メッセージ - C年 四旬節 |
ルカ福音書が描いた十字架上のイエスの姿を一言でまとめると、それは祈りの内に最後を迎えるイエスの姿でした。十字架のそばにいる弟子たち、婦人たち、そしてイエスを十字架につけた人々が最後に見たのは、苦しみの中で祈っているイエスの姿でした。その祈りの中で、イエスは自分の命を御父に委ねます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。その前に、イエスは自分を十字架につける人々を許すように御父に願います。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。極限の苦しみの中にあっても、イエスが愛する弟子たちに最後に見せたかったのは、祈っている自分の姿です。
ところで、その祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という言葉は何を意味しているのでしょうか。20世紀最大の神学者と言われるカール・ラーナーは、この言葉について次の様な興味深いコメントを残しています。「イエスを十字架に架けた人々は自分たちがやっていることを本当に知らないのだろうか。そんなはずはない。彼らは自分たちがやっていることを知っているに違いない。自分たちがやっていることは間違っているということを知っているはずだ。イエスが無罪であることを知っている。少なくとも自分たちはイエスに対する嫉妬でイエスを十字架につけることをどこかで自覚しているはずだ」と。私たちが悪いことをする時にそれが悪いことだと自覚しているのと同じように。人間の良心は簡単に狂うものではない。イエスご自身もそれを知っているはずです。そうだとすれば、イエスの祈りは何を意味するのでしょうか。自分を十字架につけた人々が知らなかったのは何でしょうか。
ラーナーによれば、彼らが知らなかったことは、単なる表面的な自覚ではない。つまり、イエスを十字架につけたという行為を知らない、自覚していないということではない。彼らが知らなかったのは、自分たちが十字架につけたその人に、どれだけ愛されているのかということです。彼らは自分たちの行動を知らないはずはない。自分たちの策略を自覚していない訳ではない。しかし、もっと深いところ、自分たちが十字架につけているのは自分たちを愛してやまない神の子、神ご自身だということを知らないのです。
私たちも生活の中で神の愛、親の愛、家族や友人など周りにいる人々の思いやりや優しさに気づかないまま、それを裏切る時が度々あるのではないでしょうか。もしもイエスを裏切ったユダ、イエスの死を計画したユダヤ人の指導者たち、十字架刑の判決を下したピラト、イエスを鞭打って手足を釘で打った兵士たちがイエスの思いを知っていたならば、……。どれだけ自分たちが愛されているのかを知っていたならば、……。人の優しさ、思いやりを自覚のないままに裏切ることは私たちも日々経験しています。イエスの十字架の上からの祈りは、私たちが受け取っている愛に気づくようにという祈りです。今ここで自分を愛してくれている人がいることに気づくように、という祈りです。たとえその愛が、日常の小さな出来事の中のものであっても。人の思い、人の優しさ、心遣いに気づかないが故に、私たちが取り返しのつかない過ちを犯してしまうことを、イエスは十字架の上からの祈りを通して私たちに教えているのではないでしょうか。
最後まで十字架の上から祈るイエスと共に聖週間を過ごすことが出来ますように。
メッセージ - C年 四旬節 |
きょうの福音に記された主イエスより「罪の赦しの宣言」にもとづいて、考えていきたいと思います。
まず、主イエスは女性に、「わたしもあなたを罪に定めない」と赦しの宣言をされました。これは、イエスが女性の犯した罪を曖昧にしたり、見逃していると言う意味ではありません。むしろ、イエスはこの女性がその罪を断罪され、処刑されることを望まないのです。どんなに重い罪を犯した者も死ぬのではなく、生きることを望んでおられるということです。
そして、もう一つ注目したいのは、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない」ということだけではなく、「今からは決して罪を犯してはなりません。」と命じられました。それは彼女のいのちだけでなく、彼女の人生を救うために必要なことばでした。イエス・キリストが与えられる赦しは罪を容認するものではありません。私たちが罪を赦されたことを感謝し、犯してきた罪を悔い改めて、神様の御心の中に歩むことを願っておられるのです。
私たちも犯した罪を神様に赦して頂きながら日々を歩んでいますが、ただ赦して頂くだけではなく、赦して頂いたことへの感謝の気持ちをエネルギーとして、自らが置かれた場において、赦された者に相応しい新しい歩みを進めることが求められているのだと思います。罪を赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろん、そこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。
イエスさまが、あるがままの自分を赦し、受け入れ、大切にしてくださっていることをいつも確認しましょう。そして、自分も自分自身を赦し、受け入れ、大切にしましょう。
メッセージ - C年 四旬節 |
今日の福音朗読の箇所は、もちろん誰もが知っている有名な放蕩息子のたとえ話です。このお話の中で、放蕩の限りを尽くした弟息子が父親のもとに帰ろう、と決心したとき、彼は心から生き方を改めたわけではありませんでした。すべてを失い、飢え、これからどう生きていったらいいかわからないとき、思い浮かんだのは父親でした。父親を捨て顔向けできないことをしてきたけれども、それでも「父親のところならば大丈夫だ」「雇い人としてでも受け入れてもらえるだろう」という思いだけで父親のもとに帰りました。何の罪滅ぼしもできない惨めな姿をさらしてでも、恥ずかしい思いをしながらでも、父を信頼していました。
私たちの回心や立ち返りも、一つ一つの細かい行動を反省して直し、欠点をすべてなくす、ということではありません。自分の良い所も悪い所も、感謝も喜びも、悲しみも不安も怒りも、ありのまま誠実に神に向かうことです。私たちは、自分でも目を背けたくなるような自分自身の欠点を、罪を、卑しさや汚らしさを認めて、神の前にさらけ出して見せることができるでしょうか。自分が悪かったことを素直に認められるでしょうか。禁断の実を食べた後に神の顔を避けて隠れたアダムや、献げ物が神に受け入れられずに怒って顔を伏せたカインのようになっていないでしょうか。
私たちは自分自身と、周りの人と、そして神とまっすぐ誠実に向き合うように招かれています。たとえ話の中で、父親は兄息子の真面目さを評価してはいますが、同時にこの兄息子が父親である自分に対して、そして弟に対してまっすぐ向き合おうとせず、顔を合わせようとせず、背を向けていることに心を痛めています。
メッセージ - C年 四旬節 |
皆さんは『生きることはチャンスだ』という歌を知っていますか。これは、霊的なインドネシアの歌です。その中に、こんな歌詞があります。「この生きることは チャンスだ。この人生は神に仕えるためのものだ。 神が与えてくださる時間を無駄にするな、この人生はすでに祝福されている」。この曲はシンプルに聞こえますが、人生についてのとても深いメッセージが込められているではないかと思います。よく考えると、人生は、神から 祝福される最高のチャンスであり、だからこそ、いつか豊かな祝福を受けることができるように、自分の人生を賢く使って、神と他の人々に忠実に仕えましょう。
今日、読まれた朗読では、「悔い改め」について深く描いています。第一朗読と第二朗読では、選ばれた国民として神からの大きな恵みを経験したイスラエルの民の旅路が語られます。 神は彼らにすべてを与え、特に信仰と信頼を深めるための特別な時間を与えられました。しかし、不誠実な者は滅びを経験します。そのため、パウロは、「立っているとおもうものは倒れないように気をつけなさい」と忠告しています。ルカの福音書では、実を結ばないいちじくの木のたとえで、イエスは神が私たちに悔い改める機会を与えてくださることを示しています。神は私たちの人生に実を結ばせることを望んでおられます。これは、たとえ私たちが罪のために失敗したとしても、神は私たちが悔い改めの実を結ぶことができるように、自分の罪を後悔し、改善し、悔い改め、正しい道に戻る機会をいつも忍耐強く与えてくださるということを思い出させてくださいます。しかも、私たちには時間だけでなく、御ひとり子イエス・キリストの犠牲によって大きな愛も与えられています。
四旬節は、神が私たちに与えてくださった祝福された特別な時です。この期間中、私たちは自分自身を内省し、罪を悔い改め、優しさ、誠実さ、赦し、愛、奉仕の実を結び、私たちの人生が多くの人々にとって祝福となるよう、この期間を最大限に活用するよう、今日のみことばを通して招かれています。そのために、私たちは心の目を開き、まだ私たちにまとわりついている罪のほこりを洗い流し、人生で受けた神の恵みに浸り、共に、祝福の日を正しい心で迎えることができるようにしましょう。
メッセージ - C年 年間 |
「心の思いは話を聞けばわかる。… 言葉こそ人を判断する試金石である」。第一朗読のシラ書の言葉です。福音書のイエスの言葉で言えば、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と。
「イエスは人々を見て哀れに思う時に、本能的に教えはじめる」、とある聖書学者は言っています。確かにその通りです。イエスを追いかける人々は、日常生活を超えて、人生に意味を与える言葉を求めています。先が見えなくて、希望を失った人々は励ましの言葉を求めています。罪にまみれて、そこから抜け出せない人々はゆるしの言葉を求めています。人々が探し求めるのは「言葉」です。希望の言葉、ゆるしの言葉、もう一度生きる力を与えてくれる命の言葉が求められていることをイエスはよく分かっておられるのです。
人々がイエスのところに集まって来るのは、イエスの言葉に力があるからです。その力はどこからくるのでしょうか。それは単にイエスは教えるのが上手とか、口がうまい、自信たっぷりで教えるという理由からではありません。イエスが権威を持って教えるのは、イエス自身がその教えの具現化、イエス自身がその教えを生きているからです。イエスの言葉を聞く人々はその言葉の中にイエスの生き様が反映されていることを感じ取っているのです。イエスの権威は、教えと生き方が一致していることから来ています。そのような言葉こそ人々に生きる勇気、新たな希望を与えるのです。イエスの言葉の中に、人々は自分の人生に必要な言葉を見出すことができるのです。イエスの言葉は、聞く人々の人生に深みを与え、命の源(神)との関係を深めるものとなります。ですから、イエスのことばを聞くために人々は集まってくるのです。
私たちも毎日お互いに言葉を発しています。日常生活の中でお互いに会話をしています。言葉を使ってコミュニケーションをするのです。しかし、その日常の言葉が、誰かにとって希望の言葉、ゆるしの言葉、もう一度生きる力を与えてくれる言葉、元気付ける言葉になった時に、日常の言葉は意味ある人生の言葉、深みを与える真実の言葉になるのです。そのためには、自分が言う言葉が自分の生き様にならなければなりません。そして、そのためには、まずは自分の心を磨き続けなければならないのです。イエスが言うように、「人の口は、心からあふれ出ることを語る」からです。