙を零します。

ペトロでさえにできなかった「アガペ」の愛は、私たちには簡単にできるはずはありません。キリストが御復活なさったのは、私たちの内にその愛を実現するためです。キリストとの一致の内に私たちも「アガペ」の愛を生き、キリストの復活の命に与ることができるのです。

 
主日の朗読聖書 - C年 復活節

ヨハネ20・19-31


19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、 この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵が かけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 
主日の朗読聖書 - C年 復活節

テーマ :父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします

第一朗読 使徒言行録5、12-16

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。 (Act 5、14)

第二朗読:黙示録1,9-11a. 12-13, 17-19

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 (Rev 1、9)

福音朗読:ヨハネ20,19-31

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 (Joh 20、21)

 
メッセージ - C年 復活節

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。」

詩37・5

能力や生産性が人間の価値を評価する基準になっている社会に生きている人にとっては、競争が人生の基本的な原理となり、その人には自分をいつくしんだり、他人をいつくしんだりするようなゆとりがなくても不思議ではありません。その人は、神との関係においても、神の恵みといつくしみに頼るよりも、自分の力と功徳に頼るでしょう。それゆえ、神は聖であり正義であると信じても、神は善であり、いつくしみ深い方であることをなかなか心から信じることができず、神を愛する代りに神を恐れている人、喜びと平和の源である神に近づこうとする代わりに、神から逃げようとしている人が大勢いるのです。

「いつくしみ深い神」という回勅の中で、教皇ヨハネ・パウロ二世は、そのような現代に生きている人々に、神のいつくしみについての偉大な真理を新たに意識するように、また、このいつくしみを願い求め、それを実行するように呼びかけています。教皇は教会に、また、すべての人々に確かな模範を示すために、神のいつくしみについて力強く語り、神のいつくしみへの礼拝について教え、神への信頼と隣人へのいつくしみに生きたシスター・ファウスティナを2000年4月30日に聖人にあげて、復活祭の次の日曜日(復活節第2主日)を神のいつくしみの主日として定めました。

神のいつくしみの主日を祝い、聖ファウスティナの使命とそのメッセージを通して、一人でも多くの方が神のいつくしみの深さを知り、「イエスよ、あなたに信頼します」という言葉が表す霊性に生き、喜びと平和を味わうようになるようにお祈りいたします。