メッセージ - C年 降誕節 |
今年は少し早いのですが、今日は公現祭(エピファニー)を祝います。先日読まれていた福音と違って、主人公は羊飼いたちでも聖家族(マリラとヨセフ)でも天使でもなく、異教徒の学者たちです。厳密に言えば、3つのカテゴリーの登場人物がいます。
(1)ヘロデ王はユダヤ人のはずですが、侵略者であるローマ人と仲良くして、自分の権力を保つために色々と妥協をする人です。そのためにローマ帝国からも許容されています。とにかく何としてでも王の位を自分のために取っておきたいことが特徴的です。他方で、神から遣わされた救い主は暴力など使って自分の支配を広げる必要もなく、愛と奉仕と自己犠牲によって人々の心を勝ち得ることになります。飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエスは、この高貴な服を着て贅沢な宮殿で恐る恐る暮らしているこの人間の王に遥かに優っています。
(2)律法学者はユダヤ人のエリートの知識人と指導者たちです。聞かれると、確かにメシアについての預言など色々知っていることが分かります。しかし、特にそれを深く信じて、待ち焦がれている印象は伺えません。社会で高い地位を味わっているにもかかわらず、宗教家としての自分の使命をまじめに果たさず、自分の利益のために習慣を守り行事だけ行っていたのではないでしょうか。それに対して、生まれてくるメシアは、真の礼拝をもたらし、ユダヤ人と異邦人との間の壁が壊され、神の言葉が書物として読まれるのではなく人間の心に刻まれる時代をもたらします。また、この律法学者たちが示しているのは、メシアの到来は突然の気まぐれな神の決定ではなく、かつてから計画されて、準備されて、預言されてきた出来事であるということです。
(3)異邦人の占星術の博士たちは、その数は定かではありませんが、贈り物の数から推定して3人だったという伝統があります。(特にドイツのケルン大聖堂にはその伝統がとても古くて盛んだそうです。)彼らは「星」というふうに表現されている何らかの印に従い、特別な身分として生まれてくるメシアに会いたいと切に願っています。ただの赤ちゃんでないイエスを来るべき王として拝む理由はなかったにもかかわらず、自然などに表れる神の導きに素直に従うことができました。メシアはやがて全ての国民の解放者、指導者となることを指し示しています。私たちも、聖書の約束に加えて、彼らのように日々の生活を通して印を与えてくださる神の指導に従うことができるようになると良いです。真理がどこに導いていっても、それを弛まず追求する恵みを願わねばなりません。それに、ただ好奇心を持ってではなく、公に自分を現す神であるイエスを熱い思いで、苦労を惜しまずに探し求める恵みも願おうではありませんか。
メッセージ - C年 降誕節 |
今日、聖家族の祝日で読まれる福音では、少年時代のイエスが両親とともにイスラエルに上った時の話が描かれています。この両親はイエスがエルサレムに残っていることに気づかず帰りますが、イエスが居ないことに気づくと道を引き返しながら、三日間、イエスを探し続けます。そしてイエスを神殿の境内で見つけると、母マリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とイエスを叱っています。この場面は福音書の中でも、普通の両親の姿に近しい姿を感じます。マリアの一言は、福音書の中でも最も母親らしいのように思えますし、何も言わずに心配しイエスを探し続けるヨセフの姿も父親らしい姿と言えるように思えます。そしてイエスを心配する両親の姿は最も家族と言えるように思えます。この聖家族を祝う私たちですが、私たちですが、私たちが何故、聖家族を模範として崇敬しているのでしょうか?また私たちにとって聖家族がもたらす意味は何なのでしょうか?
マリアは当然のことながら、イエスの心配をしていた様子がその一言から読み取れます。一方でヨセフは聖書の中では一言も言葉を発していませんが、イエスが生まれてから、エジプトへ逃れたり、エルサレムに上ったりしているところを見ると、父親の存在と支えがあったからこそ、家族が守られていたように思えます。そしてそのことが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」という一言から伺えます。聖家族は神聖視されがちなように思われますが、母マリアと父ヨセフが、それぞれの仕方を通して、幼いイエスを守りながら生活していたということを考えたとき、普通の家庭と同じように互いに支えながら家族を守っていたように思えます。だからこそ私たちがそれぞれ家族、そして子どものことを想いながら、家庭を育むときに、その愛を主は祝福されています。そして私たちは家庭での愛を通して、神の愛が家族の愛を通して、知ることができるのだと思います。
また私たちの教会も一つの家族と言えます。各々がそれぞれの場で互いに奉仕し、支え合うとき、その奉仕が互いを想い、イエスの愛に繋がっているならば、そこにイエスが共におられるのだと言えます。奉仕の仕方は人それぞれですが、互いに愛で繋がっていることが大切であり、聖家族がそうであったように、私たちの絆をも主が祝福してくださるはずです。
メッセージ - C年 降誕節 |
次のような話があります。めちゃくちゃな人生を送ったある若者が死んで、そのまま地獄に入りました。そして、地獄の大きな扉が閉められました。そのことを知った天国にいる家族や知り合いは、何とかして若者を地獄から救おうとしました。最初に、彼の親友が地獄に行きました。サタンに会って、地獄の扉を開けて、若者を出してくれるように頼みました。しかし、サタンはそれを許しませんでした。次に、その人の主任司祭が地獄に行きました。『私はあの人の主任司祭です。彼のことを良く知っています。確かに色々めちゃなことをしましたが、根は悪い人ではないです。もう少し時間をあげてください。私の指導の下で彼は必ず良くなります。地獄のドアを開けて、彼を出してください』とサタンに頼みました。しかし、サタンは許しませんでした。最後に、その人の母親が地獄に行きました。彼女は静かに地獄の扉に近づいて、そしてサタンに言いました『息子を出してくださいとは言いません。扉を開けて、私を中に入らせてください。息子がもう出られないなら、私が中に入ります』。たちまち地獄の大きな扉が開きました。
クリスマス、受肉の神秘は、正に、地獄に閉じ込められている私たちのところに神は救いに来てくださる。自分ではもうどうしようもない私を救うために、神は愛を持って自分もその中に入る、そういうような出来事なのです。クリスマスは、私達の想像を超える出来事です。もう救われようがない私達を救うために、神がとった大胆な行動です。神が人間となる。無限の存在が限られている時間と空間の中に入る。天地万物を造られた全能の神が、無力な一人の人間、赤ん坊として生まれる。人間を救うために。自分自身を救うことが出来ない私のために神はこの世にきたということです。何とありがたいことか。何ともったいないことか。しかし、これは神が取った最終的な大胆な行動です。人類にとっての良い知らせです。山々を巡っても、声を張り上げて世界に伝えなければならない良い知らせです。
メッセージ - C年 降誕節 |
クリスマスは大昔のイスラエルの預言者たちによって予告された救い主の誕生です。第一朗読のイザヤの予言には「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と書かれています。光は明るさと暖かさ、命をもたらすものなのです。間違いなく、光がなければ、この世に見えるすべての命が消えるわけです。預言者イザヤが知らせる光は、救いの望みを意味する光であり、神様が与えてくださる新しい命をもたらす光なのです。この光は今日お生まれになった救い主イエス·キリストご自身です。
この誕生については、ルカ福音書に記録されています。救い主が、ダビデの町、小さいベツレヘムでお生まれになった夜、明るくなった空の中に天使が現れ、野宿する羊飼いたちに次のように言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と。「恐れるな」という天使の言葉は全ての人に聞いてもらいたいと思います。今 2021年が終わろうとしていますが、神の救いを探し求め、神の救いに与かりたい人が多いからです。それは、おかした罪、不信仰、さまざまな悩みの形となっている闇から出て、神様の恵みのうちに生きるためです。
キリストの誕生、神様の救いは、今洗礼を受けているキリスト教信徒のものだけなのではないかと考える方がみえるかもしれませんが、第二朗読の中に使徒パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」と言い、イエス·キリストの救いは、全ての人々に与えられたものだと伝えています。神の救いを望む人はだれでも、神様の救いに与ることができます!
ベツレヘム地方で夜通し目覚めている羊飼いたちのように、神の栄光を見て「恐れるな」という言葉を心に受け止めるようにしましょう。救い主イエス·キリストは、私たち自身のためにお生まれになったこと、この世に現れた光のうちに生きることを喜びましう!
メッセージ - C年 待降節 |
待降節にはイエス·キリストの誕生を目指し、飼い葉桶に寝かせた美しい赤ちゃんの姿が現れるのを待っていると思います。イエス·キリストの誕生は全世界の人々、全ての時代の人々にとって救いの訪ずれとなり、全被造物を喜ばせるものとなっています。人間の歴史にとってこの救いの訪ずれは、一番偉大な出来事となり、神様がお考えになった救いの計画によるものです。私たちの考えによる「歴史を造った人」とは、偉い人、権力を持つ人、大きいエンパイアを造った人だと思っていますが、世の救いの計画を成し遂げるために神様は、小さいものとなるイスラエルの民、小さいダビデの街、若いイスラエルの娘となる乙女マリアをお選びになったと聖書の中に書いてあります。
今日朗読される第一朗読のミカの預言によると、イスラエルを治め、平和をもたらす方は、小さなベツレヘムの街でお生まれになると伝えられています。「エフライムのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さきもの。お前の中からわたしのためにイスラエルを治める者がでる。」とあります。
第二朗読のヘブライ人への手紙は詩篇40篇を唱え、イエス·キリストは、神の御心を行うために来られ、ただ一度イエス·キリストの体が捧げられたことによって、わたしたちは聖なる者とされたと伝えて、救いは人間が備える捧げ物によるものではなく、神の御心によるものであるとはっきり伝えています。
ルカによる福音は「エリサベトの訪問」という箇所があり、現れた神の救いの計画が乙女マリアのうちに成し遂げられたと伝えています。「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたからです!
みなさん、今週待降節第四主日を迎え、まもなくクリスマスになります。神の救いのご計画を告げた預言者たち、天使の言葉を信じた聖母マリア、神の業を証したエリサベトのことを考たら、クリスマスの真の意味を見出すことができると思います。やはり、クリスマスとは、ピカピカする飾り、懐かしい音楽、クッキーなどよりも、現れた神の救いを喜ぶ時期なのです。このようなクリスマスの喜びを持ち、お生まれになったイエス·キリストをとおして私たちに与えられた神の救いを信じ、それに与ることができますように祈り求めましょう。