メッセージ - C年 年間

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)とは、よくもこれほど厳しく、実現するのが難しいことを命じられます。悪口を言う者、侮辱する者、暴力を振るい、奪い取ろうとしてくる者のために祈り、親切にするように、という福音朗読(ルカ6:27-38)のイエスの言葉は、とてつもないチャレンジです。

ただ、「敵を愛する」とは、「嫌いな人を好きになる」ことではありません。もちろん、好きになることができれば一番いいでしょう。けれども、どんな人に対しても、どんな時にも、そうするというのは無理な話です。

しかし、すべての人を常に好きになることはできませんが、嫌いなままであっても、少なくともその人のことも神が愛し、受けいれてくださっていることを認めるということであれば、それほど不可能ではないかもしれません。怒りや悔しさを感じながらでも、相手のことを尊重することはできるかもしれません。私たちにとっては、絶対に好きになることではなく、無関心にならないことの方が重要なのかもしれません。「嫌なことをされたら忘れなさい、なかったことにしなさい」というのではなく、それでも目の前の相手に向き合って、徹底的に関わるように求められています。もし何もなければ、そこに神の愛は働きようがありません。

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メッセージ - C年 年間

今日の福音には、自身の故郷であるナザレの会堂での場面が描かれています。この福音の中でイエスは、その人々に向かって「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と教えられています。イエスをよく知っていた故郷の人々は、イエスをよく知っていたがために、イエスの教えと行ったわざを素直に受け入れることができません。ましてガリラヤの出身で大工の息子であったということから、宗教的な教育もなく、特別な存在とは思われていなかったように思えます。それだけに、イエスの社会的な立場や出身だけに囚われて、イエスが伝えようとした神の言葉、神のわざを理解することができなかったように思えます。私たちにおいても、家族や友人などの近い人の言葉は、意外に素直に受け入れられないように思えます。しかし、そういった私たちの家族、学校や会社、私たちの生活の中にいる親しい友人など、一人ひとりの中にイエスがおり、その人々を通して、イエスは私たちに語り掛けています。

しかし福音の中で民衆たちはイエスの言葉を聞いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言い、その後のイエスの言葉を聞いて、町の外に追い出し、崖から突き落とそうとします。イエスという人を知っていたが故の偏見や思い込みであったように思えます。私たちにおいても、偏見や思い込みで人の助言や考えを受け入れることができないことがありますが、だからこそ謙遜と人への尊敬の態度が必要になり、その中に神のことばを見出す必要があります。私たちは様々な国籍や地位の人々に囲まれながら過ごしていますが、イエスはすべての人々のために遣わされ、そしてすべての人々とともにおられます。私たちがその中に居られるイエスを見出すことが謙遜と尊敬の態度に繋がるように思えます。そして私たちは一時的には感情的になり、受け入れることができない助言や考えであっても、自分の中で「イエスならばどう考えるのか、どう思うのか」というイエスの視点になって、祈りのうちに人々とともにおられる神の導きを見出さなければならないのだと思います。

 
メッセージ - C年 降誕節

洗礼という出来事は、イエスの生涯において大きな転換点、ターニングポイントでした。この後、いわゆる公生活といわれる、新しい生き方、宣教活動を始めるからです。マタイ福音書やルカ福音書の誕生物語を除けば、大人となったイエスの生涯はここを最初の出発点として描かれています。

「洗礼」という言葉の元々の意味は「水の中に浸す、沈める」ということです。現代のキリスト教の洗礼でも、教派や教会によっては、頭の先まで全身を水に沈めるというやり方をとります。洗礼の説明として、水の中に沈められるのが象徴的に「死」を表し、水中から出てくることが、死を通り抜けて「新しく生まれること」を意味しているのだ、とよく言われますが、そういう意味で洗礼が第二の誕生と言われるのもよく理解できます。

主の洗礼を祝うとき、キリスト者は同時に自分自身の洗礼の意味を再確認します。私たちは母親から生まれ出てきて、命をいただいて生きる者となりました。その後、洗礼を受けることによって、キリスト者はその命に明確な意味を与えられます。ただ生きるのではなくて、イエス・キリストの歩みに従って生きる者となります。洗礼を通して、命が、人生が、イエス・キリストに結びつけられ、神の国の福音に方向づけられます。

キリスト者にとって洗礼は一度きりのことですが、終わってしまった過去の出来事ではなく、この新しい命、生き方にいつも立ち戻って、日々新たに生きていくことです。

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メッセージ - C年 降誕節

今年は少し早いのですが、今日は公現祭(エピファニー)を祝います。先日読まれていた福音と違って、主人公は羊飼いたちでも聖家族(マリラとヨセフ)でも天使でもなく、異教徒の学者たちです。厳密に言えば、3つのカテゴリーの登場人物がいます。

(1)ヘロデ王はユダヤ人のはずですが、侵略者であるローマ人と仲良くして、自分の権力を保つために色々と妥協をする人です。そのためにローマ帝国からも許容されています。とにかく何としてでも王の位を自分のために取っておきたいことが特徴的です。他方で、神から遣わされた救い主は暴力など使って自分の支配を広げる必要もなく、愛と奉仕と自己犠牲によって人々の心を勝ち得ることになります。飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエスは、この高貴な服を着て贅沢な宮殿で恐る恐る暮らしているこの人間の王に遥かに優っています。

(2)律法学者はユダヤ人のエリートの知識人と指導者たちです。聞かれると、確かにメシアについての預言など色々知っていることが分かります。しかし、特にそれを深く信じて、待ち焦がれている印象は伺えません。社会で高い地位を味わっているにもかかわらず、宗教家としての自分の使命をまじめに果たさず、自分の利益のために習慣を守り行事だけ行っていたのではないでしょうか。それに対して、生まれてくるメシアは、真の礼拝をもたらし、ユダヤ人と異邦人との間の壁が壊され、神の言葉が書物として読まれるのではなく人間の心に刻まれる時代をもたらします。また、この律法学者たちが示しているのは、メシアの到来は突然の気まぐれな神の決定ではなく、かつてから計画されて、準備されて、預言されてきた出来事であるということです。

(3)異邦人の占星術の博士たちは、その数は定かではありませんが、贈り物の数から推定して3人だったという伝統があります。(特にドイツのケルン大聖堂にはその伝統がとても古くて盛んだそうです。)彼らは「星」というふうに表現されている何らかの印に従い、特別な身分として生まれてくるメシアに会いたいと切に願っています。ただの赤ちゃんでないイエスを来るべき王として拝む理由はなかったにもかかわらず、自然などに表れる神の導きに素直に従うことができました。メシアはやがて全ての国民の解放者、指導者となることを指し示しています。私たちも、聖書の約束に加えて、彼らのように日々の生活を通して印を与えてくださる神の指導に従うことができるようになると良いです。真理がどこに導いていっても、それを弛まず追求する恵みを願わねばなりません。それに、ただ好奇心を持ってではなく、公に自分を現す神であるイエスを熱い思いで、苦労を惜しまずに探し求める恵みも願おうではありませんか。

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メッセージ - C年 降誕節

今日、聖家族の祝日で読まれる福音では、少年時代のイエスが両親とともにイスラエルに上った時の話が描かれています。この両親はイエスがエルサレムに残っていることに気づかず帰りますが、イエスが居ないことに気づくと道を引き返しながら、三日間、イエスを探し続けます。そしてイエスを神殿の境内で見つけると、母マリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とイエスを叱っています。この場面は福音書の中でも、普通の両親の姿に近しい姿を感じます。マリアの一言は、福音書の中でも最も母親らしいのように思えますし、何も言わずに心配しイエスを探し続けるヨセフの姿も父親らしい姿と言えるように思えます。そしてイエスを心配する両親の姿は最も家族と言えるように思えます。この聖家族を祝う私たちですが、私たちですが、私たちが何故、聖家族を模範として崇敬しているのでしょうか?また私たちにとって聖家族がもたらす意味は何なのでしょうか?

マリアは当然のことながら、イエスの心配をしていた様子がその一言から読み取れます。一方でヨセフは聖書の中では一言も言葉を発していませんが、イエスが生まれてから、エジプトへ逃れたり、エルサレムに上ったりしているところを見ると、父親の存在と支えがあったからこそ、家族が守られていたように思えます。そしてそのことが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」という一言から伺えます。聖家族は神聖視されがちなように思われますが、母マリアと父ヨセフが、それぞれの仕方を通して、幼いイエスを守りながら生活していたということを考えたとき、普通の家庭と同じように互いに支えながら家族を守っていたように思えます。だからこそ私たちがそれぞれ家族、そして子どものことを想いながら、家庭を育むときに、その愛を主は祝福されています。そして私たちは家庭での愛を通して、神の愛が家族の愛を通して、知ることができるのだと思います。

また私たちの教会も一つの家族と言えます。各々がそれぞれの場で互いに奉仕し、支え合うとき、その奉仕が互いを想い、イエスの愛に繋がっているならば、そこにイエスが共におられるのだと言えます。奉仕の仕方は人それぞれですが、互いに愛で繋がっていることが大切であり、聖家族がそうであったように、私たちの絆をも主が祝福してくださるはずです。