メッセージ - C年 年間 |
キリストは十二人の使徒たちと他の七十二人の弟子たちを任命し、ご自分が行くつもりの町や村に先に遣わされます。この選ばれた弟子たちの使命は、神の平和をすべての人に伝えることです。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」とキリストに説明されます。伝える平和は、世代から世代まで伝えられてきた神の平和なのです。すでに預言者イザヤを通して約束された平和であり、使徒パウロが十字架によってもたらしたキリストの平和なのです。
七十二人の弟子たちは、財布も、袋も、履物も持っていくなと言われ、二人ずつ遣わされます。二人ずつ遣わされた弟子たちは、まず神の国について証をするように勤められるのです。古代世界では、二人か三人が集まれば、確信を持って、裁判のなかでも力強く証することができます。何も持って行かないで遣わされたことには理由がいくつかあります。まず、神様への信頼です。必要な物は、着いた所で人々から与えられます。さらに、弟子たちは自分の名によってではなく、イエス・キリストの名によって宣教に行くのです。それは、自分の力、荷物などが必要ではありません。必要なのは神から与えられた権能なのです。宣教を終わってキリストの所に帰ってきた弟子たちは、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と喜びのうちに報告します。しかし、本当は、そのような喜びではなく、むしろ、彼らの名前が天に書き記されているということが喜びになるように招かれています。
みなさん、私たち自身もキリストの弟子となり、キリストの平和について証をするように呼ばれた者です。財布や重い荷物を持って旅立った遠いところの宣教ではなく、まず、毎日出会う人々に対する福音宣教が必要ではないかと思います。特別な自信を持たなくても、大丈夫だと思います。七十二人と同じようにイエス・キリストの名によって出かけ、信仰を持って自分が体験している神様の恵みについて簡単に分かち合いの話をし、「あなたにも平和があるように」と伝えることができます。キリストの弟子である私たち一人ひとりにもこのような素晴らしい使命があります!
メッセージ - C年 年間 |
この主日の福音朗読(ルカ9:51-62)では、イエスに従おうとする者たちへの、イエスの弟子になるための覚悟について述べられています。というのも、ここでイエスは「エルサレムに向かう決意を固められ」(9:51)、旅を始めるのですが、その旅の終着駅はゴルゴタの丘の十字架だからです。その旅の始まりにあたり、弟子たちに「それでも私についてくる覚悟があるのか」という厳しい問いかけがされているのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」、「死んだ父親は死んだ者に任せて葬らせ、自分は神の国を言い広めなさい」、「鋤に手を掛けて後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」、このような極端な言葉も、上記のような背景を考えると、よく理解できると思います。
私たちにとって、現実的にはこのような厳しい条件を満たす必要はないでしょう。寝るところ、住むところはありますし、家族や親しい人が亡くなれば、そのために葬儀にも参列します。別れを告げずに家族と離れることもありません。けれども、私たちにとって、イエスに従おうとするなら、何を優先するのか、何が私たちにとって一番大切なことなのか、それを見極めて選ぶという意味では、弟子たちにとっても私たちにとっても同じことでしょう。
そしてこの厳しさは、私たちが自分自身に向けて問いかけるものであって、他の人に向けて攻撃したり裁いたりするものではありません。イエスを歓迎しなかったサマリア人に対して、「火で焼き滅ぼしましょうか」というヤコブとヨハネの態度を戒めたイエスの姿に、それを見ることができます。
メッセージ - C年 年間 |
この主日の福音朗読の箇所は、五つのパンと二匹の魚パンによって、男だけで五千人もの人が満たされた、というイエスの奇跡の出来事(ルカ9:11b-17)です。もちろん、お話としてのインパクトはその奇跡の部分にありますが、本当に大切なことは、もっと目立たないところにあるような気がします。
たった五つのパンが解散するはずだった五千人を一つにしました。日が傾きかけて、十二人の使徒たちが言ったように、もう後は三々五々バラバラに別れて帰るしかなかった大勢の人たちが、これによって一つにとどめられました。あちこちの異なる村々からやって来た人たちを、このパンが一つに結びつけました。この交わりに、「すべての人」(9:17)が招き入れられ、パンが与えられました。お金がある人、社会的地位が高い人だけが優先して手に入れられたのではなく、誰一人、その交わりからこぼれ落ちることはありませんでした。
イエスが神の国について語り、病人のいやしを行っていたときのことだった(9:11)、というのも象徴的です。イエスが語る神の国とはどんなものなのか、そのメッセージと深く結びついている出来事ではないかと思います。
メッセージ - C年 年間 |
三位一体の主日ということで、「父と子と聖霊」という三位一体の神に関連した朗読箇所が選ばれています。
第一朗読(箴言8:22-31)に見られる、創造に先立って存在した「知恵」は、神のことばであるキリストに重ね合わせられます。
第二朗読(ローマ5:1-5)では、キリストこそ私たちと神との間を結ぶ者であり、また聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれる、と語られます。
福音朗読(ヨハネ16:12-155)では、父である神のものは子であるイエス・キリストのもの、イエスのものを聖霊は弟子たちに告げる、と言われます。
「三位一体の神」、「三なのに一」とは、よくわからない、理解できないことですが、少なくとも上記のような聖書箇所から見て取れるのは、そこに示されている「神」は開かれている、ということです。聖書に描かれている神は、全能の神だからといって、他者を寄せつけない神ではない、ということです。むしろ自分を開き、積極的に関わりを持とうとする神です。そして、その関わりに招かれているのは、私たち自身です。
メッセージ - C年 復活節 |
今日の聖霊降臨に読まれる第一朗読では、弟子たちに聖霊が下った場面が読まれています。この中で聖霊に満たされた弟子たちは、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と書かれています。この箇所を読むとき、いつも思い出すのは、海外司牧研修中に行っていた聖書分かち合いです。言語に堪能ではなかったのでいつも不安だったのですが、不思議と通じていたようでした。この時に、私たちが互いに歩み寄ろう、理解しようとする間に聖霊はいつも働いており、弟子たちに起こった聖霊降臨の出来事も弟子たちが福音を伝えようとする熱意の中に、聖霊が働いていたのではないかと感じるようになりました。
福音でイエスは弟子たちに聖霊を送る約束をしていますが、その前に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われています。それは聖霊の約束と一見関係のないように見えますが、そうではないように感じます。それは聖霊がイエスの掟を守るように、すなわち互いに愛し合いなさいという掟に私たちを導くからです。だからこそ、私たちが人を理解しよう、人に寄り添おうとするときに、聖霊は私たちを導くということを忘れてはならないように思えます。