メッセージ - B年 年間 |
典礼暦の終わりに「おわり」すなわち「完成」について考えています。復活祭に記念し、現在化して、祝ったキリストの勝利は今の生活にも少しずつ現れていますが、最終的な勝利と支配と完成は時の終わりにしか示されません。今は「神の国」が成長し、その成長に私たちが貢献すべき時ですが、終わりの時は「神は全てにおいて全てとなる」ことを私たちは待ち望んでいます。その希望に引っ張られてでないと、私たちは前進することはできません。それよりも早く勝手に地上に完全な正義をもたらそうとしても、それはユートピアに過ぎません。
神の国(ギリシャ語で言うところの「王国」)は現代人の私たちには馴染みがないかもしれません。しかし、イエスの時代にも多く勘違いされていた概念です。王としてのイエスはこの世界のどの王や政治家や権力者とも異なります。どの皇帝や大統領にもまして、キリストは私たち一人ひとりを個人的に愛し、自分の血をもって贖っていますから。また、イエスが治める国では、力やイデオロギーやお金ではなく、無力さ、静けさ、謙遜が最も大事な手段です。イエスは何よりもまず黙って、柔和な態度に優れている王なのです(マタイ21:5参照)。証しようとしていた「真理」(ヨハネ18:37)とは言葉の力によるものではありません。その部下にして仲間である私たちも、イエスのように、イエスと共に、真理を証ししつづけるしかありません、苦しむまで。
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典礼暦も終わりに近づき、聖書朗読箇所のテーマも「終末」に関するものとなっています。しかし、そこで大切にされるのは、終わりそのものより、終わりがある中で、世の終わり・私たち自身の終わりに向けて「今」を生きるために何が必要か、ということです。
第一朗読のダニエル書でも福音朗読(マルコ13:24-32)でも具体的な終末イメージが語られます。
「大天使長ミカエルが立つ・・・多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める・・・目覚めた人々は大空の光のように輝き・・・とこしえに星と輝く。」(ダニエル12:1-3)
「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき人の子が栄光を帯びて雲に乗って来る・・・人の子は天使たちを遣わし・・・選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マルコ13:24-27)
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13:31)
大切なのは 書かれていることが文字通り起こるかどうかではありません。天変地異が起こるかどうか、いつどのように世の終わりが来るかが問題ではありません。特に「終わり」についての描写は、未来と言うより、聖書が書かれた時代の迫害や困難を多かれ少なかれ反映したものです。
ですから、太陽が暗くなり星が落ちるということより、太陽や月や星までもが移り変わるものであるという状況の中で、私たちが今、何を頼りにして、支えにして、何に希望を持って生きるかが問われています。「終わり」がいつ来るか、どのように来るかわからないのを、ただ心配してもしょうがありません。すべて生きとし生けるものには終わりがあるが、終わりのないものがある、すべてこの世のものは滅びるが、滅びないものがある。その答えが、「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」というメッセージに表されています。
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今日の福音には、イエスが神殿の境内で弟子たちに教えている場面が描かれています。福音の中では、裕福で権力のあった律法学者とは対比的に、貧しく社会的立場も弱いやもめが如何に救いに近いかということをイエスは教えています。その中でもイエスは福音の中で1クァワドランス献金したやもめをみて、そのやもめが「誰よりもたくさん入れた」と教えています。多くの金持ちが有り余る金を入れているのに対し、やもめは生活費を全部入れたからであるとイエスは言われています。律法学者が権威を誇示していることに対し、やもめは自分の身を削りながら、自分のすべてを神に捧げたからであり、イエスはそのことをよく見ていたのだということは、福音の中からも理解することができます。
このやもめは、私たちに「献げる」ということの意味を教えているように思えます。私たちはそれぞれの時間、才能、財産を教会のため、また普段の生活においては周りの人々に捧げながら過ごしています。私たちにとって「献げる」ことは、才能の良し悪し、時間、財産の多い少ないが重要なのではなく、各々の持っているものを、神の導きに従い、出し惜しみすることなく神に献げることにあります。イエスは私たちのために自らの命を献げましたが、私たちもそれぞれの仕方で自らを献げるように招かれています。私たちがその招きに気づいたときに、自分のすべてを捧げることができるよう、祈りの中で生活をしていく必要があるのだと思います。
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今日の福音朗読にイエスは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」について語っています。多くの私たちにとってはあまりにも聞き慣れている決まり文句のようにも聞こえています。そして、この二つは表裏一体のもので、いつもワンセットになっていることが当たり前のように考えているかもしれません。しかし、ユダヤ教の律法(旧約聖書)には両者はワンセットにはなっていません。神への愛については、今日の第一朗読の申命記6章5節に書かれています。隣人への愛についてはレビ記19章18節で書かれています。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の質問に対して、イエスは一つではなくわざわざ二つ、第一と第二の掟を合わせてその質問に答えました。ユダヤ教的伝書の中でこのように神の愛と隣人愛が結び付けられる例は、他にはありません。いわばイエスの教えの特徴だと言えます。
ところで、神への愛と隣人愛の関係について、聖アウグスチヌスは次のように書いています。「神への愛は命令の順序では先ですが、隣人への愛は実行の順序では先です。・・・あなたが神をまだ見ていないので、あなたは隣人を愛することによって神を見るという、将来の報いに値するものになります。隣人を愛することによって、神を見るために目を清めます」と。聖アウグスチヌスの言葉から、イエスがなぜこの二つの掟を結びつけたかが分かります。第一の掟は第二の掟なしにはあり得ないということです。ですから、イエスは「隣人を自分のように愛することはどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」と言った律法学者を誉めた訳です。献げ物を捧げることが神への愛を表す宗教的義務としているユダヤ教にとって、律法学者の言葉は画期的なことです。彼の口から出た言葉はイエスが一番言いたかったことではないでしょうか。
しかし、隣人への愛は献げ物やいけにえよりも優れているからと言って、神への愛を蔑ろにしていいという意味ではありません。むしろ、隣人愛は神への愛の実現とならなければならないということです。その意味で、第二朗読にあるように、大祭司イエスは十字架の上でご自分をいけにえとして神に捧げることになりますが、それは人々への愛のいけにえに他なりません。イエスの十字架の死は神への愛と隣人愛の極限的な形だということです。いわば、神への愛と隣人愛が本当の意味でワンセットになっている瞬間です。
私たちの隣人愛の足りなさは、もしかすると、神を愛することと区別していることが一つの大きな原因かもしれません。言い換えれば、欠点だらけの他人の中に神を見ることが出来ないということです。しかし、聖アウグスチヌスの言葉にあるように、神を見るための目を清めるには、隣人愛の他に方法はないということです。
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今週の福音(マルコ10:35-45)では、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスが栄光を受けるとき、その左右に自分たちを据えてほしい、と願います。主と仰ぐ方の隣に席を与えられることは大きな名誉でしょうが、単なる虚勢ではなく、それに見合う意気込みも見せます。「わたしが飲む杯を飲むことができるか」と問うイエスに対し、二人は自信満々に「できます」と答えている通りです。
この「杯」は、後に祭司や律法学者たちの手先に捕らえられる前、ゲッセマネで祈ったイエスの言葉、「この杯をわたしから取りのけてください」に言い表されている苦しみのことでしょうが、たとえその苦しみの杯を飲むとしても、二人がどこに座るかはあずかり知らぬことだ、とイエスは語ります。
ヤコブとヨハネは、確かにイエスへの忠実さを貫こうとし、一心にイエスに向かっていきました。けれども、彼らの視界からは、自分たち以外の十人の使徒たちや、他の人々は排除されていました。結果、十人が二人の兄弟に腹を立てたのは当然の反応でした。そこで、イエスはこの後に12人を呼び寄せ、彼らが皆に仕える者となり、すべての人の僕とあるようさとします。
私たちが生きていくとき、神に向かい、イエスの姿を求めて自分の信念や理想を追求することは大事なことでしょう。けれども、周りに目を向けるべき人がいる、自分の横には、同じ歩みを共にしている人々がいることを忘れないようにしたいと思います。そしてそれこそが、「仕えられるためではなく仕えるために」来たイエスに従うことなのです。
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