メッセージ - C年 四旬節 |
コロナ感染が続いている中、ウクライナでの戦争で世の中が更に大変な状況に落いています。こんな時に、私たちはイエスの受難と死を思い起こしながら、信仰の中核であり頂点であるイエスの復活を迎える準備期間に入ります。
四旬節の第一主日の福音書に、あの有名なイエスの荒野での誘惑の場面が読まれます。この箇所に興味深いことがいろいろありますが、二点だけ取り上げたいと思います。一つは、イエスは『聖霊』に満ちて、ヨルダン川からお帰りになり、また『霊』によって荒野で引き回された、という記述です。ルカによれば、イエスは聖霊によって母マリアの胎内に宿られただけではなく、イエスの生涯は聖霊に導かれた生涯でもあります。また、ルカによれば、イエス亡き後の教会も、聖霊降臨の出来事で示されているように、常に聖霊に導かれているのです。イエスが繰り返す悪魔の誘惑に打ち勝つことが出来たのは、聖霊の力によるものだということです。
二つ目は、この箇所の最後に、イエスを誘惑することを失敗した悪魔は『時』が来るまで一旦イエスを離れた、とルカは伝えています。悪魔が再び戻って来るその『時』とはいつでしょうか。それは、イエスを裏切るイスカリオテのユダに悪魔が入って時に始まり、オリーブ山での祈りの時に続き、最後に十字架上の苦難の時まで続きます。しかし、荒野での誘惑と同様に、イエスは悪魔の誘惑を退け、救いの業を成し遂げることが出来ました。
私たちにとって、四旬節がイエスと共に歩む信仰の旅です。聖霊に強められて、日常直面している様々な誘惑に打ち勝ち、復活の喜びを迎えることができるように祈りながら。
メッセージ - C年 年間 |
今日のルカによる福音の中に朗読される「まず自分の目から丸太を取り除け。」というキリストの言葉はどれほど考えるべき、実行するべき言葉でしょう!
実は、私たちは自分の行いよりも、相手の失敗や足りないところが気になります。それは、皆よく知っていると思います。自分の側にいる夫、妻、上長、テレビニュースで見られる政治家などを「変だ。」「間違っている。」などと言い、自分が正しいと思います。
神様も私たちの正しさをお望みになる方です。しかし、近道を使ってはならないということを覚えなければなりません。キリストは「悪い実を結ぶ良い木はなく、また良い実を結ぶ悪い木はない。」と教えてくださいました。私たちの正しさは相手の姿を見て比較 するものではなく、自分自身の思い、言葉、行いによるものです!この3つのことに注目し、まず自分自身が良い木になり、良い実を結ぶように努力しましょう。
メッセージ - C年 年間 |
「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)とは、よくもこれほど厳しく、実現するのが難しいことを命じられます。悪口を言う者、侮辱する者、暴力を振るい、奪い取ろうとしてくる者のために祈り、親切にするように、という福音朗読(ルカ6:27-38)のイエスの言葉は、とてつもないチャレンジです。
ただ、「敵を愛する」とは、「嫌いな人を好きになる」ことではありません。もちろん、好きになることができれば一番いいでしょう。けれども、どんな人に対しても、どんな時にも、そうするというのは無理な話です。
しかし、すべての人を常に好きになることはできませんが、嫌いなままであっても、少なくともその人のことも神が愛し、受けいれてくださっていることを認めるということであれば、それほど不可能ではないかもしれません。怒りや悔しさを感じながらでも、相手のことを尊重することはできるかもしれません。私たちにとっては、絶対に好きになることではなく、無関心にならないことの方が重要なのかもしれません。「嫌なことをされたら忘れなさい、なかったことにしなさい」というのではなく、それでも目の前の相手に向き合って、徹底的に関わるように求められています。もし何もなければ、そこに神の愛は働きようがありません。
メッセージ - C年 年間 |
今日の福音には、自身の故郷であるナザレの会堂での場面が描かれています。この福音の中でイエスは、その人々に向かって「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と教えられています。イエスをよく知っていた故郷の人々は、イエスをよく知っていたがために、イエスの教えと行ったわざを素直に受け入れることができません。ましてガリラヤの出身で大工の息子であったということから、宗教的な教育もなく、特別な存在とは思われていなかったように思えます。それだけに、イエスの社会的な立場や出身だけに囚われて、イエスが伝えようとした神の言葉、神のわざを理解することができなかったように思えます。私たちにおいても、家族や友人などの近い人の言葉は、意外に素直に受け入れられないように思えます。しかし、そういった私たちの家族、学校や会社、私たちの生活の中にいる親しい友人など、一人ひとりの中にイエスがおり、その人々を通して、イエスは私たちに語り掛けています。
しかし福音の中で民衆たちはイエスの言葉を聞いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言い、その後のイエスの言葉を聞いて、町の外に追い出し、崖から突き落とそうとします。イエスという人を知っていたが故の偏見や思い込みであったように思えます。私たちにおいても、偏見や思い込みで人の助言や考えを受け入れることができないことがありますが、だからこそ謙遜と人への尊敬の態度が必要になり、その中に神のことばを見出す必要があります。私たちは様々な国籍や地位の人々に囲まれながら過ごしていますが、イエスはすべての人々のために遣わされ、そしてすべての人々とともにおられます。私たちがその中に居られるイエスを見出すことが謙遜と尊敬の態度に繋がるように思えます。そして私たちは一時的には感情的になり、受け入れることができない助言や考えであっても、自分の中で「イエスならばどう考えるのか、どう思うのか」というイエスの視点になって、祈りのうちに人々とともにおられる神の導きを見出さなければならないのだと思います。
メッセージ - C年 降誕節 |
洗礼という出来事は、イエスの生涯において大きな転換点、ターニングポイントでした。この後、いわゆる公生活といわれる、新しい生き方、宣教活動を始めるからです。マタイ福音書やルカ福音書の誕生物語を除けば、大人となったイエスの生涯はここを最初の出発点として描かれています。
「洗礼」という言葉の元々の意味は「水の中に浸す、沈める」ということです。現代のキリスト教の洗礼でも、教派や教会によっては、頭の先まで全身を水に沈めるというやり方をとります。洗礼の説明として、水の中に沈められるのが象徴的に「死」を表し、水中から出てくることが、死を通り抜けて「新しく生まれること」を意味しているのだ、とよく言われますが、そういう意味で洗礼が第二の誕生と言われるのもよく理解できます。
主の洗礼を祝うとき、キリスト者は同時に自分自身の洗礼の意味を再確認します。私たちは母親から生まれ出てきて、命をいただいて生きる者となりました。その後、洗礼を受けることによって、キリスト者はその命に明確な意味を与えられます。ただ生きるのではなくて、イエス・キリストの歩みに従って生きる者となります。洗礼を通して、命が、人生が、イエス・キリストに結びつけられ、神の国の福音に方向づけられます。
キリスト者にとって洗礼は一度きりのことですが、終わってしまった過去の出来事ではなく、この新しい命、生き方にいつも立ち戻って、日々新たに生きていくことです。