メッセージ - B年 祭祝日

今日は聖霊降臨にあたりますが、それに伴い第一朗読では使徒言行録の五旬祭の場面が描かれています。この五旬祭の場面で、イエスが約束されていた聖霊が弟子たちの上に注がれ、聖霊に満たされた弟子たちが、その場に集まっていた国の人たちの言葉で話し始めると書かれています。この中で聖霊は「激しい風が吹いてくるような音」、「炎のような舌が分かれ分かれになり」とよくわからない表現で形容されています。聖霊についてもう少し深めるため、旧約聖書での表現に触れたいと思います。

旧約聖書では聖霊、霊に「息」にあたる言葉を使っています。創世記の創造物語では、土で人を形作り、その鼻に神が息を送り、人が生きる者となるとあります。私たちも神から「息」を送られて生きる者となります。しかし「息」は私たちが日常的に吸ったり吐いたりしていますが、常にそれを意識している人は誰もいません。聖霊は今日の第一朗読で言われているように、度々「風」や「音」として表現され、私たちが目で捉えることができない、且つそれがなければ生きていくことができないものです。その意味で聖霊は私たちキリスト者が生きる上で欠かせないものだと言えると思います。

今日の第一朗読では、聖霊に満たされた使徒たちが、その場に集まっていた国の人たちの言葉で話し始めます。これは一見すると、私たちにとって理解不能な出来事にも見えます。しかし私は海外の宣教師たちが日本語を宣教のために学んでいる姿を見て、何となく理解できると感じることがあります。それは宣教師たちが司牧のために日本語を学び、日本語を通してイエスを証ししているように、使徒たちはイエスの証しを人々に伝えることを熱望し、その結果聖霊の恵みが与えられ、人々に福音を伝えるために話し始めたのだと思います。その意味で聖霊は私たちにキリスト者として生きる上で、本当に必要な助けを下さるのだと感じます。私たちにとって本当に重要なのは日々の生活の中で、如何にして聖霊を感じるか、更に言えば、私たちがキリスト者としてこの社会で何が本当に求められているのかを探し求めることにあると思います。そうして私たちが日々生活で聖霊を感じ、神から本当に必要な恵みが与えられるように共に祈りましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

使徒1:1-11; エフェ4:1-13; マル16:15-20

最近、大学一年生にイエスの生涯を紹介していた時に、学生から「奇跡が起こるとは思えない」、「イエスの復活や昇天は魔法のように聞こえる。本当にそのことが起こるとニュートンやアインシュタインは泣くだろう」など、科学に基づく常識や自然法則に反するようなイエスの話を信じることは難しいという反応がありました。その中で、「イエスの奇跡、復活や昇天などが本当に起こったかどうかは分かりませんが、イエスを信じる人々が『そうであって欲しい』という期待を持って語られているのではないか」と書いた学生がいます。

キリスト者にとって、イエスの復活や昇天が起こったかどうかという疑問は二の次です。そのような疑問は重要ではないという意味ではありません。それよりも、キリスト者にとって、主の昇天は弟子たちが体験する出来事を記念している中で、あの学生が言うように、イエスと同じように自分たちにも『そうであって欲しい』という希望、そして『そうである。そうなる』という信仰を表す出来事なのではないでしょうか。

今日の三つ朗読、それぞれイエスの昇天について伝えていますが、どれもイエスの昇天を独立した出来事としては伝えていない。そうではなく、イエスの昇天を救いの業全体(受難死、復活、昇天、聖霊降臨と弟子たちの派遣)の一貫として伝えています。イエスの生涯は受難と死につながる。死は復活とつながる。復活は昇天とつながる。昇天は聖霊降臨と弟子たちの派遣につながる、ということです。

つまり、昇天の日にイエスが天に昇られたのでこの世からいなくなったということを意味するのではありません。そうではなく、イエスが天に昇られるように、自分たちも天に昇られることが出来るという希望を持ちながら、聖霊に力づけられ、派遣されるということを意味するのです。昇天のお祝いは、第二朗読にあるように、今ここで自分に与えられた賜物を最大限に果たすという自覚を新たにすることにつながる恵みの時なのです。

主の昇天は魔法のような出来事、自然法則に逆らう出来事ではありません。また、単なる過去の出来事でもありません。主の昇天は、今ここに生きる私自身に関わる出来事なのです。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の主日の三つの朗読は愛というテーマを述べています。

使徒言行録の第一朗読は「人の分け隔て」をしない神の愛について、またこの愛に従うキリスト教宣教についてです。この宣教はカイサリアというパレスチナの地方で行われます。そこは、使徒ペトロによると、部隊の百人隊長のコルネリウスとその家の上に聖霊の賜物が注がれ、コルネリウスは神を賛美し始めます。神ご自身がコルネリウスとその仲間を憐れみ、救いの道を与えてくださいます。救いの道は、神様の愛のご計画によるものであり、既に啓示の中に使徒ペトロに現れたものなのです(使徒言行録10:1-33を調べれば)。神の啓示、またコルネリウスの希望に応えた使徒ペトロが初めて異邦人に向けて宣教することになります。

第二朗読は、使徒ヨハネの第一手紙です。ここにも神が伝えてくださった愛を実行するようにと呼ばれます。「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」と。さらに、神の愛に応答しない場合ははっきり教えます。「愛することのない者は、神を知りません」と。

ヨハネによる福音を見てみると、同じ愛のテーマとなっています。確かに、使徒ヨハネの手紙の言葉は、今日朗読される福音につながり、同じ意味を見出すことができます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス・キリストの命令に従う教えなのです。イエス・キリストが私たちの贖いのために人となり、十字架につけられ、葬られ、復活したということ、また「父から聞いたことすべてをあなたがたに知らせた」ということは全人類への最高の愛の証しなのです。

さて、現代、キリストの弟子となるあなたはどうでしょうか。イエス・キリストが示してくださった愛の証しを信じますか。キリストの愛に捉えられて、自分のそばにいる隣人を愛し、隣人の救いのために努めることを決意していますか。

 
メッセージ - B年 復活節

第一朗読(使徒言行録9:26-31)に登場するサウロ(パウロ)は生前のイエスに出会ったことがありませんでした。しかし回心の出来事を通して、弟子の仲間になり、命を狙われることになっても力強く「主の名によって恐れずに教えるように」なりました。

福音朗読(ヨハネ15:1-8)では、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とイエスが語っています。パウロは見たこともないイエスと、確かにつながっていた、ということでしょう。直接イエスの姿を見て、その言葉を耳にしたことがあっても、それはイエスとつながっていることになりません。福音書の中のイエスの言葉をすべて暗記していたとしても、それがイエスとつながっていることではありません。

第二朗読のヨハネの手紙(一ヨハネ3:18-24)では、「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知」ることができる、と言われています。イエスの言葉を生きるとき、そこにイエスとのつながりが生まれます。

復活節は、力強い「いのち」を実感した私たちが、毎日を生きていく力を与えられている、そんな気づきの時期です。イエスの言葉のうちに、豊かないのちの輝きを見出すことができますように。

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メッセージ - B年 復活節

今日の主日は、福音朗読の主題に従って「良き牧者の主日」と呼ばれています。2回もイエスは自分は(預言者たちが当時の指導者を批判して、その到来を予告していた)良い羊飼い、すなわち誠の、唯一の羊飼いであると主張しています。遊牧民でない私たちにはあまり伝わらないかもしれませんが、このイメージはとても奥深い、意味豊かなイメージです。何を含意しているでしょうか。比喩だからこそ一言では言えませんが、まず日雇い人とは違い自分に任されており、自分のものである羊たちを世話し、養い、導き、悪いものから守るという任務を授かっています。その羊たちである私たちを深く知り、とても親密な絆を持っています。常に一緒に暮らし、結局羊飼いも羊たちの中の「子羊」であると言えます。

もっと大事なのは、羊に必要なものを与えるだけでも、ただ命を分け与えるのでもなく、まさに自分自身の命を与えるということです。これは言うまでもなく自分の死の予告に他なりません。私たちが豊かな命を得るようにすることや、私たちを緑の牧場に導くことのためにイエスは大きな代価を払わなければなりませんでした。簡単にできる、楽で安いものではなかったのです。たくさんある中の最後の一匹の羊のためにも、必要ならば命を差し出してくださいます。このようなことをした、羊飼いと呼ばれる資格のある人は、イエスをおいて他にありません。

命を捧げたイエスはそれを自由にしました。偶然にそうなってしまったとか、父なる神からそうさせられたとかではありません。しかも、私たちに必ず感謝や返済を期待してそれをしたわけでもありません。しかし、この良き僕者の恩を理解したならば、私たちも自然にそれと似たものになっていきます。あるいは、その恩を本当に理解し、それに十分に与るためには、まずそれと似たものになるしかない、と言ったほうが適切かもしれません。1回限りのことではありません。復活したキリストは今でも自分の命を捧げ、分け与え続けています。この偉大な僕者と一緒にいるため、またこのイエスを本当に知るためには、私たちは似たものであり、似たものになっていくしかありません。