メッセージ - B年 年間

朗読: 第一朗読 エレ23:1-6

第二朗読 エフェ2:13-18

福音朗読 マコ6:30-34


時代によって、または国や文化によって理想的なリーダーは若干違うかもしれません。しかし、どの時代や社会においても理想とされるは、人々のことを最優先するリーダーです。聖書は繰り返しイスラエルの理想の指導者について語っています。イスラエルをエジプトから導き出したモーセ;士師として活躍したサムソン、イスラエルを偉大な王国として建てたダビデ王など、多く指導者が登場しました。しかし、モーセやダビデのような偉大な人物でさえ、それぞれにリーダーとして不届きなところがあります。それでも神はイスラエルのために理想の牧者がやがて登場することを約束し続けました。「みよ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は収め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う」。

預言者エレミヤがこれらの言葉を語ってから約六百年後にその日が来ました。「主は我らの救い」という名の牧者、「イエス」が民の前に現れました。ダビデのための正しい若枝は、ダビデよりも遥かに偉大な方です。彼はダビデのように敵を倒すために民を率いるのではなく、「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」ました。彼はモーセのようにイスラエルの民に立法を与え、動物の地で契約を結んだのではありません。彼は、ご自分の血を持って「規則と戒律ずくめの立法を廃棄されました」。

エレミヤが語ったように、「主は我らの救い」という名の牧者、「イエス」は、群れを散らす牧者ではなく、迷い出る羊を見つけるまで探しに出かける良い羊飼いです。「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教え始められた」。理想の羊飼い、理想の指導者、理想のリーダーはいつも自分のもとに置かれている人々のことを最優先します。理想のリーダーは、自分の休み時間も、自分の健康状態も、自分の楽しみも、そして、自分の命さえも惜しまないということです。

エレミヤの口を通して約束された理想の羊飼いはイエスのこと、神御自身のことです。我々は皆、傷ついた羊、時に群れから外れる羊、誠の羊飼いを探し求める羊です。神の内に憩いの場所を見つけるまでは。

 
メッセージ - B年 年間

「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」マコ6,7-13

イエス・キリストが十二人の使徒を遣わしてくださったように、洗礼を受けて、イエスの弟子となった私たちをも、神の国を証するように遣わしてくださいます。もしかして、使徒たちが与えられたような権能を与えられていないかもしれませんが、自分の使命を果たすために、十分な力を与えられているのです。

実は、イエスから与えられた使命を忠実に果たすために、最も大事なのは、与えられている力の大きさではなく、イエスに対する私たちの信頼の強さなのです。

というのは、使徒たちが与えられたような偉大な権能を与えられていても、彼らが人々に受け入れられないことがあったように、私たちも受け入れられないことがある可能性がありますし、彼らが迫害されて、殉教したように、私たちも、いろいろな形の迫害に直面することもあるかも知れません。そのときには、イエスに信頼しなければ、自分の働きには意味がないとか、これに伴う危険や実際の苦しみが大きすぎると思ったりして、使命を裏切る恐れがあるのです。

けれども、イエスに信頼すれば、どんな状況においても、すなわち、人々に受け入れられているときにも、受け入れられていないときにも、順境にあっても、逆境にあっても、イエスから与えられた使命を果たすために、全力を尽くことが有意義なことであるという確信をもつことができます。

というのは、地上においても、天上においても、キリストご自身の働きを無駄にしてしまうような力がなく、人々がイエスに協力していても、反抗していても、キリストと共に私たちに近づいた神の国が必ず完成されるのです。また、私たちの証には、だれ一人としても積極的に応じる人がいなくても、私たちの働きが決して無駄にならないのです。なぜなら、イエスには、私たちの良い実を結ぶ働きのみならず、私たちが直面する苦しみや、私たちの失敗さえも、救いの計画を実現するために利用する力があるから、また、この働きが誰にも役に立たないように見えても、少なくとも、私たち自身にとって、神の国という賜物を受けるための心の準備になるからです。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音では、会堂長ヤイロの娘のいやしという物語の中に、もう一つ別のいやしの物語、十二年間も出血していた女の人の話が入り込んでいます。二つのいやしの物語が交錯し、つながりがないように見えて戸惑いますが、しかしそこには共通することがあります。
イエスは、自分に触れていやされた女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。元気に暮らしなさい」と語りかけました。そして娘が亡くなったという知らせを受けたヤイロには「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、その娘には「起きなさい」と呼びかけました。両者に共通するのは、信じることが必要であるということ、いやしとは単に病気がなくなり命が助かることではなく、起き上がって、喜びを持って生きる力をもらうことである、という点です。
第一朗読の知恵の書では、神は命を与え、生かすためにこそ万物を造られた、と言われます。第二朗読のコリントの教会への手紙では、パウロが、主から恵みを豊かに受けているのだから、自分も他の人々に対して豊かに与える者になるようにと呼びかけます。
私たちは自分が豊かに与えられているという信仰に基づいて、力を受けて立ち上がり、いやしを頂いて歩み続けます。そしてその歩みの中で、神の恵みに応えてお互いに与え合うことが求められています。

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お知らせ - お知らせ

聖書を生活の中で共に歩んでゆく身近な『友』とすることができるように、神言会聖書使徒職委員会では「聖書を『友』にする講話シリーズ」と題して、様々なテーマから聖書にアプローチする講話シリーズを始めることになりました。今回は以下の通り、「芸術」をテーマにお届けします。


聖書を『友』にする講話シリーズ 第1回

テーマ「聖書と芸術」

日時:2018年7月7日(土) 午後3:30~4:30

場所:カトリック南山教会 大聖堂 (名古屋市昭和区南山町1)

講師:ヤコブ・ライチャーニ師 (神言会司祭・南山大学准教授)


申し込みなどは不要です。お待ちしております。

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メッセージ - B年 年間

今日の朗読から浮き上がってくるテーマは「神の国」であり、また、それに属するための条件としての「信仰」です。キリスト者にとって、それはとても身近なものでありながらも、描写や説明しにくい現実です。とにかく、イエスの喩えから分かるのは、まずそれが弱くて傷つきやすいものだということです。少なくとも、芽生える時にはちっぽけなものにすら見えます。最初は説得力がなく、人から侮られたり笑われたりします。誰もそれに目を向けてくれません。それから、もう一つの特徴としては、もちろん人間の自由に委ねられてはいますが、ある意味で人間の努力に依らないものだということも見受けられます。一度神の呼びかけに答え、土台を据えたら、あとは何をしなくても神の力によってこの業が自然に大きくなっていきます、それを邪魔さえしなければ…。ただ、人間の傲りによって、やはりその結果を早く見たいし、しかも大きく見せたいということも見られます。信仰が自信や自慢と程遠く、過程であり、忍耐強く謙遜な人にしか委ねられません。ですから、信者として一番大事なことの一つは、「何もしないで神に任せる」ことと「自分でできるから、やってみせる」ことの間のバランスを見つけることなのではないでしょうか。

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